つぼみの頃



つぼみの頃




   十一.


 ICレコーダーは、寮の外に持ち出すことがどうしてもできなかった。あれは絶対に失くさないように、部屋の中に置いておきたかった。あんなにも小さな機械を自分のようなガサツな男が肌身離さず持っていられるとも思えなくて、代わりにずっと持ち歩いていたのは、ICレコーダーよりもずっと大きくて分厚いiPodだった。中でも、QUEENのアルバムをよく聴いた。タイトルを調べて、ついでにちょっと歌詞も見て。ネットで探すと和訳が出てくるので、勉強になった。イヤフォンから流れるフレーズを口ずさみながら、これはあの人とオレを繋ぐ曲なのかもな、とらしくもないことを思ったりした。




 ずっとずっと会いたいと願っていたのに、本人を目の前にすると何も言えなくなって、「あけましておめでとうございます」と微笑む彼女におうむ返しをするのが精一杯だった。メガネをかける姿にやっぱり見惚れて、シャーペンを走らせる手つきを目で追って、視線に気づいた彼女が顔を上げると慌ててそっぽを向いて。いつもはもっと集中できるのに、どうしても彼女から目が離せなくて、単語の読み取りに何度も躓いた。できるようになったはずなのに、と思うとまた空回って、「焦らなくていいから」と優しく諭された。
「そろそろ一時間だね。今日はここまでにしよう」
 教科書に並んでいる文章を読み解くスピードが徐々に速くなっているのが、自分でもわかる。きっとそれも普通の人に比べたら全然遅いのだろうが、ナルトにとっては飛躍的な進歩だった。教科書だってページがずいぶんと進んで、真っ白だったノートが文字列で埋められていく。時折それをパラパラと捲って、自分はこれだけ勉強をしたぞ、と確かめていた。
「あの、」
「ん?」
 メガネの奥で、瞳が柔和に笑う。心臓を、せつなく掴まれた。
「欲しいもの、ありますか?」
「どうしたのよ」
「クリスマスプレゼント、お返しもできてないし、その、お礼ができればって……」
「バイトもしてない学生さんが、何言ってるの」
「だって、タダで勉強見てもらってるんだから、そんぐらいしないと気ぃすまないんです」
 勉強を見てもらっているんだから、お金払います。せめてご飯代くらい出させてください。何度かそう提案したのだが、サクラは首を振らなかった。好きでやってるのよ、と軽やかに笑って、いつもかわされる。
「返せるもの、ないんです。オレにできることって、そんぐらいしか思いつかなくて。寮暮らしだから、仕送りには余裕あるんです。指輪とかネックレスとか高価なものは無理だけど、携帯のアクセサリーとか、そういう小物だったら……」
「ねえ、ナルトくん」
 そう言って、彼女はメガネを外してケースに仕舞う。いつもならその姿に目が釘付けになるところだが、今回はじっと瞳を見つめ続けた。
「そういうの、女の子は勘違いしちゃうよ?君は、ちょっと無防備なところがあるかな。カッコイイんだから、そういうのは好きな子に言ってあげてね」
「勘違い……じゃないっす」
 一線を引かれてしまった。そう思ったら、口から自然とこぼれ落ちた。好きな音楽が詰まっているiPodとも、彼女の声が収められたICレコーダーとも、これでお別れなんだろうか。それを惜しく思いながらも、もう押し止めることはできない言葉の数々が溢れ出る。
「できればクリスマスを一緒に過ごしたかったとか、そういうことを思ってるんです。無防備っつーか、単に下心があるだけです。こんなこと、あなたにしか言えません」
 彼女は、言葉を探している。どうやったらこの場を切り抜けられるか、きっとそんなことを考えているのだろう。気持ちを隠し通して勉強会を続ける選択肢だって、もちろんあった。しかし、感情の駆け引きは得意じゃない。敵チームのサインならいくらでも盗めるが、この人の心はいくら探っても読めないし、その扉をこじ開けるには多少の強引さが必要だと判断した。優しさにつけ込んで、自分の居場所を作ってしまおうとさえ思った。
「勘違い、してください」
「……困ったな」
「困ってください。そうじゃないと、オレも困ります」
 言葉は、すらすらと出てくる。怖いくらいに冷静で、少しでも隙があったら絶対に逃すまいと目を凝らしている。
「勉強を見るって私が言った時に喜んだのは、そういう気持ちがあったから?」
「……なかったと言ったら、嘘になります。会うきっかけができたってわかった時、すげえ嬉しかったから。単位を取りたい、卒業したいって気持ちに嘘はないです。でも、」
 膝の上でぎゅっと拳を握り締めて、核心に切り込む。
「好きになってしまいました」
 彼女は、一切の動揺を見せなかった。困ったな、と言っていたくせに、こちらの気持ちを見通して立ち回ろうとしている。ずるい人だと思うが、そんなところすら魅力的に映ってしまって、どのみち後戻りはできなかったのだと思い知る。告げるしか、道はなかった。
 彼女は、スッと視線を外して、荷物を整えはじめた。答えを聞くまで、ここから動かない。そう心に決めて教科書やノートを広げたままじっとしていたが、彼女は円形のプラスティックケースからレシートを抜き取ると、静かに席を立った。
「これからも、勉強は、ちゃんと見る。答えは……返せない。ごめんね」
 ヒールの音が、コツコツと遠ざかっていく。自分がフラれたのだという実感は、まったくなかった。返せないって、なんだよ。ごめんねって、何がだよ。
「……それでも、好きだ」
 ゴン、とテーブルの上に額をぶつけて、呟いた。




2015/1/30




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