つぼみの頃



つぼみの頃




   二十三.


 このところ、仕事の納期が立て続けに待ち構えていて、目が回るほどの忙しさだった。本来なら定時上がりの水曜日も、特例措置で残業漬け。その日は終電にも間に合わなくて、深夜二時過ぎ、タクシーで帰った。
 多忙なのは、サクラにとって幸運だった。なにしろ、自分の私生活について考える隙間が一ミリもない。メールや電話がくるたびに心が焼けそうになったが、仕事が最優先だと言い聞かせて見て見ぬふりをした。仕事というのは、うってつけの逃避先で、自分の食い扶持を失うわけにはいかないと没頭すれば、思い出すだけで腹が煮えくり返る出来事を外に追いやることができた。
 今日は切りが良かったので、久しぶりに残業をすることなく帰路についている。明日は日曜日。先々のことを見据えると、出勤は悩ましいところだった。風呂に入ってから、ゆっくり考えよう。
 バッグから鍵を探す際、惣菜パンの入ったビニール袋がガサガサと鳴った。それが、自分の心の中で絶えず鳴っている不協和音と呼応する。思わず、顔をしかめた。それをかき消そうと大きく靴音を鳴らして階段をのぼりきり、廊下に出ると、部屋の前にしゃがみこむ影があった。かっと頭がのぼせる。
「何してるのよ!」
 苛立ちをそのままぶつけると、ナルトは地面にしゃがみこんだまま、サクラをじっと見上げる。
「サクラちゃんが帰ってくんの、待ってた。水曜日、会えなかったから」
「……もしかして、毎日来てたの?」
 ニットキャップを被った頭が、こくんと縦に動く。
「だって、会いたかったから。このまま切れちゃうなんて、絶対にイヤだったから。オレ、サクラちゃんに酷いことしたし、怒るのが当然なこと言ったってわかってる。どうしても、謝りたかった。でも、電話しても出ねーし、メールも返ってこねーし、ここで待ってるしかねーってばよ」
 まだ空気が冷えているというのに、外で待ってるなんて。ネックウォーマーに手袋と防寒はしているようだが、今はオープン戦の真っ最中だとサクラも知っている。大事な時期に体調を崩したらどうするのか。急いで鍵を開けて、大きな身体を部屋の中に押し込む。バタンとドアが閉じる音を耳にしながら、部屋の前で待ち伏せしている行為ではなく、風邪を引くかもしれないという心配が怒りの源であることに気づいた。あの日の出来事に対して、まだ燻りは残っているが、迷うことなく家に入れた時点でナルトを許していたのだろうと思う。
「これ、ケーキ」
 玄関で靴を脱ぐなり、ナルトはコージーコーナーの箱を差し出した。受け取るまで帰らないという気構えを感じて、箱の底を持ち上げる。
「……ひとつ?」
 そう尋ねれば、ふるふると首を横に振った。この子は、なんでこうもいじらしいのか。
「じゃあ、一緒に食べよう」
 仲直りに、ケーキでも。そんな無言の提案を、サクラは受け入れた。このまま気まずく別れるなんて、サクラだって考えたくはない。むしろ、話をするタイミングをナルトの方から持ちかけてくれたのを嬉しく思った。
 やかんに水を入れてガス台の火をつけると、カップにティーパックを落として、紅茶を用意しはじめる。カップは揃いじゃないけれど、そろそろ買おうかなと思っていた。二人分の食器があってもいいだろう。料理はこれから勉強する予定で、ナルトに毒見をしてもらおうと考えていたことを、不意に思い出した。
「まずは、謝らせて」
 ナルトはちゃぶ台の前に立ったまま、深々と腰を折った。
「あんなことして……酷いこと言って、ごめんなさい」
「……とりあえず、座らない?」
「ホント情けないけど、嫉妬した」
 ナルトは姿勢を戻すと、ぎゅっと唇をかみ締める。サクラは火を止めると、ガス台を離れる。お茶を飲みながら話をしようと思っていたが、先に済ませた方がよさそうだ。サクラが座ると、ナルトもまた、ちゃぶ台を挟んだ場所に腰を落とした。
「これだけは、言っておこうかな、と思う」
 その切り出し方にナルトの表情が強張る。たじろぐサクラだが、この際はっきりさせておいた方が、お互いのためになると判断した。
「ナルトと出会う前に好きな人がいたのは事実だし、そこは変えられないの」
「……うん」
「お互いが初めて付き合う人だったら綺麗なんだろうけど、それはどうにもならなくて……」
 この件に触れるのは、これで最後にしよう。そう決めて、サクラは言葉を繋げる。
「ごめんね、最初に好きになったのが、あなただったらよかったね」
「そんな、謝んないでよ」
「でも、嫉妬してくれるの、実は嬉しかったりする。興味ないより、ずっといいよね」
「……興味ないわけねーだろ。嫉妬してばっかだ」
 ぷいっとそっぽを向いて、ナルトはもごもごと口を動かした。
「だって、オレ、学生だし、金ねーし、ろくに遊べねーし、会社に行ったらもっと頼りがいのある奴がいるんだろうなって思うと、自信なくなる」
「ウチの部署、若い女の子とおじさんばっかりよ?」
「他の会社は?取引先って、サクラちゃんが言ってたとこ」
 そう問いかけて、ナルトは気弱な視線をちらりと向ける。
「個人的なメールなんてするわけないでしょ。そういう縁があったら、こうしてナルトと一緒にいることもないわけだし」
「接待って、何すんの?」
「うーん、お酒作ったり、ビール瓶持って席を回ったり、世間話したり、合間に仕事の話を捻じ込んだり」
「あのさ」
「ん?」
 ナルトは、神妙な顔をして、居住まいを正した。
「……オレんこと、まだ好き?」
「当たり前でしょ?好きじゃなかったら、とっくに部屋の前で追い払ってるもの」
「また、家に入れてくれる?勉強、見てくれる?」
「もちろん」
 サクラが頷くと、ようやく部屋の空気がやわらいだ。今度こそケーキを食べよう。そう思って腰を持ち上げたサクラの視界に、棚に置いてある卓上カレンダーが留まった。今日の日付を思い出し、一瞬動きが止まる。口にしようか迷ったが、気がついてしまった以上、言わないのも妙な感じだ。浮かせた身体を、すとんと落とす。
「実は今日、誕生日なのよね」
「……は?え?何それ……」
「喧嘩したから、言いそびれちゃった。でも、ほら、ケーキは、」
「そういうのは、ちゃんと言ってくれッ!」
 はじめて聞いた怒鳴り声だった。サクラは、気圧されて仰け反りそうになる。
「サクラちゃんはさ、何も言わねーじゃん。普段何してるのか、とか。勤め先の場所がどこか、とか。そりゃあ、聞けねーオレがもちろん悪いんだけど、そんぐらいは言ってくれよ。そんなに教えたくない?オレが頼りないから?年下だから?」
「……ごめんね」
 そう口にしたが、ナルトが欲しいのは謝罪の言葉じゃないのだとわかっている。迷いを孕んだ視線を下に向けて、目を閉じた後、また持ち上げた。
「ちょっとだけ、話そうかな」
 打ち明けるのはひどく勇気のいることだったが、いのが言うところの厚化粧を落とすのは今しかないと思った。部屋をぐるりと眺めて、話の糸口を探す。そういえば、このところ忙しかったせいで、部屋の片づけが疎かになっている。まずは、身の回りから話してみよう。
「掃除の手、ちょっと抜いていい?ナルトが家に来る時って、すごく丁寧に掃除してるの」
「そんなの、適当でいいってばよ」
「会社は、門前仲町。駅から電車で10分ぐらい」
「そうなんだ。近いね」
「うん。ここ、滅多にない掘り出し物なんだって。大家さんも親切だし」
「そっか」
「えっとね、休みの日は、わりと寝てばかりです」
「オレだって似たようなもんだよ」
「あとは、お酒、かなり好きです」
「そうだと思ってた」
 ナルトは、にたりと人の悪い笑みを浮かべる。出会いが居酒屋なのだから、飲み方はともかく、酒が好きなのはバレているとサクラもわかっていた。
 さて、いよいよここからが正念場。この先は、ちょっと難易度が高い。
「たまに一人で立ち飲み屋に行ったりしてる」
「え?一人で?」
「行きつけの店があるの。そこ、店長以外は女の店員さんだから、気楽なのよ」
「へー、そうなんだ」
「朝は、ご飯食べないで家を出ます。会社近くの喫茶店で、朝ごはん。そこで新聞を読みます」
「ブハッ!おっさんみてえ!」
「そう、実際はこんなもんなのよ。可愛いってナルトは言ってくれるけど、本当はそうでもないの」
「でもオレ、そういうサクラちゃん、スゲー好きだよ」
 屈託のない表情で、さらりと口にする。その懐の深さが頼もしい。もしかして引かれるかな?と気を揉んでいた自分が滑稽に思えてくる。久しぶりの恋愛に浮き足立ち、距離感がすっかり狂ってしまって、一歩先がまるで見えていなかった。おそるおそる片方の足を持ち上げてみると、目の前に広がる霧がサッと晴れて、両足を揃えて着地すれば、ナルトが笑って抱きとめてくれた。
 真向かいであっけらかんと笑うこの人がとても好きだな、と改めて思う。夜を一緒に過ごすのが嬉しくて、朝が来るのが名残惜しくて、昼には声が聞きたくなって、電話ができない深夜の帰り道、ちょっとだけ泣きたくなる。
「……ケーキ食べたら、帰っちゃうんだよね」
 今は、寂しさを隠そうとも思わない。だって、そんなの出し惜しみしても仕方がない。あっさり見送って、情が薄いと勘違いされても困る。別れ際に胸をせつなくさせているのは、ナルトだけではない。嫉妬深くて寂しがりな一面を、ナルトには知っておいて欲しい。
「よし、ここはひとつ、とっておきの裏技を使おう」
 ナルトはポケットから携帯を取り出すと、すくっと立ち上がった。パカリと携帯を開けて、ボタンをカチカチいじり、耳にあてる。
「サーセン!お疲れ様です!先輩に、ひとつご相談があって電話させてもらいました!」
 ピンと背筋が伸びて、すっかり野球部員の顔になる。この姿を見るのは、久しぶりだ。
「あざっす!うずまきナルト、ついに童貞卒業のチャンスが巡ってまいりましたので、つきましては外泊の許可をお願いします!はい、はい、そうっす!確実です!これ逃したら、もう無理です!一生無理です!はい、はい、あざーっす!」
 携帯片手に90度のお辞儀する人、はじめて見た。呆気にとられるサクラをよそに、電話を切ると涼しい顔でナルトは胡坐をかく。
「というわけで、泊まれることになりました。こいで明日の昼までオッケー」
「……今のが、裏技?」
「そう。二年で女いないのオレだけってバレてっから。そんで、サクラちゃんのことは部の奴らに言ってねーの。こういう時に使おうって思ってさ!バレンタインとホワイトデー、どっちも空振りってのはさすがに無理があるかなーってちょい不安だったんだけど、いやー、信用されてんのね、オレ」
 サクラはバタンと床に倒れて、腹を抱えて笑う。
 男って、バカだ。ほんとバカだ。年下って、どこまでも愛しい。
「オレね、来年になったら、外泊できる日が増えるんだ。だからさ、」
 床に寝転がったまま、区切った言葉の先を待つ。
「それ全部、オレと一緒に過ごしてくれる?」
「ん。そうしよ。私も、一緒に過ごしたい」
 ナルトは満面の笑みを浮かべて、やった、と小さく呟く。明日の朝は、絶対起きるのがイヤだろうなとサクラは確信した。せっかく昼まで抱き合っていられるというのに、何だって朝から仕事なんかしなければならないのか。終電とタクシー帰りの繰り返しで、身体は休養を欲している。このままでは、倒れるより先に心が死んでしまう。
「明日、休んじゃおうかな」
「休めるの?」
「仕事は落ち着いてきたし、休日出勤そろそろ調整しろって、こないだ言われちゃったのよね。残業時間、誤魔化してたりするし」
「じゃあ、朝も一緒にいられる?」
 ナルトは、サクラと同じ角度に顔を傾ける。
「朝どころか、昼まで一緒」
 やった、と喜ぶ声はより大きくなる。素直なところが、ナルトの長所だ。見習うべき点が、たくさんある。
「そういえば、試合は?」
「ちょうど中休みなんだってばよ。この日じゃなかったら、アウトだった。すげえタイミングだろ?そうだ、サクラちゃん誕生日なんだから、飲みに行こうぜ!オレ、酒はダメなんだけど、飲んでるサクラちゃん、もっかい見たい。ケーキは帰ってからでもいいし!」
 そうと決まれば、ケーキは冷蔵庫の中。コートを着込むと、これから二人だけの遊びに繰り出すのだとばかりに笑い合って、アパートを出た。弾むような足取りで階段を下り、指を絡ませて駅に向かう道を歩く。
「これから、色んなとこに行こうね。いつも朝ごはん食べる喫茶店でしょ、屋台のおでん屋さんでしょ、神宮はできるだけ時間作って通うし、勝ったら美味しいもの食べよう。あとね、この近くに小石川後楽園ってとこがあって、たまに散歩に出かけるの。すごく綺麗だから、一緒に行きたいな。あ、その前に、今日は遠回りしよう。お花見したい!」
 ぐいぐいとナルトを引っ張って、今度は駅の反対側を目指す。
「……サクラちゃん、なんか子供みてぇ」
「4つ違いって言っても、そんなに大人じゃないのよ」
「サクラさん、じゃなくて、サクラちゃんで正解だったな」
「うん、そうかも」
 抗わずに肯定すると、ナルトは快活に笑う。
「サクラちゃんは、やっぱ可愛いよ。サイコーに可愛い。世界で一番可愛い!」
「そうかな?」
「オレがそうだって言うんだから、そうなの!だから余所見しないでね!」
「あのね、言っておくけど、嫉妬するのはお互い様だからね。昼間も一緒にいられる女の子には敵わないもの。試合で活躍してるんだから、声かけられることも多いだろうし。ただでさえ、あんたカッコイイんだから」
 よし、ちょっと砕けてみたぞ。ナルトがずっと見てきた「親切なお姉さん」の顔を、少しだけ脱いでみた。横目でちらりと表情を窺うが、ナルトはキラキラと目を輝かせるだけで、「あんた」なんて呼び方は、まるで気にしていなさそうだ。
「オ、オレってば、カッコイイの!?」
「あったりまえでしょ!私、面食いだもの」
「……今、すごく余計な情報が入った」
 ああだこうだと話を続けながら駅舎を通り過ぎて、桜並木に辿りつく。まだ満開とまではいかなくて、桜吹雪が舞い散るのは先のこと。今は、七分咲きがせいぜい。それでも、いずれは満開になる。ここら一帯は、花見の名所。毎年の如く、狂い咲きだ。
 転じて自分たちは、五分咲きだろうか、はたまた三分咲きか。いずれにせよ、つぼみの頃は脱した。こうなればもう、咲くしかない。思う存分、臆することなく、咲き誇ってやろうではないか。
 サクラは顔を軽く持ち上げて、とんとん、と唇の端をほのかに叩く。その仕草を見て、ナルトは口元をほんのり緩ませると、サクラの身体を引き寄せる。しかし、歩きながらのキスはなかなか難しくて、唇から少しだけずれてしまう。それがおかしくて、二人は同時に吹き出した。









2015/3/28