まろやかな棘



まろやかな棘




(注)この話は、2013/10/27のサイサクプチオンリー合わせで発行したコピー本の再録です。小部数発行のため、サイトに掲載しました。春野さんが、酸いも甘いも噛み分けた大人の女という設定です。苦手な方はご注意ください。




   一.




 サクラが対峙した敵は、霧だった。
 忍界大戦を経験した今となっては、忍術のバリエーションは信じられないほど多彩で、時として人智をはるかに超えるのだと、細胞レベルまで刻み込まれている。
 重力を自在に操ったり、肉体を別の空間に飛ばしたり、霊体になって飛び回ったり。忍術に限界はないのだと、知った風を気取ってはいたけれど、まだまだ世界は広いらしい。霧が実体に変わる様を目の当たりにすれば、「そんな能力ってアリ!?」と思わず叫びたくもなる。
 ようやくのことで敵の背後を取り、首の動脈をクナイで掻っ切ろうとするのだが、刃が皮膚に届く寸前で、身体が霧散してしまった。分身でも、幻術でもない。これほどの手練を相手にするのは、久々だった。
 この調子で交戦をしていても、埒が明かない。じりじりと体力を奪われるだけだ。相手の得意フィールドに引きずられる前に取れる方法は、ただひとつ。肉を切らせて骨を断つしかない。
 サクラが考えた作戦は、単純だった。まずはその場から徐々に後退し、怪我をしない程度に隙を晒すことで、敵に自らの優位性を着実に植え付けさせる。それと同時に、移動速度を緩やかに落とし、このまま交戦し続ける体力は残っていないはずだと敵に誤認情報を刷り込ませる。その二つが揃ってからが、勝負だ。
 サクラが時折繰り出す攻撃は、敵の目からすれば破れかぶれにしか見えないだろうが、その実、「どう料理してやろうか」と舌なめずりをする敵のサディスティックな一面を、冷静に看破していた。
 霧がサクラの身体に届き、敵が実体化した瞬間を狙って、チャクラを一点集中させた拳を頭にブチ込む。当初のシナリオ通りに事は進みかけていたのだが、霧が実体化する際、予想の軌道とズレが生じ、うっかり臓器の一部分を持ってかれてしまった。しかもよりによって、急所である肝臓だ。
 腹を貫く腕が抜けてしまえば、万事休す。幼い子供に手足をもがれる昆虫のように、身体を弄ばれるだろう。生き延びるための道筋が、いよいよ消えかかる。
 サクラは、身体に刺さっている血みどろの腕をむんずと掴み、ぎりと奥歯を食いしばりながら、脳漿が飛び散るほどの一撃を敵の頭に食らわせた。頭が吹っ飛んだのと同時に、敵の身体は地面の窪みに何度も跳ね上げられ、転がった先に生えていた木の根元に引っかかることでようやく止まり、ピクリとも動かなくなった。サクラは事切れた敵の身体に目を向けることなく、医療忍術を腹に施しながら、大樹の幹にずるずるともたれかかる。
 額に溜め続けているチャクラは、まだ七割ほどだった。すべてを臓器に注ぎ込んだところで、修復が間に合うかどうか。それは賭けでしかない。サクラは荒い呼吸のまま顎を持ち上げ、薄暗い曇天をぼんやりと眺めた。雨になれば体力を奪われるので、この場所からすぐさま移動するのが得策だった。
「動くの、きついな」
 声を出すのは、二週間ぶりだった。単独任務なので、会話を交わす相手などいない。里を出る前に預けて来た遺書には、何を綴っただろうか。もう忘れている。伝え損ねたことは、何かないだろうか。
 今にも泣き出しそうな曇り空を、黒い鳥がすぅっと横切る。網膜に残った残像は、一人の男を思い起こさせた。黒い髪に、黒い服。極端に色素が薄い肌なのだが、その印象は、黒一色だった。
 心の機微を読み取ることは不得手なくせに、サクラの胸中を察することだけは誰より長けていて、痛々しい真実を幾度となく突きつけられた。触れて欲しくない場所ばかりを暴かれて、あの男の前に立っていると、裸にされているような感覚に陥った。
「……寝ておけば、よかったか」
 無意識に零れ落ちた言葉に動揺するほど、幼くはない。男を取っ替え引っ替えするほど遊んではいないが、それなりに愛し愛された経験がある。七班の影を払拭するかのように、皆が皆、タイプの違う男だった。
 今わの際とも言っていい現状で、なぜかサイのことを思う。欲とは一番遠いところにある存在だからだろうか。サスケだって潔癖さでは負けていないのだが、サイは抜きん出て異質だった。なにしろ感情的になることがない。気持ちの高ぶりを抑えきれず、相手に身勝手な癇癪をぶつけた挙句、自己嫌悪に陥る。そんな間違いはきっと起こさないだろう。サクラとは、まるで正反対だ。
 やはり一度くらい、寝ておけばよかった。
 そう、あてどなく思う。そのうちに、ここで死に掛けている状況が、なんだか勿体なくなった。こんな鬱蒼とした森の中で人生の幕を引くなんて、あまりに惜しい。
 ふう、と大きく息を吐くと、力を振り絞って、身体を持ち上げる。移動途中の休憩に使った洞穴が、一キロほど歩いた先にあるはずだ。じっとしていたって痛む傷は、身動ぎするたびに、意識が吹っ飛びそうなほど響く。それでも泣き言ひとつ漏らすことなく足を動かし続け、サクラは洞穴を目指した。



 洞穴に辿り着いた後は、丸一日、そこから動けなかった。岩盤に腰を落としてから半刻もしないうちに雨が降りはじめ、あの場に留まっていたらきっと、命を落としていただろうと確信した。
 地道にチャクラを注ぎ続けた結果、傷を塞ぐことには成功したが、それと引き換えに、額のチャクラ量は、大幅に目減りをしてしまった。この先、百豪の印を解放するには、さらに数年の時間が必要となったわけだが、任務において好条件下で戦えること自体が稀であり、チャクラ量をいくら気にしたところで、死んでしまったら元も子もない。こうして生き延びられたことが、今回の収穫だ。
 腹に右手を翳して、損傷箇所を確かめる。臓器はもちろん、皮膚さえも自画自賛したくなるほど綺麗に修復されていた。「さすが私」なんて声を、思わず上げてしまう。
 いつの間にか雨はあがり、洞穴の入り口からは、陽光のカーテンがキラキラと輝いていた。サクラは、兵糧丸で動けるだけのエネルギーを補給すると、岩肌に手を添えて立ち上がる。手も足も、問題なくスムーズに動いた。となれば、里に帰るとしよう。
 あの男と、寝るために。




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