つぼみの頃



つぼみの頃




   十九.


 昨日終電で帰ってから、丁寧に丁寧に掃除した部屋をもう一度確認していると、普段はあまり鳴ることのないブザー音が聞こえた。ドアフォンなんてついていない古いアパートは、玄関扉についている小さなスコープが頼りだが、この時間帯に来訪するのは、ただ一人。それは、サクラにとって最愛の人だった。
「こ、こんばんは」
 何と言っていいかわからないのだろう。玄関扉を開けるとナルトは他人行儀な挨拶をして、肩から提げたバッグを両手で抱える。
「どうぞ、入って」
「おじゃま、します」
 躾がしっかりしているのか、ナルトは靴を脱ぐときちんと揃える。その所作を見て、サクラは驚いた。自分だって靴の踵ぐらい合わせる。しかし、それをやっている男を見たことがなかったのだ。他にもナルトに感化されて気をつけることは増えたのだが、逆に自分の雑さをひたすらに隠すようになってしまって、たぶん、細やかな気遣いのできる女だと思われている。そういうところから変えていくべきだとわかっていながら、なかなかそれを崩せない。ひとつを変えると違うどこかにも綻びが出て、すべてが台無しになってしまいそうに思えた。先日飲んだ時にいのから言われたことが頭を過ぎると、「わかってるのよ」と言い訳をしてしまう。
 ちゃぶ台にきちんと正座をして、ナルトはバッグの中から教科書やらノートやらを一通り広げた。お勉強をしましょう。その姿勢は大変すばらしい。部屋で勉強会を開く事に多少の気がかりを抱いていた自分を叱りたくなった。
 先週、いつものカラオケボックスで教科書を広げていた時のことだ。今度から部屋で勉強してもいいかとナルトに尋ねられて、サクラは即答できなかった。強引なところを見せないナルトのことだから、黙っていれば勉強会は外で続けることになるだろうと思っていたのに、珍しく引く様子がない。場所代勿体ないし、とか。ペットボトルならドリンクバーより安いし、とか。叱られるかもしれないと少々びくつきながらお伺いを立てる様子がいじらしくて、結局は「いいよ」と頷いてしまった。こういう時、ナルトは駆け引き上手なんじゃないかと思う。勝負事に長けているからこそ、ここぞという場面を見過ごさないのかもしれない。何にせよ、その度胸には感服する。いつまでも「親切なお姉さん」でいるつもりはないのに、殻を破ることができないのは意気地がないからだ。
「お茶、いれるね」
「お、お構いなく!」
「構うわよ。お客さんだもの。あったかいのがいい?それとも、冷たいの?」
「冷たいのがいいってばよ」
 じゃあ、ファンタで決まり。あらかじめ買っておいたペットボトルを取り出すと、グラスに入れて、もてなしをする。今日は、英文を読み解く日だ。ノートの新しいページを広げて、開き癖を直すナルトの前にカップを置いて、勉強会がはじまった。




 きっかり一時間が経ち、スマホのアラームがそれを知らせる。すると、ナルトは急にそわそわしはじめて、グラスを手にすると、ごくごく喉を鳴らして飲んだ。居住まいを正し、部屋中に視線を泳がせた後、ようやく床下に落ち着く。
「……そっち、行っていい?」
「……ん」
 ナルトはその返事を受けて、ずりずりと床に膝を擦らせながらこちらに移動する。肩を抱き寄せる手つきは、まだまだぎこちない。それが愛しくて、ちょっと笑ってしまった。傷つけてしまったのならば、申し訳ない。でも、だって、どうしたって可愛いのだ。この可愛さに自分はやられてしまった。こんな風に甘えられるのは新鮮で、寄りかかってくる温度は、もう手離せない。誰かが傍らにいる安心感に浸りきっている。
 はじめてナルトを部屋に招き入れた日、サクラは自分の内側を曝け出すことができなかった。はっきり好きだと口に出すのが精々で、それ以上のことは何も言えないどころか、声すら隠してしまった。その挙句、無反応すぎて飽きられたらどうしよう、などと自縄自縛な思考に陥っている。踏み出すべき一歩先が、此岸と彼岸ほど遠かった。
 不安ばかりを抱えているくせに、無骨な指が身体を這うと、そんなのはもうどうでもよくなってしまって、顔を引き寄せて舌を絡ませる。ああ、引かれないだろうか。嫌われるのが、こんなにも怖い。その目に少しでも軽蔑の色が浮かんでしまったら、きっと立ち直れないだろう。臆病な自分は声すら出せなくて、黙って身を委ねている。こんな女でごめんなさい。行為の最中に、許しを乞いたくなる。
 ナルトが深く入ってくると、自分を覆う殻はますます分厚くなる。乱れないように、自分を押し上げる感覚を必死で消して、目の前の快楽から何とか逃れて、それでも、最後に得られる幸福感に追いすがって。
 ひとつになることが、こんなにも嬉しい。
 それだけは、どうしても、言えなかった。




2015/3/4




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