つぼみの頃



つぼみの頃




   三.


 会社近くの古い喫茶店で朝ごはんを食べながら新聞を読むのが、サクラの日課だった。おっさんみたいな行動だが、インスタントコーヒーよりもサイフォンで淹れたコーヒーの方が断然美味しいし、サンドイッチトーストだってコンビニで売られているものよりもずっと手が込んでいる。ゆで卵抜きの、チーズトーストセット。最近は、サクラが店に入ってくると、「いつものでいい?」と気の良いおばちゃん店主が尋ねてくれる。そこらのコーヒーチェーン店では真似できない人情味溢れるやり取りだ。
 一面から読むのが、いつもの習慣。しかし今朝は、あまり気にしたことがないスポーツ面を真っ先に広げた。大学野球は、たぶん隅っこの小さな欄。探し当てた秋季リーグ戦の結果に、母校の名前はない。ただし、今日の試合予定にはちゃんと名前があって、昨日は試合がなかったのだと察した。外で飲んでいたのも、そういう理由だろう。大会中って、そういうの厳しいんじゃないかしら。ちょっと不思議に思う。
 サクラの母校はスポーツが盛んで、中でも野球が花形だった。在学中にリーグ戦で優勝したことがあって、その時は、派手な凱旋パレードをやったらしい。それに伴って講義が休講になったので、自分も含めてみんな大喜びだったのを覚えている。きっと、ああいうのに出るんだろうな。
 勝てると、いいね。
 サッカーの日本代表にもオリンピック代表にも特に関心がないサクラが、誰かを応援する。そんなのは久しぶりだった。ここで朝刊を読むのが、ちょっと楽しみになってきた。その後は、トーストを齧りながら一面、経済面、三面と読み進めて、コーヒー片手に軽くテレビ欄をチェックすれば、出勤時間はもうすぐだ。新聞を畳んで、椅子の上で伸びをする。
「さーて、今日も仕事だ」
 小さく呟いて、会計レジまで向かった。




 一階に下りると、そのまま玄関に向かって、部屋から持ってきたジョギングシューズを地面に置く。男だらけの寮の玄関なんて、靴がぐちゃぐちゃに置いてあるかと思いきや、きっちりと片付けられている。泥や土埃は綺麗に掃かれて、各自の靴は靴箱の中に順番通り収められていた。整理整頓は寮の規則に入っていて、少しでも乱れているとペナルティの外周がついてくる。
「うずまき、お前、外出届は」
「や、ロードワークっす」
「あんま身体いじめるなよ。まだ次があるんだから。神宮、目の前だぞ」
「ウス、気ぃつけます」
 秋季リーグも終わって、練習量が少し減った頃、ナルトは毎日ロードワークをはじめた。足腰を鍛えるには走るのが一番だし、まだまだ身体を大きくしたいと思っている。縦にはもう伸びそうにないが、身体の厚みはいくらでも鍛えようがある。プロの選手は、バットを木の枝でも扱うように振っているが、あんなのは真似しようと思ってもできない。全身のバネを使って、うまく芯を捕らえて、ようやくホームラン。少なくとも量産できる身体ではない。
 と、ここまでそれらしい理由を並べてみたが、目的は違うところにもあった。
 あの人に、会えるかもしれない。
 どこに住んでいるかもわからない。例の居酒屋に何度か足を運んだが、その姿はなかった。でも、もしかして。同じ町に住んでいるのならば、偶然すれ違うなんて幸運が訪れるかもしれない。そんな縋る思いで、ロードを続けている。
 一定のストライドを黙々と刻んでいると、折り返し地点の駅舎が見えた。踏み切りを渡った駅の向こう側をぐるりと回り、ロータリーの隅でストレッチをして寮に戻るのがお決まりのコースだった。踏み切りを超えたあたりでペースを徐々に落とし、駅舎に続く角のタバコ屋を折り曲がろうとした、その時。
「……あれ?」
 探るような女の声に、振り返る。あの人だった。全品100円の自販機の前に立ち、商品ボタンに手を伸ばしている。
「あ!その!ご無沙汰してます!」
 なんて挨拶をしていいやらわからず、変な物言いになってしまった。特に親しいわけでもないのに、ご無沙汰ってのはどうなんだ。
「その節は、どーも」
 言い回しのせいか、最初の出会いを思い出したのか、彼女はおかしそうに笑っている。カーッと体温が上がった。ロードのせいだと思いたかったが、そうではないのは明白だった。
「何か飲む?」
「えっと、じゃあ、アクエリお願いします」
 ナルトは、尻のポケットに手を突っ込んで、小銭入れを取り出した。彼女がアクエリのボタンを押すと、ガラガラと何かが空回る金属音に続いて、ゴトンと缶が落ちてきた。
「いいから」
「や、よくないっす」
 頑なに固辞するナルトを横目に、身体を軽く屈めて、缶を取る。
「優勝、したでしょ?」
「……え?」
「秋のリーグ戦。ずっと結果見てたよ。仕事の都合がつかなくて、球場には行けなかったけど。だから、お祝い。アクエリだけどね。はい、どうぞ」
 500mlの大きな缶を差し出すその手は細く、指がすらりとしている。こんなゴツい手、ちょっと見られるの恥ずかしいな、とらしくもないことを考えた。
「あざっす……」
 礼を言って、缶を受け取る。彼女は、投入口に100円を入れて、コーヒーのブラックを押した。なんか、大人だな。ただの苦い液体を美味しそうに飲むのは、大人の証拠だと勝手に思っていた。
 彼女は、カシュッとスチール缶のフタを開けて、口をつける。きっと、黙っていたら、ここでお別れだ。何か、糸口が欲しかった。こんな偶然ではなく、もう一度、確実に会えるようなきっかけ。考えるより先に、言葉が出る。
「あの、試合、今週またあるんです。明治神宮大会って、デカいやつ……。そこで日本一、決めるんです」
「へえ、そうなんだ」
「日曜日、なんです。もし都合よかったら、見に来てくれませんか?オレ、たぶん出番あるんで」
「そっか、そっか。すごいね!久しぶりに神宮に行くのもいいなあ」
「よく行ってたんですか?」
「よくっていうか、時々かな。うん、いいかも。友達誘って、行ってみようかな」
「はい!ぜひ!」
 その後は、何を話したか覚えていない。二言三言、世間話をしたような気もする。自販機から離れていく彼女の背中に深く深くお辞儀をして、見えなくなるまで佇んでいた。
 自販機の前で一休みして、アクエリで喉を潤すと、ロードに戻る。その道中、ずっと足元がふわふわしていた。地面の硬い感触を、まるで感じない。足首まで埋まる絨毯の上を走っているみたいだ。まあ、そんなものの上を歩いた試しはないのだが、たとえ話だ。
「ぜってー、ホームラン打ってやる」
 身体が軽くて、どこまでも走っていけそうだが、無理をするなと先輩にも言われている。スピードが自然と速くなっていく感覚を意識的に抑えて、いつものコースを走った。



2015/1/17




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