つぼみの頃



つぼみの頃




   二十二.


 部屋の前に立ち、ノックもせずに扉を開ける。寮の中は、どこの部屋もたいして変わらない。四年生は好き勝手にいじっているが、下級生は余計なものを置かずに整理整頓をするのが義務だ。個性を出すなんて、もってのほか。乱れのないベッドと、綺麗に片付けた収納ケース。勉強机を使うのは、誰しも稀。そんな部屋の中、キバはベッドの木枠に背をもたれて、野球道具の手入れをしていた。
「これ、やる」
 構うことなくずかずかと入り、キバの前にコージーコーナーの紙袋を置く。甘いものは好きだが、行き場所のなくなった土産を自分で食べるのは、ひどく虚しい。
「なんだこれ」
 そのままさっさと部屋を出ようとするナルトの背中に、キバの不審そうな声がぶつかった。
「シュークリーム。全部食っていい」
「……お前、気持ち悪いぞ」
 薄く扉を開けたところで、ナルトはドアノブを押すのをやめる。紙袋の擦れる音はしない。その代わりに、キバの視線を感じた。自分の中に溜め込んでいても、ろくなことにならないかもしれない。そのまま引き返し、キバの隣にどすんと腰を落とす。
「サクラちゃんに、引っ叩かれた」
 あの痛烈な出来事から、すでに一週間が経過していた。サクラには電話とメールを繰り返しているが、連絡は来ない。水曜日は定時上がりだと知っていたので、先ほどまで駅前に張り付いてサクラを待ち伏せしていた。時間ギリギリまで粘ったものの、サクラは現れなかった。連絡を絶っていることからも、拒絶の意思は根強く感じられる。アパートに押しかける勇気は、ついぞ持てなかった。
「そんで泣いてんのか」
「泣いてねーよ」
「これだから童貞は……」
「とっくにヤってる」
「ズコズコか」
「ズコズコですよ。エンジョイプレイですよ」
 キバはグラブと手入れ用の布を床に置き、服の裾で手を払ってから、紙袋を引き寄せた。中には、サクラと一緒に食おうと思って買った大ぶりのシュークリームが二つ入っている。
「嘘。楽しんでるの、オレだけ。サクラちゃんがどう思ってんのか、サッパリわかんね」
「痴情のもつれってやつ?」
 パッケージを破き、がぶりと一口。
「何それ」
「お前、バカだね。知ってたけど、バカだね。身体の相性悪いとか、中出ししたとか、外でおっぱじめたとか、そっち系の揉め事かって聞いてんの」
 隣の男は、ずけずけと聞いてくる。そういえば、こいつは彼女とどういう付き合いをしているのだろう。口から出るのは惚気話ばかりで、揉め事とは無縁のように思える。もしも何らかの葛藤を抱えているのだとしたら、どうやって折り合いをつけているのか。そして、今まさに直面している問題を、いかにして乗り越えたのか。床に目を落としたまま、ナルトは重い口を開いた。
「……お前さ、彼女が昔付き合ってた男って、気にならない?」
「あー、もしかして、そこに触れちゃった?そりゃ怒るべ。ほんとバカだね、知ってたけど。あ、やべ、ついちった」
 シュー皮からクリームが溢れて、指を舐める。こんな風にクリームを手につけて、「オレってば、あんま食べないから」と笑い合い、サクラが淹れてくれたお茶飲みながら仲直り。そんな展開は、見通しが甘すぎた。
 キバに諌められるのも当然だと思う。あの瞬間、何を口走っているのかと、自分でも愕然とした。その日は、いつも別れ際に苛まれる得体の知れない寂寥感が少しも消えずにへばりついていて、それを振り切れぬままサクラと勉強会を開くことになった。サクラは、いつも通りに振る舞い、ナルトを部屋に上げる。こんなにも心をかき乱されているのは自分ひとりなんだろうなと思うと、自棄に駆られて、玄関に足を踏み入れると同時にサクラを押し倒した。無理やり事に及ぶのだってありえないというのに、どうしてあんな暴言を吐いてしまったのか。恥を知れ、と自分の背中を蹴落として、気持ちをドン底まで沈ませる。
「オレさあ、高三の時のクリーンナップ全員と穴兄弟なんだよね」
「……はあ?」
 とんでもなくえげつない言葉を聞いた気がする。キバは、ティッシュで舐めた箇所を拭って、それをゴミ箱に放り投げた。二個目のシュークリームを掴むその横顔を、凝視する。
「女マネってのが曲者でさ、将来の有望株にツバつけとこうって思ったんだろな。みんながみんな、自分だけだと思ってたのに、卒業してすぐにバレた」
「なんつーか、すげえ話だな……」
「そ。最初がそんなもんだったからかね、なんかその辺、麻痺してんのよ。オレを見てくれるだけで有難いっつーかさ。今の彼女、すんげえいい子だし、うまくいってるって思ってっけど、あんま構ってやれねぇからな。オレら、寮暮らしだし。他の男に目移りされても怒れねぇわ」
 他の男どころか、いまさら言ってもどうしようもない過去の男に嫉妬している矮小さを、まざまざと突きつけられた。あの日しでかした救いようのない失敗は、二人の関係にひびを入れるには十分で、サクラに見限られても仕方がなかった。
「オレ、ちっせえなあ……」
「大丈夫だ、標準サイズだから」
「今はそういう話じゃねーだろ!」
 キバはからからと笑って、シュークリームにかぶりつく。
「そんな感じでぼくら、ずっと清い関係のままですよ」
「え、だってお前、外出届……」
「彼女の部屋で過ごして、ベッドの中で抱き合って寝るのです」
「それ、生殺しっていうんじゃ……」
「なんかね、そういう関係っていいなって、この頃は思うのです」
 なんだこいつ、超イイ男じゃねえか。惚れた女が隣に寝ているのに、我慢なんてできるはずがない。自分のみすぼらしさを嫌というほど見せつけらて、これが底だと思っていたところから、ごろごろと転げ落ちる。
「とかなんとか言って、ビビってるだけかもな」
 キバは転がっているボールを手に取って、指に縫い目を引っ掛けると、手首のスナップを利かせながら上方に向けて放る。ボールはくるくると綺麗にスピンして、キバの手に戻った。
「彼女、実家?ひとり暮らし?」
「ひとりでアパート暮らし」
「んで、彼女ん家、行ったの?」
「……嫌われんの怖くて、行けねー」
「ぶはっ!オレと同じだな!」
「全然ちげーだろ」
 致命傷になりうる事態にビクついて最後通牒を突きつけられるのをひたすら恐れているのが自分で、彼女への思いやりを最優先にしているのがキバ。卑屈と言われようが、キバと同列に語るに値しないとナルトは思う。
「こえーのは、みんな同じだ。オレだって、これ以上女に幻滅したくなくて、知らんうちに距離を作るようになってるだけかもしんねーし。手ぇ出さないのはオレの自己満足で、あいつにとっちゃ辛いだけなんかもな」
 キバは苦く笑って、ボールをまた放った。手のひらに戻ると、乾いた音が鳴る。
「ほんと、こえーわ」
 その呟きは、小さな声量のわりに、ずしりと重かった。真っ暗闇の底まで落とされたにも関わらず、女なんてまっぴらだと遠ざけるでもなく、新しく大事にできる女をキバは探した。それは、ほとんど偉業だと思う。
 もし自分に誇れる部分があるとしたら、惚れこんだサクラとの縁を自分で手繰り寄せて繋げたことだ。浅い溝に躓いて派手に転んだだけで、何をぐずぐず迷っているのか。諦めるつもりなんか毛ほどもないのだから、まずは謝罪をして、関係の修復に努めるべきだ。
「オレは、もうちょっとこのままでいるわ。お前、どうすんの?」
 キバの問いかけに、選択肢はひとつしか浮かばない。
「どうすんのって……家に行くしかねーだろ。メールは返事こないし、電話しても出てくんねーし」
「コテンパンにやり込められたら、女紹介してやるよ。オレの知ってる範囲だとヒデー目にあうかもしんねーから、あいつに紹介してもらうか。つっても、むっちゃくちゃ頭いい女子大だから、話合うかわかんねーぞ?」
 ニッとキバは笑いかける。それがまた余裕を感じさせて、格好良い。
 男女の仲になるっていうのは、自分が傷を受けたり相手を傷つけたりする覚悟を持つことからはじまるのかもしれない。かといって互いにつけた傷を舐め合うのではなく、その傷跡を再び抉らないように労わる方法を覚えるのだ。できるか、と自分に問う。やるんだと強く言い切るだけの力が、自分の中には漲っている。
「わりーけど、女を紹介ってのは、なさそうだわ」
「そうだな、お前にゃ女子大のお嬢さんは御せねえよ」
「ぎょせ……なんつった?」
「いい、いい。お前はわからんでいい。バカのままがいい」
 その言い草は気に食わないが、シュークリーム程度じゃ安いぐらい身のある話ができた。やっぱり、こいつに言っておいてよかった。友達、いた方がいいよ。そう言って心配そうな顔をしていたサクラに、こいつのことを教えてやろう。
 オレには、野球を離れたって一生モンの付き合いができる友達、ちゃんといるから。安心してよ、サクラちゃん。
 伝えたいこと、まだ伝えていないこと、そんなものは数え上げたらきりがない。出会ってまだ半年も経っていないのだから、当然といえば当然だった。それら全部をひとつひとつ、サクラに話していこうと思う。




2015/3/25




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