里の中心で愛を叫ぶ
コウ様
3.思い出と現実
「……で、その時には謝ってくれたんですよ」
先程から勝手に耳に入ってくる声は、差し詰めやや不快なBGMだった。
場所が違えば、また違ったように受け取れただろう。
正確に言えば、耳から入ってきてもう片方の耳へと抜けていくだけだ。
「聴いて下さいよ〜」と勝手に喋り始めた事である。
内容をしっかりと理解してやる義理は、サクラには取りあえず無い。
何より今は、大事な実験中だ。
隣の後輩から延々と聞かされる単語から推測するに、恋人との仲をただ聴いて貰いたいらしい。
サクラは相槌こそするが、視線と思考は眼前のメスピペットの目盛へと集中させている。
ごく微量で反応させる試薬なので、少しも間違える訳にはいかない。
どうしたらいいですか、という締めでは無かったものの出来るだけ穏やかに返す。
「ねえ。……思うに、一旦距離を置いてみたらどうかしら。私にはそういう人がいないから憶測でしかないけど…」
「…え!?サクラさん、カレシいないんですか?」
なぜそこに喰いつく。
サクラは集中して試薬に目を凝らす、振りをして目を据わらせた。
興味津々に此方へ向く後輩の顔には、意外だ、と書かれていた。
サクラは横目で彼女を見遣る。
彼女は3つ下の忍。
まだ医忍を目指したばかりの端くれである。
そしてもちろん、あの残酷な戦争の前線には出ていない。
かの大戦において最も年少者であったのは、おそらく自分たちの世代だろうと思う。
ここでの研修期間を終えて戻れば、その『ヘタレ彼氏』とやらと直ぐにでも一緒になるつもりかも知れない。
年頃の男女は恋愛をするのが当たり前と見える。
まるで昔の自分を見ているようで自嘲した。
「ごめんなさい…てっきり…」
「………別に気にしてないから」
落ち着いた口調で返す。
内心、せっかくの助言そっちのけかよ…、という気はしたのだが。
戦争を知らないのだ、殺伐とした忍社会に未だ疎いのは仕方ない。
「ホントにごめんなさい。」
「――――今度からは、口よりも手を動かしてくれるかしら」
余り何度も謝罪されては、此方としても立つ瀬が無い。
話題を変えようと、本来の作業であるサンプル散布を促した。
「はぁい…」と明らかに肩を落としている様子に内心で溜息を吐く。
並べた無数の培地シャーレに向かう横顔を一瞥した。
そこで、止まる。
「…ねえ、あなた何の試験をしてるんだっけ?」
「え?」
「その試薬、必要なの?」
「え…、あっ!ごめんなさ〜い!間違えちゃった…!」
彼女の悲鳴が研究室内に響く。
今ここに、他の者が居なくてよかったと思う。
げんなりとしながら、片づけを指示した。
「……ねえ、こんなこと言いたくないけど」
菌検査の培地臭を避けるために、マスクをしながら処理を進める。
今度ばかりは、彼女も黙々と進めていた。
「職場にプライベート持ち込むのってどうかと思う。現にあなたがこの数時間やっていたことが、全く意味なかったんじゃない」
「……はい、すみません。すぐにやり直します…」
叱るって、やだな。
胸がチクリとする事は苦手だ。
時々まるで、自分の権限を振りかざしているみたいだと思う。
実際には正しい方向へ導くために必要な事だとは十分理解している。
素直に聴いてくれればいいのに。
感情任せに叱った後でも、へらへらと笑っている人物をが浮かぶ。
愚痴も何もかもぶちまけても、何のわだかまり残らないたった一人の人物だ。
「おしゃべりしてたのは謝ります…。でも試薬を間違えた事と私の将来の事は別にして欲しいです」
失礼します、と一礼して彼女は試薬部屋へと向かっていった。
これからやり直すのだ、最初の行程からの試薬を全て集めて来なければならない。
サクラは首を傾げる。
胸にわだかまりが重く残っている。
一括して考えようとしていたのは、確かにサクラの方だ。
彼女のミスを直前までの行動と結び付けて非難するのは、厳密に言えば理に適っていなかったのかも知れない。
「――――私も悪いっていうこと…?」
何なのよ、鼻息を荒くする。
「よう、おつかれ」
先程の彼女と入れ替わりに、同じチームの上司が入ってきた。
お疲れ様です、再び集中しながら淡々と返す。
「さっきの、どうしたい?えらいしょんぼりしちまってたけどな」
彼はドアの方を顎でしゃくって言った。
サクラは、手を止めずに小さく溜息を吐いた。
「……私が叱ったからですよ」
「ははっ、春野。またか?」
「またって何ですか!?」
撹拌させる為、試験管を強く振りながら彼を睨んだ。
知らず語調も強くなる。
「そういうとこが、おっかないんじゃねぇの?特に女の子には」
大袈裟に肩を竦ませながら笑う上司から、顔を逸らせる。
馬鹿馬鹿しくて聴いていられない。
「悪かったですね…っ」
今までこういうふうに過ごしてきたので、口の中でぼそりと漏らした。
仲良しごっこをする為に医療班の研究チームに所属している訳では無い。
言いたい事、おかしいと思った事ははっきりと言う。
チームワークの為には、その考えもずれているとでも言うのか。
多数の試験管を遠心分離機にかけると、ビーカーなどを洗浄するために流しへと運ぶ。
知らず足音も立ててしまう。
戻りましたー、と先の彼女がドアを開けた。
サクラは其方には目をくれずに蛇口をひねる。
上司が明るい声で迎えたのだから、それだけで十分だろう。
ジャ――――…
盛大な水音が、不貞腐れたように耳に入る。
サクラは流しに突っ立ったまま、そのうねる水面を暫し見ていた。