つぼみの頃



つぼみの頃




   八.


 勉強会を開くようになって、嬉しいことがまたひとつ増えた。火曜日の夜に、メール交換をするようになったのだ。きわめて事務的なメールだが、最後に必ず「練習頑張ってね」の文字がついてくるので、翌日の練習はひときわ気合が入る。これが終われば、勉強会。大嫌いで苦手なはずの英語だが、褒められるのが嬉しくて、進んで復習をしていた。
 そして、水曜日がやってくる。いよいよ今日から、音読の練習だ。蘇る苦い記憶に、胸がツキンと痛んだ。勉強を疎かにした自分が悪いのはイヤと言うほどわかっているが、スポーツでは経験したことのない類の挫折は、ナルトの心にしっかりと影を落としていた。
 それでも、オレには、あの人がいる。絶対に笑ったりしないし、根気よく丁寧に教えてくれる。その姿勢に恥じない自分でありたい。イヤフォンを耳に突っ込んで、iPodを起動する。いつも好んで流すのは、QUEENだった。CMなんかで耳にしたことのある曲が多くて、とっつきやすかった。タイトルの意味が知りたかったので、iPodと一緒に借りた大事な大事な辞書を捲ったりした。何かを知ることを楽しんでいる自分を、ナルトは不思議な思いで見つめていた。




 今日は、いつものガストではなく、坂の手前で待ち合わせだった。ジャージ姿で突っ立っていると、駅舎の方角から小走りでこちらに近づいてくる彼女をすぐに見つけ出す。目が合った時の柔らかな表情と、手の振り方が、すごく好きだ。
「カラオケ館とビッグエコー、どっちにする?」
「オレは、どっちでも……」
「じゃあ、ビッグエコーね。カードがあるのよ。接待の時に幹事やると、ポイント溜まるから。こういう時に一気に使うの」
「や!それは、あの、」
「いいのよ。仕事以外でカラオケ、行かないし」
 さりげなくかわされて、すぐに話題は変えられる。部活の連中以外とはろくすっぽ付き合いがないし、女なんて論外。自分が進んで切り捨ててきた時間を、今は惜しんでいる。彼女に釣り合ってないな、と思ってしまうのだ。
 エレベーターで3階まで上がって、受付を済ませた後、階段で2階まで下りる。雑居ビルらしい複雑な造りの先に、指定された部屋があった。リモコンとマイクを入れたプラスチックケースを抱えて、中に入る。部屋は薄暗く、二人きりの空間だと思うと妙に意識してしまって、動作がぎこちなくなる。メガネを掛ける仕草をバッチリ見届けた後、教科書と筆記具をテーブルの上に広げる。では早速、という流れになるのだが、ひとつだけお願いをさせてもらうことにした。
「あの、一曲だけ歌わせてもらっていいすか?」
「ん?」
「貸してもらった中に、好きな曲入ってて、歌ってみたくなって……」
「あー!その気持ちわかる。じゃあ、はじめる前に、一曲だけね」
 小さく「やった」と呟いて、タッチペン型の機械で選曲する。送信したのは、QUEENの「we are the champions」。流れてくる歌詞を追いかけて、イヤフォンで聞いた通りに発声する。爽快感溢れるフレーズを聞けば、歌ってみたいと誰もが思うはず。現にナルトは、鼻歌で唄うだけでは満足できなくなった。
「はー、気持ちかったー」
 歌詞をなぞるピンクのカラーが消えると、口元をマイクから外して、大きく息を吐く。たったの一曲だが、すっかり満たされた。待ち受ける音読作業の景気づけには十分だった。
 マイクを置いた際に、スイッチを切り忘れていたため、耳障りなハウリングが部屋に響く。慌ててスイッチを切ると、彼女がずっと無言なのが気になった。そんなに下手だったろうか。
「……ナルトくん、音読、なんとかなるかも」
 彼女は、口元に手を当てて、神妙に呟いた。
「君、すごく耳がいいんだと思う。どんな風に聴いてたの?」
「どんな風って……時々歌詞みて、ここがその箇所かなーってなんとなく……」
「そっか……」
 何やら考え込んでいる彼女を、祈る思いでじっと見る。すごくハードルの高いことを要求されたらどうしよう。思い出すのは、あの教室で浴びた侮蔑と嘲りが入り混じった視線。あれだけは、向けられたくなかった。
「教科書って、4月に買うんだよね?」
「あ、ハイ」
 毎年同じ教科書が使われる授業なら対処のしようがあるのだが、一般教養の英語は受け持つ講師の好みによってコロコロ変わる。だからこそ、部の全員が頼りにしている先達からの丸秘ノートや過去問集が使えないのだ。ちなみに試験前になると寮の中ではプレー顔負けの真剣さでノートを捲ったり過去問を拾い上げたりする姿がそこかしこに見受けられる。
「じゃあ、こうしよう。教科書を買ったら私が一通り読むから、それをICレコーダーで録音するの。それを、君が聴けばいいわ。音読対策、それでいけると思う」
「マジすか!?」
「うん、いけるよ、これなら大丈夫。やったね、これで先が見えたじゃない!」
 単位が取れるかもしれない。それは飛び上がらんばかりに嬉しい。しかしそれ以上に、自分のことのように喜んでくれる彼女の姿があんまりにも眩しくて、大学に入ってから一度も泣いたことがないのに、目元が潤んでしまう。
 何を返したらいいんだろう。自分は、何も持っていない。バイトをしてないから金もない。学生だから地位もない。大学野球のレギュラーなんて、少しも役に立たない肩書きだ。できることは、懸命に勉強して、この勉強会から彼女を早く解放することだ。それはすなわち接点がなくなるということだが、何も出来ない無力な男のままでいるよりも、ずっとよかった。




2015/1/24




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