つぼみの頃



つぼみの頃




   六.


 懐かしい夢を見た。
 まだ大学生だった頃、日当たりのいい窓辺の教室で英語の講義を受けている時のことだ。お昼を食べた後の講義で、うつらうつらとした姿が散見する中、彼は一番後ろに座っていつも堂々と寝ていた。体育会ラグビー部のレギュラーで、花園でもスター選手だったらしい。講義がはじまる前などは、級友相手に「じきに日本代表になるんだ」と自信満々な様子で豪語していた。
 前期が終わり、夏休み明けに講義に出ると、彼は欠席していた。次の講義も、そのまた次の講義にも、彼の姿はなかった。遠征かしらと気にも留めていなかったのだが、どうやら怪我をしてラグビーを続けられなくなったらしいと後から伝え聞いた。スポーツ推薦で入学した体育会が退部となれば、行き場所なんてどこにもない。結局は、すぐに退学をしたそうだ。席の一番後ろから聞こえてくる「日本代表」という大きすぎる夢と、快活な笑い声が、しばらく耳から離れなかった。
 目を開けると、もぞりと布団から起き上がり、ヘッドボードに置いてあるスマホで時間を確かめた。待ち合わせまでは、もうちょっとある。休みは寝っぱなしで体力を蓄えるのが最近のサクラの過ごし方だが、身支度をのんびりしていたら、家を出る時間になるだろう。指を交互に組み合わせ、身体をぐーっと前に伸ばす。整体で教わった、肩こりと背中痛を和らげるストレッチだ。起き抜けの身体は、疲労が抜け切れなくて重い。それでも、あの子には疲れた顔をなんとなく見せたくなくて、顔色の悪さは化粧で誤魔化そうと決めてベッドから出た。




 店の中央には大型の保冷機があって、肉を盛った皿がその中に置いてあった。部位ごとにスペースが区切ってあって、好きな皿を各自のテーブルに運び、ガス式のロースターで焼くのがこの店のスタイルらしい。本当は炭火なら完璧なのだが、そこは食べ放題なので勘弁してもらおう。
 ナルトは宣言した通り、びっくりするぐらいガツガツ食べた。焼いた肉を取り皿に置いた瞬間、口へと運ばれていく。消えるという表現がふさわしいかもしれない。今食べないと、死ぬ。そんな凄みさえ感じた。焼けた分をせっせと取り皿に置いて、保冷機まで皿を取りにいって、また肉を焼く。その作業が、だんだん楽しくなってきた。動物園に置いてある餌が売れる理由を今、ようやく理解した。ご飯を気持ちよく平らげる姿というのは、見ていて清しいものだ。カルビ、ロース、タン塩。そのローテーションが、延々続く。箸で持ち上げる一口が大きくて、漫画みたいな山盛りのどんぶり飯は笑えるぐらいのスピードでかき込まれていった。
「ナルトくん、専攻は何?」
 少し落ち着いたのか、飲み物を手に取ったナルトにそう尋ねてみた。せっかくだし、世間話ぐらいはしたいな、と思ったのだ。
「史学っす」
「歴史、好きなんだ」
「あー……や、えーと……」
「もしかして、選択の余地がなかった、とか?」
 曖昧な笑い方は、肯定を示していた。高校からの持ち上がりやスポーツ推薦ではよくあるらしい。今朝方、夢に見たからだろうか、ラグビー部の彼をなぜか思い出す。授業ではいつも寝ていたし、英語になんか、きっと興味がなかった。
「文学部だと、卒論の提出、大変だね。ウチの大学って、指定の原稿用紙に手書きじゃないと受け取ってくれないから。そういえば、余ってる原稿用紙あったかな……」
「オレ、たぶん卒業できないんです」
 快活さが途端に消えて、声も小さい。これまでの話し方とは、明らかに違った。
「……ん?」
「ガキん頃から野球ばっかで、ずっとスポーツ推薦なんです。高校は偏差値ドン底のとこで、勉強しなくても卒業できたんです。でも、大学は単位取れないと卒業できないから……」
「勉強、嫌い?」
 迷うような沈黙が、二人の間を漂った。聞くべきことじゃなかったかな、と話を変えようとしたその時、ナルトがすぅっと息を吸い込み、勢いよく吐き出した。
「オレ、英語読めないんすよ」
 少し張ったその声は、明らかに空元気だった。
「アルファベットぐらいなら読めるけど、そっから先が、全然。なんとか食らいつこうとしたけど、やっぱ難しくて。英語の単位が取れないから、無理なんす。もう、授業にも出てないし」
「……出ないと単位は取れないじゃない」
「音読、させられるでしょ?」
 かすかな自虐の笑みを混ぜ込んだ声に、サクラの胸は、チクリと痛む。
「みんな、オレが読めないのをバカにするんです。笑い堪えてんのが、見え見えなんです。肩震えて、ブッて吹き出されて、教室から出る時にチラチラ見られるんです。先生は、見せしめみたいにオレのこと指名するし。もちろん、勉強ずっとサボってきたツケなんすけど、でもなんか、そういうの……キツいっす」
 頭の中を漂っていたラグビー部の彼の面影が、ナルトにピタリと重なった。彼は今、どうしているのだろう。特別好きだったわけでもないし、話をしたこともない。顔すら思い出せない。それなのに、時折なぜか考えてしまう。彼は、ちゃんと生きているのだろうか。
「ねえ、英語の勉強してみようか」
 自然と口からこぼれ落ちた申し出に、ナルトは、パッと顔を上げる。
「私、英文出身なの。昔は家庭教師もやってたのよ。そっちがその気なら、勉強みるぐらいならできるよ」
「マ、マジで!??」
 よっぽど驚いたのだろう。あれだけ頑なに貫き通していた敬語があっさり取れた。
「マジです。毎週水曜日でどうかな?定時上がりって、その日ぐらいなのよ」
「毎週!いいんすか?」
「よければ、だけど」
「監督に相談してみます!毎週同じ時間に外出ってのは、ちょっと厳しくて……。でも、単位取れるかもって言ったら、たぶん大丈夫です!」
「そか。じゃあ、携帯の番号、教えるね」
 ナルトは、ジャージをバタバタと叩いて、おそらくペンや紙を探している。サクラはスケジュール帳の白紙部分を破ると、革の表紙を下敷き代わりにして、電話番号を書き留めた。
「はい。決まったら、連絡して」
「オレの携帯も教えたいんすけど、寮に置きっぱで……。番号もメアドも覚えてねーし……参ったってばよ」
 サクラは、ナルトに握らせたメモを引き寄せて、自分のメアドをさらさらと書く。
「メールくれれば、こっちからもメールする」
 メモを眺めて、ナルトはくしゃりと笑う。この子は、笑うとほんとに可愛い。
「へへっ、やったってばよ……」
「それ、口癖?」
「え?」
「てばよ」
「あー、昔っからどうしても取れなくて……すんません」
「謝ることないってばよ」
 口癖を真似れば、ナルトは照れて、また笑った。
 これは、償いなのだろうか。手を差し伸べることだってできたのに、所詮は他人事だと切り離した彼に対して、いまさら良心の呵責を覚えているのか。良人ぶって、この子が卒業できるようにと英語を教えるのは、偽善者の振る舞いなのかもしれない。それでも、とサクラは思う。この子には未来がある。たとえ怪我をしたって、次の人生をスタートさせるために大学を卒業するのは重要だ。それにサクラは、グラウンドを縦横無尽に駆け回る姿に感動していた。今まさに輝いているこの子に、挫折なんて味わって欲しくなかった。
「本当は、週に二回ぐらいが理想なんだけどね。都合つかなくてごめんね」
「あ、謝らないでください!見てもらえるだけで、ほんと、オレ、」
「焼肉、まだ食べる?」
 今度はカルビかな、と皿を確認してから、席を立つ。
「お願いします!」
 気持ちがひしひしと伝わってくるナルトの声を背に、保冷機に向かった。




2015/1/20




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