九. 忘年会続きで疲れきっていたが、気の置けない友人とどうしても飲みたくなり、仕事あがりに飲みに行こうと誘いをかけた。接待疲れをしていたのは、いのも同じらしい。行きつけの店で合流しようとすぐに段取りがついた。椅子に座ってしまうと長居することが確実なので、選んだのは立ち飲み屋だった。佐藤の黒が600円で飲めるという貴重な店で、仕事帰りにふらりと一人で入って、二杯ほど飲んで帰る時もしばしばある。 「お疲れー。ビールくれー」 いのは店の中に入るなり、カウンターに突っ伏してビールを欲した。プレミアムの瓶を店主に頼むと、「わかってるねー」といのが嬉しそうに言う。 「早く後輩入って欲しいわ。若い若いって言われてるうちは、接待で使い倒されるだけよね。おっさん達にお酌すんの、もうやだー」 なおも嘆き続けるいのの前に、店主が瓶とコップが置く。サクラは黙ってそれを手に取り、コップを持てと言わんばかりに瓶を持ち上げた。いのも意図を汲み取って、グラスをサクラの方に寄せる。 「接待って、ほとんど瓶でしょ。私、生の方が好きなのよね」 「とかいって、焼酎が一番いいんでしょ?」 「最近、勘違いして触ってくるやつに、いいちこ濃い目に作って酔わせて帰すのが趣味」 「あはは、悪い奴め。とりあえず、乾杯」 カチンとグラスを合わせると、くいっと一杯。接待とは、全く味が違う。あんなにも味のない酒は、そうそう飲めない。ちっとも酔わないのだ。 「まだ家庭教師やってんの?」 「うん」 「よく続くね。ノー残業デーを慈善事業にあてるとは、ボランティア精神に感服するわ」 「そういうんじゃないのよ」 サクラは串入れに寄りかかっているメニューを引っ張り上げて、今日のアテは何にしようかと悩みはじめる。ここ最近コース料理が続いているので、軽めのものがいい。冷奴に出汁巻き卵、野菜の串も魅力的だ。 「またまた。私には真似できないっての」 「たぶんね、あの子、頭いいのよ。勉強のやり方、知らないだけだわ」 辞書での調べ方と、文法の使い方。それを丁寧に教えてやると、時間はかかるが、根気強く英文を読み解こうとする。 「私思うんだけどさ、スポーツって頭よくないとできないよね?」 「うん、そうかも」 いのの推測に、納得する。だいたい、戦略を駆使するゲームなんて、囲碁や将棋と同じだ。使いこなす頭脳がいる。 「サインとかセオリーを覚えてさ、相手と駆け引きして、自分で判断するわけでしょ?勉強だって、公式と使い方覚えたら平均点ぐらいは取れるじゃない。ただ単に、苦手意識が強いだけなのかもね」 「確かに、苦手意識は根強い」 「英文を見るだけで、身構えちゃうのかな」 「慣れちゃえばいいかな、と思ってさ。昔使ってたiPod、渡してみたのね。そしたら、耳コピで完璧に歌い上げたのよ。あれには驚いたわ」 「へー!それ、すごい特技じゃない。スポーツできる人って、目とか耳とかいいのかね」 「そういうことじゃないかな。だからさ、教え甲斐あるよ?何より真面目だし」 「ねえ、まだ考えられない?」 話題がガラリと変わり、サクラはグラスに口をつけながら、ちらりと隣に目を配る。 「何を」 「あの子、きっとあんたのこと、好きよ」 「……そうかもって思う時は、ある」 「気づいてない振りでもしてるわけ?」 「もー、そうじゃないってー。勉強を見るって約束なわけだから、会うのやめましょうとは言えないでしょ?実際、途中で放り投げる気もないし」 絶対に言われると思った。唇を尖らせて、サクラは反論する。乗りかかった船とは、こういうことを言うのだ。できるならば、単位を取れるまで見届けたいと願っている。 「ちょっと興味あってさ、いつだったか、あんたと喋ってるところ見てたのよ、私。顔真っ赤にして、必死に喋ろうとして、なんか可愛かったなあ」 「……悪趣味」 「そうですよー。恋愛覗き見大好き」 視線でいのを咎めるが、どこ吹く風、そ知らぬ顔で瓶からビールを注ぐ。 「年上じゃないと、やっぱりダメなわけ?」 「話とか好みが合わないのよ……」 サクラは、今まで一度も同級生を好きになったことがなかった。年下など、論外。付き合ったのは、全員年上。それでも少し子供っぽいなと思うことがあったし、一番続いたのは大学の時に付き合っていた5歳上のサラリーマンだった。仕事が急に忙しくなったとかで会えなくなったが、あれは浮気かなーと今でも思う。あまり男運がいいとは言えない人生だった。 「可愛いけどね、年下」 「あんた、抵抗ないもんね」 「男はさ、ちょっと子供っぽいとこがあるくらいが、ちょうどいいのよ」 その懐の深さが、サクラは羨ましかった。男に夢を見すぎなのかしらね、と自身の狭量さをしばし嘆いてみたりする。年上年下同い年。そんな区切りを作ってしまうこと自体がバカバカしい。それをわかっていながらも心がついていかなくて、そういう自分の不器用さが時々疎ましい。もうちょっと柔軟性があれば、違う景色が見えるのかしら。そんなことを思いながら、焼酎の入ったグラスを傾けた。 その後は、二杯飲んで店を出た。部屋に帰ると、ちゃぶ台の上にはナルトから借りた教科書が乗っている。会議で時々使うICレコーダーで、教科書の頭から音読して録音しようと思ったのだ。あの調子なら、すぐに音読ぐらいマスターするだろう。今日は時間もあるし、やってしまおうか。 どうして自分が、ここまで時間を割くのか。サクラはよくわからずにいる。確かに彼は優秀な生徒で、教え甲斐がある。ラグビー部の彼をどうしても思い起こしてしまって、放っておけないのも事実だ。しかし、家庭教師とは違って、こちらは無償で勉強を見ている。お金の申し出を何度か受けたが、好きでやっていることだからと言って断った。 化粧を落として、風呂に入って、ちゃぶ台に座る。教科書を開くと、ちょっと不器用なアルファベットと読み方を書きつけたカタカナが、そこかしこに散らばっていた。 「……熱心よね」 それは、自分に対してか。はたまた彼に対してか。 深呼吸を、一回。そして、ICレコーダーのスイッチを入れると、学生時代に講義を受けた英文を音読しはじめた。 2015/1/26
|