つぼみの頃



つぼみの頃




   二十.


 ホワイトデーが、間近に迫っている。
 今シーズンのオープン戦はもうはじまっていて、練習に遠征にとバタバタした毎日が続いていた。ようやく寮に帰ったその夜、雑事を済ませてから、やや疲れの残る身体をベッドに預ける。いつもの天井は相変わらず無機質で、滞在したホテルの部屋に染み付いていたタバコのヤニとは無縁だった。真っ白な天井と向かい合い、考え事をする。
 バレンタインのお返しは、仲間たちから集めた寄付金を一気に使って装飾品を買ってやるんだと息巻いていたのだが、サクラの部屋に通っているうちに、考えが徐々に変わっていった。あの部屋に置いてあるものは、全部サクラが身銭を切って買ったものだ。そこに混ぜてもらうには、自分が稼いだ金を使わないと意味がないように思えた。頼みの綱である仕送りは、親の金。バイトをするのが手っ取り早いのだが、そんな時間はない。ベッドに寝転がって金策を考えている途中、はたと気づいた。
 そういやオレ、バイトやってたわ。
 ナルトは、ベッドから跳ね起きて、下の収納ケースを引っかき回す。
「……あった!」
 取り出したのは、預金通帳だった。記帳されているのは、虎の子の五万円。大学の推薦入学が決まった時、短気バイトでまとまった金を稼いだのを忘れていた。これはとっておきのとっておきで、本当に困ったら使おうと眠らせておいたのだ。それさえも忘却の彼方だったが、今回ばかりは自分のバカさ加減に救われた気持ちだった。これで、プレゼントが買える。この土日が空いているのは、幸いだった。
 翌日、ATMで引き出した五万円を握り締めて足を運んだのは、最初のデートでなすすべもなく突っ切るしかなかった装飾品売り場だった。ピアスは、あけてないからダメ。サイズがわからないから、指輪もダメ。ネックレスかブレスレットか。悩みに悩んで、仕事の邪魔になるといけないからネックレスに決めた。ためしにウィンドウを眺めていると、ずいぶんと価格帯がバラバラで、何がどう違うのかわからない。店員に聞いてみたところ、素材が異なるのだという。説明されても、どうせ理解はできない。「税込み五万円で一番いい奴ください」と告げれば、きっと慣れているのだろう、笑顔をまったく崩さずに、ささやかなダイヤが嵌めこまれたネックレスを三種類出してくれた。これまたひとしきり悩んだ末に、まん丸じゃなくて細長い円形のネックレスに決めた。こっちの方が、洒落て見えたのだ。
 綺麗に包装された商品を受け取ると、店員に笑顔で送り出されて、駅に向かう。電車の中では置き忘れないよう膝の上に乗せ、帰り道では落とすまいと紙袋をしっかり握る。無事に部屋へと辿り着いた時は、一仕事を終えた気分になり、強張っていた肩がホッと緩んだ。




 駅前でぼんやり待っていると、サクラが改札から出てきて、ひらひらと手を振った。最初は振り返すことさえできなかったが、今は違う。堂々と振り返し、手さえ繋いで部屋に向かうのだから、進歩したものだ。年越しの時には考えられなかった関係の変化に、感慨深くなる。
 いつも立ち寄るコンビニはもちろん、アパートに向かう道筋も覚えた。昼間と夜とでは景色が違うとよく言うが、店の看板や曲がり角の特徴をしっかり記憶しているので、間違えることは絶対にないと自信を持っている。空いた手でショルダーバッグの上から箱を触り、びっくりさせてやるぞ、と気合を入れる。
 部屋に入り、コートを脱いで、あったかいお茶を淹れてもらうと、バッグを膝元に寄せて正方形の箱を取り出す。それをちゃぶ台の上に乗せて、ついっとサクラの方へ滑らせた。
「これ、バレンタインのお返し。開けてみて?」
 装飾品だとわかる小箱を前に、サクラは瞬きすらできないようだった。お菓子か何かが返ってくると思い込んでいたのだろう。ご飯も奢らせてもらえなかった身としては、これぐらいのお返しは当然とばかりに、胸を張る。
 リボンが解かれ、現れたのは小さなダイヤが嵌まったヘッド。チェーンは箱の下部に収められている。サクラは、それを引き出すことなく、じっと箱から目を動かさなかった。自分を見つめているようにも思えて、ナルトは照れ隠しに視線を泳がせる。
「昔、オレ、バイトしててさ。いつか使う日がくるかもしれねえからって、取って置いたんだってばよ。いい機会だと思ってさ、新宿に行って、おわ!」
 部屋の天井やら台所やらをちらちら見ていたせいで、サクラが抱きついてくるのに気づかなかった。
「嬉しい。すごく嬉しい。私、チョコしかあげてないのに……」
「何言ってんの。たくさん、もらってるってばよ」
「だって、何も、残せてない」
「残ってるって。勉強見てもらって、英語の曲教えてもらって、無理だと思ってた音読もどうにかなりそうでしょ?それに、バレンタインのこと、忘れらんないからさ。オレだって、何か返したい。こんぐらいしか、思いつかなかったんだ」
「……今日、泊まれるの?」
「外泊届、出してる」
「じゃあ、朝まで一緒にいて。帰らないで」
「うん、そうする」




 サクラの身体に触れる。あたたかな肌は、マメで硬くなった指を優しく受け止めてくれる。その吐息は少しずつ乱れはじめ、顔をそろそろと覗き込むと、ファミレスやカラオケボックスで見せる知的な表情はすっかり艶を帯び、情動を掘り起こす。意識がぶっ飛びそうになると、サクラの手をぎゅっと掴んで、離すものかと歯を食いしばる。
 サクラの部屋には、物がたくさんあった。知らない本に、たくさんの化粧品、名前も知らないバンドのCD。それらがぎゅうぎゅうに詰まった棚に囲まれて、サクラはいつも、薄膜の中にいた。
 入ってもいい?と問いかければ、サクラは腕を回してくる。確かな手触りがあって、身体はピタリと繋がっているのに、どうしてだろう、越えられない一線が横たわっている。ゴムが邪魔をしているのかとバカなことを考えるが、それが本質ではないことは明らかで、どうにか取り払いたいと肌を合わせる。欲に溺れるだけ溺れるのは、いつだって自分の方だった。それでも、最後はある種の一体感に浸れるし、甘美な感覚を分かち合えた。共に一夜を過ごすことは、例えようのない喜びだった。
 翌朝、駅で別れてから、それはやってくる。帰り道を歩いていると、胸をかきむしるような寂寥がこみ上げてくる。もっと奥まで入りたいのに、いくら目を凝らしたところで、何も見えてこない。それが悲しくて、悔しい。身体の隅々まで暴いたとしても、肝心なものが掴めない。どうやったら君の中に入れるんだろう。
 他の奴には、見せたのかな。オレだけ、知らないのかな。
 最初の男じゃないのは、わかっていた。こんなにも可愛い人を放っておくバカはいないだろう。今、自分を見ていてくれるだけで、満足しなきゃいけない。なのに、なんだってオレは。
 ここ最近、そんなことばかり、考えている。




2015/3/14




次ページ