つぼみの頃



つぼみの頃




   十.


 あの人と勉強をするようになって、一ヶ月が過ぎた。
 勉強会は、週に一度。駅前のガストとビッグエコーを行ったりきたり。今日は英文法の日なので、ガストで待ち合わせだった。先週末、水曜日は都合が悪いとのことで、火曜日に前倒しをさせて欲しいと電話があった時は、声が聞けたことに喜びを隠しきれなかったが、都合が悪いのなら延期でいいですよ、と言えない自分が情けなかった。
 いつもの席に座って、前に教わったことを辿りながら英文を読んでいると、あの人が店にやってくる。
「えらいね、復習してるの」
「……そんぐらいのことやっとかないと、春に間に合わないんで……」
 単位を取ることは、ナルトにとって重要な責務だった。もちろん彼女はそんなことを言わない。「頑張ってね」という言葉はプレッシャーになるどころか、発奮の材料になった。ただ、ナルトが自分自身にそれを課しているだけだ。野球以外で、誰かの期待にこんなにも応えたいと思ったことはない。いや、野球でも経験したことがないかもしれない。今、練習以外に割ける自分の時間を、全部英語の勉強に注ぎ込んでいた。
 文章を区切って、意味を調べる。その基本作業を繰り返し行うことで、単語を調べればわかることが多いとナルトは理解した。単語の意味が多すぎて頭がパンクしそうになると、一度リセットして、次の単語を調べる。単語と単語を結びつける言葉を探すのは、まだちょっと難しい。その時は、素直にサクラに聞いて、訳し方のコツを教えてもらった。




 アラームが鳴ると、集中から一気に解き放たれて、身体全体が弛緩する。
「よし、今日はここまでにしよう」
 最初はほんの短い文章しか追えなかったのに、今日は単語が6つも出てくる文章を読み解いた。満足げに微笑んで、ノートを見る。この達成感は、野球では得られない。
「帰省するの?」
「いえ、練習もあるんで、フツーに寮暮らしっす」
「おせちとかお雑煮とか出るのかな」
「年末年始は寮に来てくれるおばちゃんが休みなんで、自分らで作るんです。おせちは、さすがに……」
「じゃあ、お雑煮?」
「ウチは、鏡開きの日に、おしるこです。寮のおばちゃんが炊いたアンコ、超うまいんです」
 勉強会が終わった後、白玉ぜんざいを頼むのがナルトの習慣だった。昔からアンコに目がないのだ。お菓子の類を一切禁止されて、たんぱく質を摂取するようにきつく言い含められていたが、大福や饅頭は隠れてこっそり食っていた。
「後期のテストもあるし、勉強大変だね」
 まさか、寮に置いてある過去問と膨大なレポート対策でなんとかなります、とは言えない。曖昧に笑って誤魔化した。
「一日早いけど、君にクリスマスプレゼント」
 今のは聞き違いだろうか。クリスマスプレゼント、と彼女は言った気がする。オレ、何も用意してない。サーッと全身の血が引くが、カーッとのぼせている部分もあって、奇妙な状態だ。どうしたらいいのか、皆目わからない。受け取るべきか、自分も用意したいからと言って、一旦断るか。
「役に立つと思うから、使ってみて」
 そう言いながら彼女が机の上に置いたのは、借りているiPodよりずっと小さな機械だった。音楽プレーヤーかとも思ったが、たぶん違う用途の機械だ。
「ICレコーダー。この間借りた教科書、頭から音読してみたの。この再生ボタンと巻き戻しを押せば、好きな部分を聞けるよ。私の声で申し訳ないけど」
「こ、こんなの受け取れないです!機械とか、めっちゃ高そうだし……」
「たまに使うだけで、いつもは部屋に転がってるのよ。有効活用してあげて」
「や、でも……こんな……」
「ただし、単位が無事に取れたら、ICレコーダーは返してね」
 彼女の声が、ここに詰まってる。そう思うと、拒否はできなかった。




 寮の部屋に戻り、ベッドに横たわって、イヤフォンを耳につける。再生ボタンを押すと、しばらくジーッとノイズが続いたが、やがてゆったりとした調子の英語が聞こえてくる。あの人の声だ。まだ何を言っているのか聞き取れないけど、優しくて、耳にスッと溶け込んでいく。きっと自分はこのレコーダーを何度も何度も再生するだろう。耳に焼き付けるだろう。彼女が英文を読んでいる姿は、きっと、とても綺麗だ。じっと目を閉じると、声の向こうにあの人の姿が浮かんだ。
 結局、クリスマスの予定をついぞ聞くことができなかった。それどころか、まだ名前さえ知らない。尋ねるタイミングをずっと逸し続けていて、単位が取れても聞けないんじゃないかと、自分の小心さが時々情けなくなる。
 あの人の声が、聞こえる。
 さっき別れたばかりなのに、もう恋しい。一週間に一度なんて、少なすぎるのだ。もっと顔が見たい。それこそ、毎日でも。
「会いてぇな……」
 ごろりと寝転がり、枕に顔を埋めて、情けない声を出す。次に会うのは、年明けだった。どうしても都合がつかないらしい。例のAVで誤魔化すなんて、とてもじゃないができなかった。だって、あれはあの人じゃない。真向かいで勉強を教えてくれる姿を見てしまったら、映像じゃ満足できなくなった。それに、あの人を画面の向こうに被せたところで、出した後に絶望的な虚しさがこみ上げるだけだ。
「うずまきー!言わなくてもわかるだろが!もうお前、外周な!明日はずっと走ってろ!」
「サーセン!今行きます!」
 あの人の優しい声をブチ破って、主将の怒鳴り声が響く。慌ててベッドから跳ね起きて、部屋を飛び出した。




2015/1/28




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