つぼみの頃



つぼみの頃




   一.


 だらだらと2kmほど続く坂道の中ほどに、その店はある。何の変哲もない雑居ビルで、一階はコンビニ。二日酔い対策のドリンク剤が品揃え豊富で、扉脇には瓶専用のゴミ箱が併設されている。通り全体に少々猥雑な雰囲気も感じられるため、この付近を一人でぶらぶら歩くのを怖がる女性も、きっと居るだろう。サクラは、そんな気後れをひとつも見せることなく、ヒールの音を鳴らして階段を上がっていった。
「いらっしゃいませぇー!」
 店の戸を開けると、野太い男の声と、甲高い女の声が混じって、一気に飲み屋らしい雰囲気になる。ここは、いわゆる大衆居酒屋。大学生の頃にたびたび足を運んだ店で、座敷が広いためサークルの打ち上げによく使っていた。
「何名様ですか?」
「二人。後からもう一人来ます」
「金曜日ですので、二名様はカウンターでのご案内になりますが……」
「いいですよ」
 若干申し訳なさそうな声を遮って、サクラは頷く。荷物を置くのにボックス席は便利だが、そこは学生に譲ることにした。単価の安い居酒屋は、貧乏学生にとっては大変有難い存在で、その事情はサクラにもわかる。かつて通った道だ。
「二名様、三番カウンターにご案内でーす!」
 フロアを忙しなく移動している店員たちが、どこの席に何人座っているかを確認する。案内を終えて離れていこうとする店員に、ビールと枝豆を頼んで、サクラは隣の席に荷物を置いた。そしてバッグから取り出すのは、スマホ。「今あがった。遅くなってごめーん」といのからメッセージが届いていて、最近お気に入りのスタンプが添えられている。いのは珍しいスタンプを使うのが好きで、こんなのどこで見つけたんだろう、と思うのもしばしばだ。
 すぐにビールと枝豆が運ばれてきて、ぐいぐいっと半分くらいまで一気に飲む。最初はビールが苦手で、梅酒やカクテルばかり飲んでいたが、仕事を覚えて後輩が入ってきた頃になると、ビールの美味しさが徐々にわかるようになってきた。今度はキンキンに冷えた氷点下のビールを飲みに行こうと狙っている。
 さて、何を頼もうか。焼き物や煮物は、いのの到着を待ってからにしよう。たこわさか漬物かなーと、メニューも見ずに考える。
「あの、サーセン!」
 店員にしては、妙な言葉遣いだ。首を捻ってちらりと視線を持ち上げると、ジャージ姿の男が立っている。この店に来るということは、サクラの母校の学生と考えて間違いない。背筋はピンと伸び、これは体育会だな、とすぐにわかった。それにしては金髪なのが不思議だったが、さして興味は惹かれない。
「自分、向こうの座敷で飲んでるんですが、一緒にどうですか!」
「イヤです」
 ピシャリと断る。新人の度胸試しに使われるのは、まっぴらだ。どうせ裏で、先輩が笑いながら見ているんだろう。気分が悪い。
「どうしてもですか!」
「はい、イヤです」
「失礼しゃす!」
 金髪男は、ぶんと音がなるほど高速で頭を下げて、座敷に戻っていく。背中には思ったとおり、母校の名前がしっかり刻まれていて、襖の陰からは、顔がにょっきりと生えている。やっぱり度胸試しの類かと、うんざりした。根性の悪い奴は、どこにでもいる。まあきっと、金髪男に拒否権はないのだろうし、その点だけは同情できた。スポーツするのも大変ですね、と心の中で一応労ってから、スマホを手に取る。画面を見ると、鬼太郎のふざけたスタンプが届いていて、思わず笑った。その後は何度かスタンプの応酬をした後、「電車に乗った!」と一報が届く。返信をしようといじっていると、たたっと軽い足音が近寄ってきた。例の金髪男だ。
「楽しい余興も用意してます!爆笑間違いなしの鉄板ネタです!どうですか!」
「イヤです」
「失礼しゃっす!」
 金髪男は、最初よりもさらに深く頭を下げて、座敷に戻っていく。そのままじっと様子を眺めていると、襖の陰から手が伸びて、頭を引っ叩かれていた。そして金髪男は、頭を擦りながら座敷に消えていく。正直、二度目は予想していなかった。違う誰かに声をかけても良さそうなものなのに、と思う一方、人待ち顔な女一人というのは声をかけやすいんだろうな、と納得もする。
 驚くことに、金髪男はそれからさらに二回もやってきた。それなのに、「イヤです」と取り付く島もなく断ると、さっさと帰っていく。これは、何かの罰ゲームだろうか。たとえば試合で失敗をして、女を連れてくるまで延々と声をかけさせられる、とか。あー、やだやだ。体育会は、これだからイヤだ。不快な気持ちを飲み下すように二杯目のビールをごくごく飲んでいると、ぽん、と肩を叩かれる。
「お待たせー!店閉めるの、ちょっと手間取ってさー!」
「接客業は大変よね。お疲れ様」
「あー、ビール飲みたい」
「瓶でしょ?」
「もっちろん!楽しむために、夕方から何も飲んでないのよ。何か頼んだ?」
「今は、これだけ」
「じゃあ、いつものやつ、頼んじゃおう。きのこのバターソテー、たまに食べたくなるんだよねー」
「わかるわかる。あ、ごめん、私ちょっとトイレ」
「んじゃ、適当に頼んじゃうよ?」
「任せる」
 そう言ってバッグを持つと、サクラは化粧室に立つ。さっきから手がベタベタするので、ちょっと洗っておきたい。勝手知ったる店内だ。最短距離で奥の手洗いに辿り着く。
「おあッ!」
 ドアに手を伸ばしたところで、妙な声が聞こえた。隣の男子便所から出てきたのは、金髪男。バッタリ鉢合わせになったようだ。あからさまに気まずそうな顔を見ていると、ちょっと可哀相になってくる。
「……叱られました?」
 声をかけられるなんて、想定外だったのだろう。金髪男は、目をまん丸にして驚いている。そして、口をぱくぱくさせて慌てた後、直立不動の姿勢になった。
「や、あの、全然っす!」
「何か、スポーツやってるんですか?」
 金髪男はさらに目を丸くして、サクラを凝視する。
「違ったかな……」
 こめかみを擦りながら呟くと、「野球!」とひときわ大きな声が返ってきた。
「ん?」
「野球、やってます!」
 頬がやや高潮して、声も上擦ってる。なんだか可愛い子だ。
「野球、頑張ってくださいね」
 にっこり笑うと、どぎまぎした様子で、「あざっす!」と礼を言う。その素直さと、礼儀正しさと、照れた顔。きっと、いい子なんだろうな。とことん気分を害された一連の行動ではあったが、最後にこの子と話ができて、ちょっと楽しかった。
「し、失礼します!」
 90度のお辞儀を見せて、金髪男はバタバタと座敷に戻っていく。学生時代、神宮球場には何度か足を運んだことはあるけれど、勝敗を気にしたことはなかった。今度から、新聞のスポーツ欄を見ることにしよう。明日の朝刊が、楽しみだ。




2015/1/15




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