つぼみの頃



つぼみの頃




   七.


「キバくーん。ぼくにも、そろそろ春がきそうだよー」
 ノックもせずに部屋のドアを開けると、ナルトは間延びした声を出す。週に一度、あの人に絶対会えるという夢のような状況を前に、いてもたってもいられない。開けた扉に身体を預けて、ぐねぐねと手足を動かす。
「ソープにでも行くのかー。よかったねー。うれしいねー。この世の春だねー」
 ごろりと床に寝そべって雑誌を読みながら、キバは適当に受け流す。ぼりぼりと尻をかいているジャージ姿に向かって、ナルトは溜めに溜めてから、勝利宣言を口にした。
「声かけて撃沈しまくった女のケー番、ゲットしました」
 ぐっと握り締めたメモを、頭上に高く掲げる。キバはむくっと起き上がり、扉に向かって駆け寄ると、ナルトを素通りして廊下に出た。
「うおーい、二年、集合!」
 なんだよ、と文句を言いながらも、バタンバタンと扉が次々に開き、連中がぞろぞろとキバの部屋の前に集まってくる。
「このたび、童貞こじらせて妖精さんになりかけてる我らがうずまきナルトくんが、女のケー番を手に入れました」
 おおっ!と場が一気に沸き立つ。普段ならば、そんなに驚くことかと文句のひとつも口にしたはずだが、今は気にならない。むしろ、もっと騒ぎたまえと煽りたい気分だった。
「つきましては、寄付をお願いします。恵まれない童貞くんに、デート代を差し入れしましょう。一口500円からね。おめーら、出し惜しみすんじゃねーぞ」
「ったく、しゃーねえな」
「わりーね!」
「今月余裕ねーんだから、二口で勘弁な」
「わりーね!」
 ナルトの肩をトン、と叩きながら財布を取りにいってくれる連中に、礼を言う。散々な言われようだが、なんせ今日は機嫌がすこぶる良い。一緒に勉強する予定のファミレスに通う金ができるのは、万々歳だ。
「うずまきー!おっまえ戻ってんのか!オレんとこ来いっつったろーが!これで何度目だ!」
「サーセン!今行きます!」
「金の回収はオレがやっとくから、さっさと行け」
「わり!頼むわ!」
 キバに後を託すと階段を駆け上がり、最上階の主将の部屋の前で、「失礼します!」と声を張り上げた。




 待ち焦がれた水曜日。勉強会が行われるのは、駅前の坂道を少しのぼったところにあるガストだった。妖精さん助け合い運動のおかげで懐のあったかいナルトは、ほくほく顔で店の中に入る。これで当面の間、飲食代には事欠かない。できれば、お礼にご飯ぐらいはご馳走したいと考えていた。
 店の入り口が見える角のボックス席に座り、そわそわしながらあの人が来るのを待った。その間、傍らに置いたバッグの中を何度か念入りに確かめる。出掛けにちゃんと確認したのだが、本当に入っているのか不安になるのだ。ノート、教科書、辞書、筆記具。他に忘れ物は、ない、はず。その後は、じーっと入り口だけを見つめていた。
 席で待つこと、15分。スーツ姿のあの人が店の中に入ってきた。自分が座っている席を見つけると、ひらひらと手を振る。うっかり手を振り返しそうになるが、慌てて止めて会釈した。
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃって」
「全然っす」
「すみません、ドリンクバーひとつ」
 真向かいに座ると、通りすがりの店員に声をかけて、彼女は注文を済ませた。
「……メシ、食わないんすか?」
「家に帰ってから、と思って。食べながらやると、教科書汚れちゃうでしょ?」
 彼女はそう言って、バッグの中から細長いケースを取り出した。カコンと小さな音が鳴り、手にした銀縁のメガネを耳にかける。バクン、とひときわ大きく心臓が跳ねた。
「あの、それ……」
「ああ、軽い近眼なのよ」
 彼女は笑って、肩を竦める。大変率直なことを言わせてもらおう。ドンピシャで好みだった。自分の理想が一分の隙もなく具現化されていると言ってもいい。さらに突っ込んでしまうと、殿堂入りしている不動のナンバーワンAVが、家庭教師モノなのだ。しかも、メガネのスーツ姿。何度もお世話になった裸体が、瞼の裏でチカチカと瞬く。勘弁してくれってばよ、と誰に言うでもなく心の中で呟いて、気を紛らわすためにバッグの中を無駄にごそごそといじる。「一発抜いてから行け」と真顔で言うキバを鼻で笑ったが、後悔しても時すでに遅し。キバよ、お前は正しかった。
「使ってた教科書って、どれ?」
「あ、はい、これっす」
 教科書をテーブルの真ん中に置くと、ああ、と彼女は小さく呟いた。
「サリンジャーか」
「……知ってるんですか?」
「昔、ちょっとね」
 英文出身だと言っていたし、声の感じからして、きっと詳しいんだろう。それなのに、ちょっと。なんか、そういうのってすごくいい。シニア時代、バッティングの知識をひけらかすコーチが大嫌いで、「だったらアンタが打ってみろよ!」と喧嘩を売ってしまったことがある。その後、すぐにチームから追い出されてしまったのは、苦い思い出だ。
「そのまま訳すと変な文章になる箇所もあるから、基礎の部分だけ頑張ろう。教科書の中、書き込んでもいい?」
 ナルトが頷くと、彼女はパラパラとページを捲って、時々印をつけていく。その様子を眺めながら、ナルトは何も書かれていない真っ白なノートを開いて、筆記具を広げた。教科書の半分まで辿り着いたところで、彼女の手が止まる。
「訳すのがそこまで難しくない短い文章に印をつけてみたから。まずはこの一行、辞書を捲って単語の意味を調べてみて?」
 辞書、という言葉の響きにげんなりする。ひときわ分厚い辞書というやつがすごく苦手で、今回だって勉強会のためにと部屋中をひっくり返して、ようやく探し当てたのだった。真新しい新品で、紙製のケースも角折れどころかキズひとつない。一ページも捲られずに人生を終える寸前だったかわいそうな辞書だ。バッグの中を探していると、彼女がテーブルの上に白い皮製の辞書を置いた。
「手に馴染むから、使いやすいかも。書き込みとかもあるし」
 それは、とても使い込んだ辞書だった。きっと、これで勉強したんだろうな、すげえな。自分にそれを預けてくれることが、嬉しくて、有難くて。自然と辞書に手が伸びた。
「この単語と、この単語」
 教科書の中、シャーペンで薄く囲まれた単語を、試しに調べてみる。すぐに見つけることができたのだが、意味が五通りもあって、そこで躓いた。眉をぐっと寄せてたじろいでいると、助け舟がやってくる。
「たくさん意味がある時は、一休みして、次の単語も調べてみよう」
 こんなバカに付き合わせてしまうのが申し訳ないのだが、嫌な顔ひとつせず、手ほどきをしてくれる。それに何とか報いたくて、恥をかくのを覚悟しながら、ひとつずつ単語を調べていった。夢中で辞書を開き、一行の意味がわかると、ホッとするやら嬉しいやらで思わず笑みがこぼれた。




 テーブルの片隅に置いてあった彼女のスマホが、ブーンと鳴る。電話かメールかと思ったのだが、画面を確かめもしないので、アラームを設定していたのだとわかった。きっかり一時間。それが約束だ。
「今日はこれぐらいにしておこうか」
「はい、ありがとうございました!」
 膝の上に両手をついて、深々と礼をする。苦手意識は揺らぐことなく、深い根っこのように埋まって動かないが、彼女が真向かいで教えてくれるんだと思うと、絶対に手は抜けない。身が引き締まる思いだ。
「音読対策は、来月からやろう。前期のはじまりに間に合うようにっていうのが、当面の目標」
 音読、か。苦い記憶を噛み締めながら、無言で頷く。
「あのね、洋楽聴いてみるといいよ。英語っぽい発音がちょっとずつわかってくるから」
 洋楽どころか、音楽のCDなんて一枚も持ってない。流行の歌はもちろん、スタンドで響いている応援歌ですら知らない曲があった。弱ったな、と視線を漂わせていると、またも助け舟。
「そんな君に、いいものをあげよう」
 バッグから出てきたのは、古いiPodだった。クイックホイール型で、白い筐体は細かいキズがついている。
「クイーン、ツェッペリン、ジェフ・ベック、ニルヴァーナ。色々入ってるよ。あ、クラフトワークっていうのは参考にならないから、除外してね。後は聞き取れる単語がいくつかあると思うから、そこから覚えていこう」
「これ、借りてもいいんすか?」
「もちろん。そのために持ってきたんだもの」
 鮮やかな笑顔に、体温が急上昇した。暖房が効きすぎているわけでもないのに、身体が熱っぽい。渡されたiPodをぎゅっと握り締める手は、じっとりと汗をかいていた。動揺を悟られないように素早くバッグを膝元に引っ張りあげると、大事な大事な借り物をそっと仕舞った。




 帰り道、イヤホンを耳に突っ込んで、クリックホイールを回す。見たこともない英文字ばかりが並んでいるが、なんとなくQUEENという名前を指で選んだ。
 あ、この曲、知ってる。
 歌詞はわからないが、スポーツ番組を見ていると、よく流れてくる音楽だった。曲名を確認すると「we are the champions」とある。チャンピオンという単語が聞き取れたので、オレたちはチャンピオン、という感じか。それなら、スポーツ番組で流れるのも納得だった。優勝特番なんかでは欠かせない曲になる。
「なんか、楽しいってばよ」
 知るってのは、思った以上に面白いことなのかもしれない。よく知っているサビの部分を鼻歌で唄いながら、ちょっと弾んだ足取りで寮への道を歩いた。




2015/1/21




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