14. とうとうナルトが、自らの恋心に終止符を打ったようだ。忘れていいと言ったのはサクラ自身だが、それでも傷は疼く。自分だけに向けられる好意は心地良く、抱きしめられれば心臓の鼓動は速くなり、唇を重ねた時は想いが溢れた。そういったものを、ひとつずつ整理する必要がある。 「……うん、わかった」 声が震えなかったことに感謝した。気丈な自分のままで別れたい。笑ってさよならを言うのが、当初の望みだった。里に戻った時には、かつて背中を預け合った仲間として会えるといい。そして一人ぼっちのこの男に家族ができていたら、とても嬉しい。三年もあれば、いい人を見つけて結婚くらいはできるだろう。ナルトには、あたたかい家庭を築いて欲しかった。 「納得できたら戻ってくるんだろ?だったらさ、向こう行って、オレのこと忘れて、がむしゃらに動き回って、また木ノ葉で忍をやればいい」 それがサクラの望む道だ。心の底から渇望する生き方だった。ナルトという男の器の大きさを、ここに至って思い知る。オレのことは忘れていいから、やりたいことをやれ。そんなことを言ってくれる男は、ナルト以外に居ないだろう。そういう男に一度でも好かれたことを、幸福に思った。 「ありがとう」 口から漏れ出たのは、心からの言葉だった。そして、ナルトが恋心を手放す前に、もう一言だけ、どうしても伝えたかった。 好きでいてくれて、ありがとう。 その想いに寄り添うことはできなかったが、ほんの一瞬でも心を通わせて、抱き合って。それがどれほど嬉しかったか。 「ナルト」 愛しさを込めて男の名を呼ぶ。サクラはゆっくりと視線を持ち上げるが、その続きが形作られることはなかった。こちらをじっと見つめるナルトの瞳には、いつも以上に強い熱情が宿っていた。焦がれるような恋心がくっきりと浮かび、その形さえ見そうな気がした。 「こっちに戻ってきたら、オレのことをもう一度、好きにさせてやる」 用意していた言葉は、喉の手前で霧散する。頭の中が真っ白になり、呆然とナルトを見つめるしかなかった。 「だから、忘れてもいいよ」 「何よ……それ」 「忘れるなってオレが言ったら、そんなの無理だって言ったろ?じゃあ、それでいい。全部忘れていい。ただ、これだけは覚えてて。変わらない想いって奴は、絶対ある。わからないなら、オレが教えてやる。もしサクラちゃんの気持ちが振り出しに戻ったとしても、オレは絶対にもう一度引き寄せてみせる。オレのことが好きだって、必ず思わせてやる」 「どうしてそんなこと言い切れるのよ。私にはそれがわからない」 「自分の気持ちを信じろって本当は言いたいけど、それができないんなら、オレを信じろ。サクラちゃん以外の女には目もくれなかったオレの十年を信じろ。サスケしか見えてなかったサクラちゃんの視界に無理やり割り込んだオレの強引さを、一途だったその気持ちを揺り動かしたオレの想いを信じろ」 ナルトがサクラの肩に手を伸ばす。思わず後ずさりをするが、ナルトが許さなかった。両の肩を掴み、じっと瞳を覗き込む。 「何度だって、好きにさせてやる」 15. 「なんで、私なの……」 思わず零れた言葉が、それだった。 もう、私のことなんて忘れていい。この男の記憶を塗り潰す術を持っていたら、こんな呪いみたいな恋心はひとつ残らず奪い去って、さっさと姿を消している。 「あんたみたいな奴が、なんで私なんかのためにそこまでするのよ」 喉が締めつけられ、目の端にじわりと熱いものがこみ上げる。ナルトのまっすぐな視線を受け止めることができず、顔を伏せた。 「ねえ、そんなことしなくていいんだよ?こんな面倒くさい女は放っておけばいいの。待たなくていい。忘れていいのよ。あんたは愛される奴だもの。もっといい子がいるから!いつも一緒に笑っていられる子が、絶対いるはずだから!その子と二人で、いい仲間に囲まれて、里中の人に慕われて、人のいっぱいいるところでニコニコ笑って、」 そこで言葉が詰まった。異物が入り込んだように喉が圧迫される。ナルトの身体に手を伸ばすと、忍服の胸元をぎゅうっと掴む。床にぽつりと涙が落ちた。一粒、二粒、やがて雨になる。サクラはなけなしの声を絞り出した。 「お願いだから、幸せになって……」 ナルトには、ただただ笑っていて欲しい。しなくてもいい苦労を背負い込む必要はない。望むのはそれっぽっちのことなのに、どうして上手くいかないのか。自分がナルトのためにできることなんて、ほんのわずかなことだけだ。そんなのは嫌というほど知っている。だけど、こんなにも無力感に苛まれたことはなかった。 「だったら、さっさと帰ってこい」 ぽん、と手のひらがサクラの頭に乗った。 「サクラちゃん抜きで幸せになるとか、そんなの無理。考えらんねーもの。向こうでやりたいこと、あるんだろ?それを思い切りやってさ、自分ができること見極めてさ、そんで帰ってこいよ。オレも、この里で火影になるために頑張るからよ!」 ニッと笑うのが、声の調子でわかった。 「だから、なんで……そんなことまでして……」 「そんなの決まってる。好きだからだよ」 顔を上げるのを躊躇っていると、サクラの左頬に手が添えられた。指の腹が、涙の筋をそっと拭う。 「私なんかってサクラちゃんは言うけどさ、そんなこと言うなって。サクラちゃんが隣に居てくれたら、そんだけでスゲー幸せなんだ。あと、別に面倒だとか思わねーし。そうすんなりいかねーのが、サクラちゃんのいいとこでしょ。簡単に振り向いちまったら、ここまで好きになってねーよ」 サクラは左手をそろそろと持ち上げて、頬を包むナルトの手に触れる。そして、節くれだったその指一本一本を確かめるように、サクラは自らの手を重ねた。 「あんたは、バカよ」 「うん」 「大バカだわ」 「そうかもな」 「これだけ拒まれて、なんでそこまで押せるのよ」 「だって、オレ、バカだもん。押すことしか知んねーの。今回はちょびっとだけ考えたけどな。どうすりゃいいのか考えて、オレなりに出した答えが、これ」 みっともなく涙の跡が残る頬を、ナルトの手のひらに押し付ける。親指が、サクラの目元をすっとなぞった。こんなバカな人、見たことがない。こんなにも愛おしい人は、どこにも居ない。それでもいつか忘れるのだろうか。見る者すべてを魅了する笑顔を、自分の名前を呼ぶ声の響きを、胸に刻まれた言葉の数々を。 「……忘れたくない」 今この胸にある狂おしい熱情を、丸のまま残しておきたい。なくしたくない。少しも欠けることなく持っていたい。いくらそう願えども、この恋心を留めておく術を、きっと自分は持ち得ない。 「あんたを好きだっていうこの気持ち、忘れるのやだ……」 「そうか」 「あんたのこと、ずっと好きなままでいたい」 「うん、そうしなよ」 「でも、たぶんできない」 「そしたら、またやり直せばいい。オレがついてりゃ大丈夫」 「そんなこと、できるのかな」 「できるよ」 サクラの頬を挟んで顔を持ち上げると、額をこつりと合わせた。 「できる」 その言葉には、頑なだったサクラの心を動かすのに十分な力強さと確信があった。目を開けると、すぐそこにあるナルトの唇に、とん、と自らのそれを軽く押し当てる。自分のことは少しも信じられないけれど、ナルトの想いを信じることはできそうな気がした。何よりも、そこまで自分を想ってくれる心に報いたいと強く思った。今度こそ、一人の男を愛しぬいてみたいと本気で思った。 「心配すんな。オレがついてる」 そう言って笑うナルトに思い切り抱きつくと、今度は深く口付ける。どれだけ言葉を尽くしたところで、溢れる気持ちすべてを伝えることはできない。言葉を持たないのなら、できることはひとつだけだ。互いの髪をかき混ぜ、首筋を通り過ぎ、求めるように背中をまさぐる。ナルトの手が服の裾をめくり、直肌に触れる。自分のものではない手が腰を滑り、するすると持ち上がる。金属製の鎖が触れた時は身体が強張ったが、今、初めて知る感触に戸惑いはない。別れの日が来る前に、少しでも自分の身体にナルトを刻んでおきたい。それだけを願ってナルトの身体にしがみつき、舌を絡めた。 「ん……ふっ……」 一線を越えることに、躊躇いも脅えもなかった。唇を重ねるだけでは、もう足りない。 二人はもつれるようにベッドに倒れこんだ。 16. この部屋に入った時には綺麗に整えられていたシーツが、今はあちこち拠れている。ベッドの脇には衣服が積まれ、サクラが身動ぎすると、首に掛けられた鎖が軽く金属音を奏でた。ナルトは背後からサクラを抱き寄せて、術を施した留め具をじっと眺める。 「……どうしたの?」 まどろんでいたサクラが、うっすら目を開ける。首の後ろに微量なチャクラを感じたからだ。 「ん?こんな術、もう必要ないと思ってさ」 術によって固められていた引き輪が開き、サクラの首からするりと鎖が外れた。ナルトは起き上がると、それを手のひらに置いて、少し苦い表情で見つめる。サクラは寝返りを打って、そんなナルトの顔を見上げた。 「それ、持ってていい?」 「そりゃ、サクラちゃんにあげたんだから、できれば持ってて欲しいけど」 「じゃあ、着けてる」 サクラはナルトの手のひらから引き輪をつまんで持ち上げると、布団で身体を隠しながら、裸の背を向けた。両手を首の後ろに回し、もう一度留め具を嵌め直す。すべらかなその肌に、ナルトの手は思わず伸びそうになる。 「うっかり外れたら困るから、術は掛けたままでもよかったかもね」 留め具を嵌め終えると、サクラは振り返り、屈託なく笑った。その顔があんまりにもあどけないものだから、すっかり気勢を削がれたナルトは、情けなく眉尻を下げた。 「向こう行ったら、そんな風に笑わないでよ?」 「ええ?どうしたのよ」 「笑うなとは言わないけど、もっとこう、男を寄せ付けないオーラを出すとかさ」 「それじゃあ私がまるで、いつも男の人にへらへら笑ってるみたいじゃないの」 「そういうんじゃなくて、あーもう、わっかんないかなー」 いったいどうしたら伝わるのか、ナルトは視線をあちこち泳がせた後、眉根をきつく寄せた顔をサクラに向ける。 「たぶん向こうでもモテるだろうから、気をつけろってこと。誰かに惚れられるのは、おもしろくねーの」 「……忘れてもいいって、言ったのに」 「オレのこと忘れるのと、オレ以外のヤツを見るのは、別の話」 「向こう行ったらやること山積みで、寝る暇もないから。そんな余裕、あるわけないわよ」 「それでも、」 まだ何かを言おうとするナルトだが、サクラはその言葉ごと唇で塞いだ。すぐに離れると、ナルトの唇を指ですっとなぞる。 「自分のことで、手一杯」 ナルトは切なげに目を細めると、サクラの意志によって再び首に巻かれた鎖を指で掬う。首筋をそのまま滑り、サクラの頭を自らの肩にそっと乗せた。サクラの身体が傾き、その背中がナルトのわき腹に触れる。こめかみに口付けると、サクラはくすぐったそうに身を捩らせた。 「あのさ、手紙、出していい?」 「あんたが?手紙?」 手紙という言葉とナルトが結びつかない。思わず驚きの声を上げるサクラに、ナルトはムッとした表情をする。 「オレだって書くよ、そんぐらい」 布団の中で片膝を立てると、ナルトは続ける。 「返事があったら嬉しいけど、必ずしろとは言わない。ただ、こっちの近況ぐらいはさ、知らせておきたいと思って」 「うん……そっか」 「嫌か?」 「……嫌じゃ、ない」 サクラとて、ナルトのことを忘れたいわけではない。恋心を繋ぎとめておけるのなら、手紙なんていくらでも出す。それでも悩むのは、これから自分の足で立とうという人間が、里に心を残してどうするのかと思うからだ。成し遂げたいことだけを、目の前に置いておきたい。そうでなくては、何のために里を出るのかわからなくなる。サクラは、自信を持ちたかった。これから先、誰に寄りかかるでもなく生きていけるのだという確かな実感が欲しかった。 「よし、決まりな」 曖昧な答えしか返さないサクラの肩を軽く抱き寄せて、ナルトは強引に話をまとめた。サクラは布団ごと膝を抱えると、その上に頬を乗せる。 「読める字で書いてね」 「……そーいうこと言っちゃうわけだ」 腹立たしさを隠しもせず、ナルトは後ろ髪を片方に寄せて、サクラの項に吸い付いた。 「んっ!」 サクラは身体を竦ませ、手の甲で声を押し殺した。ナルトは後ろから抱きすくめてサクラの両手を掴むと、項を舌で撫で回す。サクラは息さえ漏らすまいと、唇を引き結んでいる。その様にもどかしさを覚えたナルトは、両の手首をまとめて掴み、余った右手を布団の中にねじ込んでサクラの裸体に巻きつけた。 「声、聞かせてっつったでしょ」 「ねえ、待って。ちょっとナルト、だから、待っ……」 徐々に高くなってしまう声を封じ込めようと、サクラは口を噤む。耳に、首、肩。あますとこなく口付けは施される。右手はサクラの腹や腰を撫で回し、流されるまま抗う隙もない。 「また、するの?」 上擦った声で問いかけるも、肌を啄ばむ音が響くだけだ。息を呑みながら、ねえ、と再度問う。 「触るだけでいい。離れる前に、覚えておきたい」 ナルトの顔が背中を下りていく。行為にこそ慣れないが、添い遂げたいと願う男に触れられれば、身体は熱くなる。 「だったら……して」 「……痛いだろ」 「いいの。最後まで、して」 ためらうナルトの右手を取り、手のひらを合わせて指を絡める。 「あなたを忘れたくない」 すがるようなその声色は、ナルトの心を柔らかく締め付けた。疼く身体は、確かにサクラを欲していた。離したくねえな、とこの期に及んで悪足掻きをしたくなる。 「……こっち向いて」 ナルトが掠れた声で言えば、布団のずれる音が、夜の帳に響く。サクラは身体を隠すことなく、ナルトと向き合った。顔を近づけ、唇を重ねる。何度繰り返そうが、触れ合わせれば心が痺れる。わざと音を立てて吸い付くのは、五感すべてに訴えかけようと互いに思うからだ。だからこそ、声が欲しい。ナルトは、ともすれば荒くなる手つきを理性でねじ伏せ、柔肌を撫でた。 薄暗い部屋の中。秒針は規則的に音を刻み続け、少しの慈悲もなく夜は過ぎていった。朝の足音は、否応なく近づいてくる。それでも二人は時の流れに抗うように、互いの肌を求めた。 サクラが出立する日は、それから一週間と経たずにやってきた。旅支度というにはあまりに軽装なサクラを見て、大丈夫かとナルトは心配し、いのに呆れられた。綱手に姉弟子、いのとナルト。大門まで見送りに来てくれた四人に感謝の意を伝えて、深く頭を下げる。 「行ってきます」 さっぱりとした顔でそう言うと、サクラは故郷を後にした。 |