十三. その日は、時間が過ぎるのが特に遅く感じられた。出社して、もうそろそろ一時間経ったかと時計を見てみると、始業から三十分も過ぎていない。お昼になったというのに食欲はないし、そのくせやたらと喉が渇くし、とにかく感覚が狂いっぱなしで、せめてミスをしないようにと細心の注意を払った。 早く行かなければ、と何かに追い立てられるように会社を出て、地下鉄の改札に続く階段を駆けおりる。その後、電車移動以外は走りっぱなしで、履きなれたはずのヒールの爪先が鈍く痛んだ。息を切らして坂道をのぼり、電飾看板が見えたところで、サクラはゆっくりと速度を落とした。ナルトが人待ち顔で、扉脇の生垣に腰をかけていた。サクラの姿を認めると、すくっと立ち上がり、例の90度のお辞儀を見せる。 「いきなり、すんませんでした!」 場所柄、注目を集めやすいというのに、ナルトは頭を垂れたまま動かない。とにかく顔を上げさせようと近寄れば、伸ばしかけた手を拒むようにさらに続ける。 「困ってください、とか、調子に乗りました。オレは、あなたを困らせたくないです。頭の悪いオレに付き合ってくださって、本当にありがとうございました!」 姿勢を戻したナルトは、バッグから何かを取り出す。サクラの前に差し出したのは、いつか貸したiPodだった。 「辞書も持ってきてます。レコーダーも一緒に返そうと思ったんですけど、あれだけ勉強見てもらったわけですし、絶対、単位取りたくて、その、」 サクラは、空いている方の手を掴むと、怯んでいるナルトをぐいぐい引っ張る。身体を鍛えているのだから簡単に振り払えそうなものなのに、ナルトはよろよろとした足取りでサクラの後をくっついていく。 「あ、あの!」 「ちょっと話そう」 ナルトの手を取って坂道をのぼっていくと、最初に出会った居酒屋が見えた。この子がいるから、野球にさして興味がないのに母校の勝敗を気にするようになった。新聞で結果を確かめると一喜一憂して、どのポジションなのかしら、と想像した。ロードの途中でバッタリ出くわして、近くに試合があると聞いた時、休日は寝て過ごす出不精が球場に行ってみたいなと思った。プレーする姿に感動して、焼肉を奢って、定時上がりの貴重な時間をわざわざ削って勉強も見て。いつかいのに言われたが、慈善事業なんかじゃない。ボランティア精神なんて、この小狡い女の中にあるものか。私は、ただ単純に、この子に好かれたかった。結局、この子が可愛いのだ。そう認めてしまうと、何を悩んでいたのかとバカバカしくなる。 居酒屋から数軒離れた場所には、神社がある。境内には腰高の石柱があって、話をするのにちょうどよかった。うろたえているナルトをそこに座らせると、自分も隣に座る。 「……怒ってるんすか」 「どうして」 「道の真ん中で、大きな声出したから……でも、勢いつけないと、どうにもふっ切れなくて……。オレ、本当に困らせたくないんです。あなたはオレにとって恩人なんです。これ以上つきまとったりしません。メアドも番号も携帯から消します。あ、でも、レコーダーどうしよう……返さないといけねぇんだ……」 君が一番気に入っているおもちゃを、お友達に貸してあげなさい。そう言われて迷っている子供みたいだった。返したくない、と顔中に書いてある。 「一回!一回だけ、連絡させてください!なんなら郵送で!あ、ちげえわ、住所の方がもっとまずいか……くっそー、でもなー」 どんどん敬語が外れていくのが、嬉しかった。頑丈な鎧がどんどん剥がれて、むき出しの部分に近づいているんだな、とサクラは思う。 「ナルトくん」 「へ?あ、ハイ!」 座っていた石柱から跳ね上がり、しゃきんと音が出るほど背筋がまっすぐ伸びる。サクラはナルトの真向かいに立つと、靴の爪先に一度目を落としてから、ぐっと顔を上げた。 「どこからはじめようか。まずは……自己紹介からにしよっか」 話の展開についていけないのだろう、ぽかんと口を開けているナルトをそのままに、サクラは続ける。 「春野サクラ、23歳。あ、違った、もうすぐ24だ。とにかく、君より4歳上。印刷会社で働いてます」 「春野、サクラ、さん」 「ん?」 名前を呼ばれたので、顔を覗き込む。ナルトは、面白いぐらいにカーッと頬を赤らめた。 「か、かわいい、名前っすね」 「ありがと。とりあえず、敬語はやめてみよっか」 「なんで、ですか?」 「だってばよ、使っていいってばよ」 「あの、だから、」 ナルトは頭をかきむしって、視線をあちこちに泳がせる。 「迷惑じゃなかった。困ってもいなかった。好きだって言われて、嬉しかった。だから、一緒に単位取ろう?」 「また会ってくれるんですか?」 「うん」 「もしかして、デートとか、してくれる感じですか?」 「うん、しよう」 「彼氏ってことにして、いいですか?」 「うん、私は彼女ってことで、よろしくお願いします」 ナルトに倣って深々とお辞儀をすると、頭上から「やった……」と小さな呟きが降ってきた。 「やった……やった!やったってばよォォォ!!!!」 ナルトの声は徐々に大きくなり、じたばたと足踏みして、その場でくるりと回った。 「やっべえ!むっちゃくちゃ嬉しい!神宮でホームランとか目じゃねえ!なんだこれ!」 ぐっと握り締めた拳を腰に構えて、飛び跳ねんばかりに喜びを表現する。興奮冷めやらず。そんな言葉を身体全部で表現して、よし、よし、と繰り返す。そして、ぐりっと顔をサクラに向けると、ニカリと笑った。 「サクラちゃん!」 「そこは、サクラさん、でしょ?」 「でも、サクラちゃんって気がするってばよ!」 この笑顔で言われると、弱い。幼い面影が、庇護欲を誘う。 「じゃあ、こっちは呼び捨てにさせてもらうわ」 「ねえねえ、名前、呼んでみて?」 「ん?ナルト?」 「……散々呼ばれてきたのに、全然違う風に聞こえるってばよ。へへ、嬉しい」 「君は本当に可愛いなあ」 「そうやって年下扱いされんの、ちょっとやだ」 「だって、年下だもの」 途端にむくれるナルトを、じーっと見る。視線を外したら負け。そんな勝負をしているみたいだ。していいの?と眼差しが揺れる。どうぞ、と目で返すと、二人の顔が近づく。キスをするのは、二年ぶりだった。タバコの匂いがしなくて、ちょっとぎこちなくて、表面をくっつけるだけの可愛いキス。 サクラは手を伸ばして、ずっと気になっていた金髪をさわさわと触る。 「これ、地毛?」 「いつも黒に染め直してたんだけど、先輩が面白がってて、このままプレーしてる」 「目立つから、いいね」 「オレも、触っていい?」 「どうぞ」 真向かいに立って、互いに髪を触りあう。なんとも奇妙な光景だったが、付き合いたての恋人というのは他人の目を気にしないものだ。それに境内には誰もいないし、木々が二人の姿を隠してくれる。どちらからともなく身体に触れるが、ナルトは腕でサクラの身体を囲うだけで、抱き合うなんて表現とは程遠い。それがもどかしくて身体をぐっと引きつけると、ようやく背中に回した手のひらにほんの少し力を入れた。 もう一度キスをして、離れ際にサクラの方から軽く唇をくっつける。その仕草に目を丸くした後、ナルトはへにゃりと相好を崩し、くすぐったそうに笑った。 2015/2/1
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