17. この土地に留まって、二年が過ぎた。 医療の専門施設を一から立ち上げて、軌道に乗せる。中途半端な気持ちでは勤まらない大きな任務だったが、これから先、木ノ葉の医療を担う気ならば、絶対にこなしておきたかった。志願をした時、師匠はあまり乗り気ではなかったようだが、今の仕事ぶりを見せたら納得してくれるんじゃないかとサクラは思う。それだけの結果は出しているつもりだ。一日の内容が濃い上に、時間の経ち方がとんでもなく早い。故郷に帰る目処は、まだ立たない。 「所長!お忙しいところすみません、ちょっといいですか?」 背後から声を掛けられ、振り返る。年上の部下というのは少し奇妙な感じがするのだが、この施設ではサクラより年齢が上の人間しかいなかった。最初は誰かれ構わず敬語で接していたのだが、上に立つ人間なのだから、とさりげなく進言され、近しい部下には敬語を使わないよう気をつけるようになった。そういえば自分も、姉弟子が使ってくる敬語には悩まされたものだ。癖なのよ、と笑う姉弟子の弱りきった顔を思い出し、少し泣けた。 「そういえば、聞きました?今日、木ノ葉から使者が来るみたいですよ」 「へえ、珍しいわね。医療班かな」 木ノ葉という響きに、思い浮かべるのはただ一人。ナルトからは、半年に一度、手紙が来た。今まで受け取ったのは、全部で五通。返事はいずれも出していない。正確に言えば、返事を書くことができなかった。幾度机に向かったか、数え切れないほどだ。元気にしてます。そのたった一言だけでも書いて、葉書を送ればよかったのかもしれない。それでも、書けなかった。一文字も書けずに、いつも筆を置いた。 「所長も木ノ葉出身なんですよね?知っている方かもしれないですし、会いに行かれたらどうです?」 サクラが任務もこなした忍者だと知っている人間は、ごくわずかだった。この部下だって、木ノ葉から派遣された医療のスペシャリストという肩書きしか知らない。綱手仕込みの術を披露したら、きっと畏怖の対象になるだろう。とんだ恐怖政治の到来だ。 「そうねえ、時間が空いたらそれもいいかもね」 医療班の顔見知りは少ないので、面識がない可能性が高い。それでも、里の様子が気になるといえば気になるので、挨拶をしておいた方がいいかもしれない。師匠や姉弟子の近況ぐらいなら、きっと聞き出せるはずだ。窓の外になんとはなしに目を遣る。金色の髪が、視界に揺れた。 「……うそ」 隣に居る部下のことなど忘れて、窓にすがりつく。あの横顔、間違いない。ナルトだ。きょろきょろと辺りを見回しながら、建物の影に消えていく。声を出したところで、届く距離ではない。サクラは施錠金具を下げて窓を全開にすると、サッシの上に飛び乗った。 「な、何してるんですか、所長!ここ、四階ですよ!?うわ、ちょっと!」 部下の慌てふためいた声が瞬時に遠ざかる。地面に音もなく降り立つと、どこかへふらふら行ってしまいそうなナルトを捕まえるべく、思い切り駆けた。気配なんて、消していない。派手な足音を立てて近づいているのだからこちらを振り向いてもよさそうなものなのだが、ナルトは探し物でもしているらしく、相変わらず建物の周りをうろうろしている。無我夢中で追いつき、手首をさらうと、建物が隣接する隙間にナルトを押し込んだ。 「サ、サクラちゃん!?」 いきなり腕を掴まれたからか、ナルトは焦り切った声を出して、慌てふためいた。サクラは肩で息をしたまま、ナルトの前に立っている。 「ち、違うんだってばよ!隠れてこっそり様子を見に来たとか、そんなんじゃなくて!医療なんてからっきしわかんねーくせに任務を肩代わりってのは、オレだって図々しいとは思うんだけどさ、バァちゃんに拝み倒したら、今回だけなら行っていいって、」 何も言わないサクラを前に、ナルトは今の状況をしどろもどろに言い訳する。しかし、そんな弁明の数々は、サクラの耳にはまったく入ってなかった。 「……忘れなかった」 サクラの頬を、つうっと一筋、涙が伝う。透明な雫の美しさに、ナルトは息を呑んだ。 「忘れなかったよ……全然、少しも、忘れられなかった!」 考えるより先に、ナルトの足が動く。一歩、二歩とふらふら踏み出し、サクラの身体をきつく抱き寄せる。サクラの首筋に顔を埋めると、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。うっすらと目を開けば、いつかの贈り物が首に覗いて見えた。ナルトは顔を歪めて、そこに口付ける。 「貰ったアクセサリー、外せなかった。毎日必ずナルトのことを思い出した。会いたくて、声が聞きたくて、抱きしめて欲しくて仕方なくて……」 「うん」 「手紙、届いてた。毎日読み返してる。でも、返事なんか書いちゃったら木ノ葉に戻りたくなるから、いっつも書けなくて……一文字も書けないまま……」 「わかってる。大丈夫」 勝手な言い分をいくらぶつけても、優しい声が返ってきた。手紙に返事がなければ、誰だって気にする。気持ちが折れるはずだ。読んでいないかもしれない。届いていないかもしれない。そう思うはずだった。なのにナルトは手紙を寄越した。五通の手紙は、いつもの跳ねが荒い文字ではなく、教本を横に置いたのかと思うぐらい丁寧に字が綴ってあった。どうか届きますように。そういうナルトの願いが込められていた。だったら、自分は声で返す。いくら机に向かっても綴ることさえできなかった言葉を、今こそ、ナルトに届けたかった。サクラはナルトの胸に手を置いて身体を離すと、顔を上げる。 「いつか、必ず帰る」 力強くサクラが言い切ると、ナルトは目を見開いた。 「ここでの仕事をやりきったら、里に帰る。あなたの隣に、帰るから。そしたら、ずっと一緒に居られるから。だから待ってて。私のこと、忘れないで」 ナルトの瞳をじっと覗き込み、サクラは自身の感情をなぞるように、切なる願いを紡いだ。時間の流れが止まったかのように、しんと沈黙が広がる。 「その言葉が……聞きたかったんだ……」 薄く開かれた唇から、呆然とした声が零れる。やがて、ナルトの顔がぐしゃりと崩れ落ちた。 「待ってるよ。待つに決まってんじゃねえか。忘れられるわけねえだろ。何を見たって、何をしてたって、サクラちゃんのことを思い出してるよ、オレは。それを言ってくれたら、オレだって……」 ナルトは溢れる涙に喉を詰まらせると、忍服の袖で目元をぐいっと拭う。 「バァちゃんにみっともなく嘆願続けてさ、医療班の奴らが里の外に行くって話を聞いただけで、詰め寄ったこともある。ここに行く任務って、ほとんどないみたいでさ。いつその任務が来るのか、話を掴むために色々やった。蝦蟇仕込んだり、影分身使って張り込ませたり、病院に忍び込んだこともある」 先ほどはサクラの言うことを言葉少なに受け止めていたナルトだが、ずっと堪えていたものを吐き出すように、訥々と語り出した。 「でも、任務の話、全然掴めなくて。スゲー焦って。そんでもここに行く予定のヤツをどうにか特定して、オレとしては任務の肩代わりをして欲しかっただけなんだけど、気づいたらオレが脅迫したってことになっちゃってよ。『お前は自分の持つ力を考えろ!』ってバァちゃんにムチャクチャ怒鳴られた」 ナルトが曝け出した本音に、サクラは言葉も出ない。一体、自分はナルトに何をさせてるのか。いくらナルトが度量の広い男だからといって、不安に思わないはずがない。 「どんだけ会いたかったと思ってんだよ。どうしても、顔が見たくてよ。問題起こしたら出入り禁止にさせるってバァちゃんに言われてっから、建物ん中、自分の目で確かめるしかなくて。会えないかもしれないって覚悟はしてたけど、なんとか一目でいいからって、」 「……ごめん。やっぱり、手紙、出すべきだった」 「でも、いいんだ。帰るって言ってくれたから、いい。待ってろって、忘れんなって、その言葉聞けたから、そんだけでいい」 ずっと鼻を啜ると、サクラの右肩に触れる。二の腕を滑り、手首に辿り着くと、ナルトはぼそりと呟く。 「……身体、痩せたな」 「食べる暇がなくて……」 忍としての任務につかず、鍛錬を積む暇もない。やや細くなった手足を、ナルトは少しだけ痛ましそうに見つめる。頬のラインや、肩の丸み。腰から尻にかけての曲線。最後に触れ合った時とは、だいぶ違っているだろうとサクラもわかっている。 「でも、」 ナルトが手の甲に親指を滑らせると、サクラもナルトの手を軽く握って、その所作に応える。 「綺麗になった」 「……そんな気の利いたこと、言えるようになったのね」 「まあね。女遊びはしてないけど」 「ほんとに?」 「命尽きるまで、サクラちゃん一筋です」 どこで覚えてきたのか、ナルトはキザったらしくサクラの手の甲に口付けるのだが、目元が赤いので様にならない。サクラが口元を綻ばせると、ナルトもニカリと笑った。記憶の中にあるどんな笑顔よりも、ずっと眩しく互いの目に映った。 いつか帰ると口に出してしまえば、きっと木ノ葉に心を連れ去られる。サクラの中にはそんな恐怖にも似た感情があったのだが、実際はまるで違った。伝えたかった言葉をちゃんと口にした代わりに掴んだのは、目の前に積まれているさまざまな壁を打ち破れるだけの勇ましさだった。故郷に帰る目処が立たない、なんて後ろ向きなことは言ってられない。この仕事をこなして、実績を作って、自分の両足で帰るのだ。 「やっぱり私、ナルトが好きだ!」 ナルトの首に両腕を回して、ぐいっと引き寄せる。また身体が大きくなったらしい。木ノ葉ベストの襟に邪魔されて、背伸びをしないと届かない。 「んなこたあ、とっくに知ってるよ!」 尻尾を振って喜ぶかと思えば、余裕の笑みさえ浮かべて生意気な口を叩いてくる。こんな場面、誰かに見られたら赤面どころか出所拒否ものだ。そうは思えど、この愛しい生き物をこれ以上放っておくわけにもいかない。木箱と廃棄物が積まれた建物の裏手で、二年ぶりの口付けを交わした。 自分の世界が広がったせいで、木ノ葉がずいぶん遠くなったように思えるけれど、そんなことはない。朝になれば太陽が昇り、月もまた満ち欠けを繰り返す。忍の文化と切り離されたこの場所も、生まれ育った木ノ葉も、地面は繋がっている。故郷に残してきた大事な人たちと同じ空気を吸って、生きている。ここでの生活を必死に送ることは、未来の自分が歩く道を作ることに繋がるだろう。少しずつ実感しつつある自分の力を携えて、愛しい人の隣に帰ろうとサクラは誓った。 その前に、まずは手紙だ。欠けることなく留まり続けたこの想いを、少しずつ文字にして、この土地から届けようと思う。一生かかっても使い切れないほどの便箋を買って。 2013/02/09 更新終了
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