6.
翌日、空はどんよりと曇っていた。昼をまたぎ、かなり遅めの昼食を腹に入れ、うすぼんやりな太陽がそろそろ沈もうという頃合になると、小糠雨が切れ切れに降ってくる。 まさか今日も待ってないわよね、とサクラは心ここにあらずな様子で雑務をこなしていたのだが、ガラス窓を叩く雨の粒が大きくなったところで仕事を切り上げた。昨日の所業に対する戸惑いと怒りが消えたわけではなかったが、もし病院の前で突っ立っているようならば、風邪を引かれても困る。 はたしてサクラの勘はあたっていた。ナルトは傘も持たずに濡れたまま、物思いに沈んだ顔で前方をぼんやりと見ていた。手持ちの傘を差し出しても、ナルトはそのことにすら気づかない。 「傘、持ってこなかったの?」 「……ああ、サクラちゃん」 傘を持っていない方の手でハンカチを取り出し、ナルトの濡れた額や頬、肩口を拭っていく。 「ちょっと考え事してた。今何時くらい?」 「七時半。傘取ってくるか、雨宿りでもすればよかったのに」 「すれ違いになったら困るし、サクラちゃん、帰っちゃうかもしんないから」 影分身でも使えばいいのにと思ったが、昨日の夜、術を使って気まずくなったことが尾を引いているのかもしれない。子供みたいな膨れ面がとても新鮮に映る。今の自分がナルトに惹かれているのは間違いない事実であり、濡れ鼠になっている様を目の当たりにすれば庇護欲をくすぐられる。 金髪から垂れる水滴を払っていたら、すっとナルトの顔が近づき、唇が触れ合った。サクラは目を瞬かせた後、手の甲を唇に押し当てる。引っ叩くとか突き倒すとか、そういう選択肢は出てこなかった。 「何するの」 「だって、してもいいって顔してたから」 「どんな顔よ、それ」 「ええ?どんなって……こう、オレのこと好きだなーって思ってる顔」 「……もういい、帰る」 風邪を引いたって構うものか、放っておけばいい。そう思って足を踏み出せば、ナルトが傘の中にぬっと滑り込んできた。 「へへっ」 ナルトの口から、笑い声が漏れる。 「なんか、こういうの久しぶりだ」 嬉しそうなナルトの声に、このところギスギスしていた二人の雰囲気が、瞬時に解けた。ナルトには、知らぬ間にすっと懐に入りこんでくる人なつこさがある。ひとつの傘に収まったふたつの影は、にぎやかな商店街へと消えていった。 7. 「うなぎかあ……」 ナルトの歩みが、とある店の前でゆっくりになる。 「食いたくない?」 つっと指をさした先には、店先で団扇をぱたぱたと叩いている親父の姿。食べる回数はさほど多くないが、サクラも嫌いではない。親父は刷毛を握ると、うなぎの表面にサッとタレを乗せていく。香ばしい匂いが、食欲をそそった。 「たまにはいいかもね」 サクラの返答に、ナルトは傘を気にしながら親父に近づく。 「うな重の特上ふたつ。持ち帰りでね」 「あいよ、特上ふたつ!」 「あれ?持ち帰りって……お店に入るんじゃなかったの?」 「だってオレ、濡れてるし。こんなんじゃ、入れないってばよ」 言われてみれば、その通りだった。なんとなく商店街まで歩いてきてしまったが、雨に濡れた姿で店に入れば椅子やら机やらが濡れるし、迷惑になる。 とはいえ、持ち帰ったとしてもこの雨だ。外で弁当を広げるわけにもいかないし、屋根のある場所といえばサクラの頭には病院くらいしか浮かばない。ああ、そうか。二人で病院に戻って弁当を食べた後、残してきた仕事を片付けるのもひとつの手だ。雨に濡れたナルトに正規服の着替えを都合することもできるし、風邪を引かせることなく家に帰すことができる。これはいい考えかもしれない。頭の中で算段を立てていると、ナルトが思いも寄らないことを口にした。 「ウチで一緒に食えばいいじゃん」 「ええっ?そういうわけには、」 「別に、何もしないって」 ナルトは、信用ないな、と言わんばかりに予防線を張る。しかしサクラは先の出来事を忘れてはいなかった。まだ唇に感触は残っている。 「……さっきしたでしょ」 サクラがぼそぼそと小声で反論すれば、先ほどは何食わぬ顔で仕掛けてきたくせに、ナルトは目を泳がせ、さっと頬を赤らめた。サクラもつられて赤くなる。 「ああ……じゃあ、それ以上は、うん、しないから」 「うな重特上、二つ。上がったよ」 妙な空気を割って入ったのは、店の親父だった。片手にビニール袋を引っさげて、奥の厨房から戻ってくる。作業台越しに二人分のうな重を受け取ると、ナルトは尻のポケットからガマ口を出して勘定を支払った。 8. 「ほい、どうぞ」 「おじゃまします……」 ナルトが開けたドアを、そうっと潜る。ナルトの部屋に足を運ぶのは久しぶりで、サクラは少しだけ緊張をしていた。 「そこらへんに座っててよ。オレ、先に着替えるわ。結構濡れたみたいでさ」 サンダルを脱ぎ、うな重が入ったビニール袋をテーブルの上に置くと、ナルトはいきなりシャツを脱ぎ出した。傘の水を払っていたサクラは目のやり場に困り、咄嗟に背を向ける。ナルトの裸なら何度か目にしたことがあるが、それは下忍になりたての頃の話で、相手が今のナルトとなれば話は別だ。サクラは医療忍者だが、ナルトに関して言えば、忍服を着たままの治療しか経験がなかった。つまり、ナルトの裸には全く免疫がない。 まごついていると、ナルトはタオルを取りに洗面所へと消えていった。ほっと息を吐くと、サクラは部屋をぐるりと眺める。何度か訪れたことのあるこの部屋は、あまり変わらないようだ。朝起きたままなのだろう、布団が大きくめくれている。細かいことを気にしない性格が現れていて、サクラはふっと頬を緩ませる。 「着替え、着替えっと」 濡れ髪をタオルでがしがしと拭きながら、ナルトが戻ってきた。上を脱いでいることをすっかり失念し、声が聞こえる方に顔を向けてしまった。がっしりとした肩や、筋肉のついた背中に、目を奪われる。サクラの知っている細っこい子供の身体は、すっかり変貌を遂げていた。少年らしい線の細さは、どこにもない。一人の男がそこに居た。 視線に気づいたナルトが、タオルを頭に被った姿で、サクラに近づく。 「今、オレに見惚れてたでしょ」 「ば、馬鹿言わないで!」 文句を口にしつつも、すっと伸びてくる手を受け入れてしまうのは何故か。拒めないことを、思い知る。 「何もしないって……言った……」 「こっから先は、でしょ?」 病院の前で触れ合った時はあまりに突然のことで気づかなかったが、ナルトの唇は雨に濡れたせいか自分のものより冷たかった。掴むところがないので、裸の肩にそのまま触れる。冷え切ったその身体を何とかしてやりたいと思うところが、もうおかしい。やはり、この部屋に足を踏み入れるべきではなかった。 「まだ、つけてる」 ナルトは、サクラの首筋に手を這わせて、そう言った。垂れ下がる鎖をなぞるその手つきに、暴力性はない。 「あんたが外せないようにしたからでしょ?」 「でも、壊せば外れるよ」 ぐっと喉を詰まらせて、サクラは押し黙る。 「なんで勝手に里を出るんだよ、とか。オレから離れてくなんて許さねー、とか。何が何でもぜってー止めてやる、とか。色々考えてたんだけどさ、病院の前で待ってる間、雨にずっと打たれてたら、だいぶ頭が冷えた。なあ、サクラちゃん、」 「服、着た方がいいわよ。寒いから」 ナルトは話を続けようとするが、途中で遮った。引き止める言葉を聞きたくなかった。 「こっちの方があったかいから、これでいい」 サクラの背中に手を回すと、ナルトは両腕でしっかりと抱きしめる。 「待ってろって一言、オレに言ってよ」 「自分の中で区切りがつくまで帰らないけど、その間、待ってろって?昨日も言ったでしょ。そんなこと、私には言えないわ」 「言ってくれたら、オレは待つよ。何年でも、待ち続けてやるから」 ナルトの言葉に、心が軋む。初恋に身を捧げ、いつまでも想っていられると信じて疑わなかったあの日の自分が、ありありと思い浮かんだ。 「あなたは待てるのかもしれない。でも、私はどうかしら。私はきっと、あなたを忘れる。あなたへの想いを、なくしてしまう」 「なんでそこまで言い切るんだよ」 「私は、そういう女なのよ」 性根は冷たい女だ。あれほど好いていた男を待つことができなかった。変わり身が早く、情の薄い女なのだ。誰よりもサクラ自身が、そういう自分に失望をしている。 「あなたのことを想っているけれど、このままあなたの傍にはいられない。外に出たいの。自分が前を向いて生きるために」 「……里を出ることは、もう止めねぇよ。サクラちゃんがそうしたいのなら、そうすりゃいい。オレが無理やり邪魔しても、恨まれるだけだ。頭がカーッとなってた時は、それでも傍に居て欲しいって思ったんだけどな」 ナルトは苦く笑ってそう言うと、頭をがしがしと掻いた。 「オレが言いたいのはさ、全部忘れちまうもんだって決め付けるなってこと」 すっと息を吸って反論をしようとするが、ナルトはサクラの肩を軽く叩いて身を離す。 「メシ、冷めちまう。服着るから、先に食っちゃおう」 そう言ってナルトはタンスに足を向けると、Tシャツを取り出して、頭から被った。 9. 味のしない飯になるかと思ったが、特上のうな重だからか、ちゃんと向き合って話をしたからか、この日の夕飯は美味かった。強引に待ち合わせをした日、もそもそと食べていた蕎麦はまずそうだったが、「美味い?」と尋ねたらサクラは黙って頷いた。それだけで金を出す価値があったと、ナルトはホッとした。薄暗い激情が身体から抜けて、ナルトにもようやくそういうことを考える余裕が出てきた。やまなか花店に乗り込んだ時ときたら、自分でもどうしようもないくらい頭にきていて、いのもさぞ驚いたことだろうと思う。あれくらいで怖がるような奴ではないが、あとで謝りに行こうと心に決める。 弁当のガラを片付けて、戸棚の中を引っかき回したが、食後のお茶なんていう贅沢品は、どこにも見当たらなかった。大事な客人に水だけ飲ませて帰らせるわけにはいかない。弱りきってバタバタしていると、「そろそろ帰るから」とサクラが切り出した。 「明日、早いのよ」 「じゃあ、うん。茶のひとつも出せなくて悪いんだけど……」 「いいよ、そんなの。ご馳走様」 ほのかに笑うサクラに、愛しさが膨れ上がる。怒らせたり、困惑させたり。最近はそんなことばかり続いていて、サクラの柔らかい笑みを見るのは久しぶりだった。 「オレ、これから三日くらい里空けるけど、戻ったらまた会いに行く。やだって言っても、会いに行く」 玄関で靴を履くサクラは、あからさまな拒絶を表情に出さなかった。しかし、思うところがあるのは鈍いナルトにもわかった。家まで送って行こうと、自分もまたサンダルに足を突っ込む。そこでサクラが口を開いた。 「……ごめん、一人で帰りたいの」 ナルトはサンダルを履いた格好で、玄関に佇む。階段の手前まで、と言おうとしてやめた。本音を言えば、サクラともっと一緒に居たかった。共に時間を過ごすことで、考え方を変えて欲しかった。ナルトのことを、手放せない。そうサクラに思わせたかった。 「任務、気をつけて」 「……うん」 頬に手を当てると、サクラは少しの戸惑いを見せた。それでも、顔が近づくとその目は伏せられ、唇は重なり合う。表皮を舌でなぞり、濡れた唇を深く割る。最初は応えようとしなかったサクラだが、ドアに押し付けて身体をまさぐるうちに、自分からも求めるようになる。金髪をかき混ぜるサクラの手つきに、ナルトの身体はのぼせ上がった。舌を絡ませ、歯を軽く立てる。頭の芯が痺れるようなキスをして、その夜は別れた。 後ろ手にドアを閉めて、ナルトは天井に顔を向ける。ドアを閉める前に見たサクラの頬は、うっすらと赤かった。揺らぐ瞳には、自分への想いが確かに見て取れた。病院の前で不意打ちをしたって、サクラは自分を受け入れた。好きだという気持ちに、間違いはない。 「あとは、何すりゃいいんだろうな……」 |