つぼみの頃



つぼみの頃




   十二.


 勉強会から三日が過ぎ、四日が過ぎて、悩んでいる間に、もう火曜日だ。
 どうしても相談したいことがある。いのが忙しいのを知っていながらも、サクラは縋る思いでメッセージを飛ばした。「フレンチ奢ります」と追記すれば、「ワインもつけろ」と即座に要望が届く。「なんでもつけます」とすぐに返すと、先方は満足したようで、その日はいのの犬になることが決まった。
 Web予約を済ませて、指定された時間に店の前へ行く。平日休日問わずに大行列という噂だったが、外の椅子で待っている客は、二組だけ。隣に座ってスマホをいじっていると、いのからメッセージが届いた。「フォアグラ!」とだけ記してある。たぶん、駅についたとかそういう意味だろう。その後も「フォアグラ!」という6文字のメッセージが立て続けに届いて、そろそろ鬱陶しいなと思った頃、肩を叩かれた。
「フォアグラ!」
「もういいよ、それ」
「初めて食べるんだよねー!まさかの立ち食いだけど、そこはあんたの懐具合を気遣ってね、見て見ぬ振りをしましょうかね」
 店で頼むものは、もう決まっていた。メニューをネットで探して、目星をつけていたのだ。お通しを持ってきた店員にワインから料理から一通り頼むと、おしぼりで手を拭きながらいのが言う。
「東京都千代田区からお越しの春野サクラさん、ご相談をどうぞー」
「あの子に、告白をされまして……」
「ほうほう」
「しかも、あろうことか、大人のフリをしてしまいまして……答えは返せないとか言っちゃいまして……」
 教会の懺悔って、見たことないけどこんな感じなんだろうな、とサクラは思う。いのはといえば、地球の中心を貫いてブラジルまで届くんじゃないかと思うほど深い溜息を吐いた後、おしぼりをテーブルに軽く叩きつけた。
「なんっで身の丈に合わないことすんのよ!イイ女ぶりたいお年頃か!」
「だって!どうしたらいいかわかんなかったんだもん!もう逃げるしかなかったっていうかさ!」
「うまく立ち回ってるつもりが、隙だらけだったんでしょ。ほんっとあんたは昔っから迂闊なのよ。一線を引きたいんだったら、もっと早くに手を打ちなさい」
「私はあんたみたいに上手くないのよ!」
「だからこそ、ちゃんと考えて動けって言ってんの!」
 この女に、口では勝てない。それは幼い時分から数え切れないぐらい喧嘩を繰り返した末にようやく学び取ったことで、絶対の事実だった。しかし今日は、いくら叩きのめされようとも、アドバイスが欲しかった。
「……どうすればいいかな」
「あんたがどうしたいか、でしょ」
 囲んでいる丸テーブルにワイングラスが二つ運ばれてくる。白とロゼ。銘柄は、いのに任せた。そもそもワインは飲まないし、駅前のスーパーにも置かれている有名なシャンパンぐらいしか知らない。ビールや焼酎の方が、身体に合うらしい。
「私、名前と年、まだ言ってないのよね」
 サクラの呟きに、いのは指に引っ掛けたワイングラスを取り落としそうになる。いのに一泡吹かせてやったのは痛快だったが、今はそれを楽しむ余裕がない。
「……そんなのって、アリ?」
「だってさ、名前知らなくても結構なんとかなるのよ。こっちがナルトくんって言えば、ハイって答えるし。メールは『勉強会の件です』で済んじゃうし。年だって、大学出て仕事してる人なんだなーってわかってるだろうから、年上だってことはわかるだろうし」
「あー、そうか、そうなるのか」
 いのは中空に視線を漂わせながら、今度こそワイングラスを口に運ぶ。
「それに私、あの子に綺麗なとこしか見せてないのよ。英語を教えてくれる親切なお姉さん。そういうところに、ポーッとアテられたんじゃないかな。実際、そんなに親切でもないし」
「意外と短気だしね」
「そうそう」
「根に持つしね」
「そうそう」
「間の抜けたとこあるしね」
「そうそう」
 一通り相槌を打って、サクラもワイングラスを手に取る。ワインは得意ではないのだが、この白は飲みやすくていい。辛口ですっきりしているので、舌に甘ったるさが残らない。
「あんたさ、それ、相当好きよ」
「えー、そう?」
「これまで作り込んできた綺麗な自分が、あの子の中で壊れて、幻滅されるのが怖いんでしょ?」
「……作り込むってのは、あんまりじゃない?」
「ちょっとぐらいボロ出せばよかったのよ。どうして完璧にしちゃうかなー。最初からハードル上げすぎてもろくなことにならないって、いい加減学びなさいよ。外面ばっかりいいんだから」
「先輩、言いすぎじゃないですか。ちょっと傷つきました」
「あらあら、ごめんなさい。繊細ねぇ」
 お互いに茶化しあって、ワインをごくり。店内は満員で、人の移動がままならない。化粧室に行こうとすれば、人と人の間をすり抜けて、カニ歩きをするしかない。厨房はきっと、戦争のような騒ぎだ。チーズのオイル漬けならすぐに来るだろうが、目当てのフォアグラは、ゆっくり待とう。
 ようやく訪れた沈黙に、サクラはぽつりと声を落とす。
「あんな風に誰かに告白されたのって、久しぶりだなぁ」
 好きになってしまいました。そう告げた時、ナルトは決して目を逸らさなかった。照れ笑いを浮かべて下を向く姿ばかり見ていたので、瞳の色だとか、眼差しの強さだとか、そういうものを一切知らずに過ごしてきた。可愛いとは思うが、男を感じ取っていたわけではない。それが、あの瞬間、熱情溢れる視線に心を縫いとめられたような気がした。
「ちゃんと考えてあげなよ」
「……うん」




 帰り道、街灯の淡い明かりを浴びながら歩いていると、メールが来た。
 明日、いつものファミレスに行ってもいいですか?
 このメールを送信するまで、一体どれほど逡巡したのだろう。神宮球場で「どこに行けば、会えますか?」と聞かれた時、こうなる予感はしていたのだ。それでも、どうしても放っておけなくて、期待させるような真似をさせてしまった。逃げた自分は、卑怯者だ。
 サクラは立ち止まり、文字を打っては消して、散々悩んでまた文字を打つ。きっと、あの子もこんな風にたくさん文字を消したんだろうな、と思いを馳せる。消えた文字の行方を、きちんと追わなければ。送信ボタンを押すと、家に向かって歩きはじめた。




2015/1/31




次ページ