ショートホープ



 2.


「ああ、あんたか」
 薄い気配に顔を持ち上げれば、店の入り口にナルトが辛気臭い顔をして突っ立っていた。この男の近況に特別詳しいわけではなかったが、今何が起きているのかは大体知っている。七班の構成員がまた一人、木ノ葉を飛び出そうとしているのだ。まったく、なんて落ち着きのない小隊だろう。
「また鉢植えでも買うの?珍しいのは入ってないわよ」
「女ってさ、何貰ったら喜ぶの」
「……ストレートに聞いてくるわねー。どしたの、急に」
「煮詰まってんだ。あんま時間ねぇんだってばよ」
 喜怒哀楽の大波に容易く身を任せるタイプなくせに、今日はずいぶんと静かだ。店先で喚き散らしてもよさそうなものだが、言葉少なに必要なことしか口にしない。その静けさが、逆に怖い。腹に何か抱えているんじゃないかと、いのには思えた。
「サクラが里を出るって話?」
 話を聞く姿勢になったいのは、店の帳簿を閉じると、机の上に組んだ両手を乗せる。
「何言っても止まんねぇからさ。だったら少しでも刻みつけとこうと思って」
「自分のこと、忘れないように?」
「忘れてもいい、なんて言いやがるから。今日の夜、飯食うことになってる。そん時に何かしら勝負かけないと、本格的にまずい」
「花屋にそれ聞いて、花以外に出てくると思うわけ?」
「お前はいい奴だから、助言のひとつくらいくれんだろ?」
「商売人の根性をナメてもらっちゃ困るわね。毎日花束でも持っていったら?」
「じゃあ、この店の品物、全部もらうわ」
「はあ?」
「店のもの全部買うから、助言くれ」
 冗談を言っている目つきではない。こいつ、本気だ。よく笑う奴だという印象があるのに、今は笑っている顔が想像できない。ナルトのことを知らない人間がこの顔を見たら、人でも殺しにいくのかと思うだろう。
「……始終身に着けられるものがいいんじゃないの?ピアスだったら邪魔にならないけど、あの子開けてないからね。ああ、指は避けた方がいい。邪魔だって外される可能性が高いから」
「じゃあ、首か」
「豪奢なのは避けなさいよ。着けてて欲しいんなら、首に掛けた時に重くないのがいい」
 ナルトは床に目を落として、じっと考え込んでいる。助言を聞いてはいるのだろうが、返事もしないとは。腹が立つより先に、何を考えているのかが気になった。
「一緒に行ったげようか?」
「いや、いい。自分で選ばないと意味ねぇし。それにお前とそういう店に入ったら、誤解される」
「誤解って……」
 私とあんたで、誤解も何も。いのはそう言って場を和ませようとするが、ナルトは軽口を叩く隙を作らなかった。
「女と歩かないようにしてんの。つーか、里中の女と縁切る覚悟じゃないと、捕まんないでしょ、あの人」
 縁を切るなどと、よくぞ言ってのけたものだ。男も女も関係なしに人懐こく話しかけるあのナルトの姿はどこに消えたのか。
「あの子、わりと繊細だから。手荒なことはしないでね」
「無理やり手篭めにするとか、そういうのはしないから。安心しろってばよ」
 あんがとな、と一言残してナルトは店を出て行った。いのは額に手を当てて、息を吐く。
「……誰もそこまで言ってないでしょう」
 サスケの里抜けでも思ったが、あの男の執着心は、どこか薄暗いものがある。いのにはそれが恐ろしくさえ感じられた。それに「手篭めにする」だなんて、いつもの健全そうな顔からは想像もできない言葉だ。いのは机に手をついて立ち上がり、ナルトの後を追った。
「ナルト」
 その背に声を掛ければ、首だけ後ろにくるりと向ける。
「さっきさ、里中の女と縁を切る覚悟なんて言ってたけど、実際にそれをやったらサクラが里の女から責められるからね。サクラのこと少しでも考えてるなら、絶対にやめて」
 何を言っているのかわからない。そんな表情を返されたので、もう少し噛み砕いて説明する。
「事実がどうだとしても、サクラがあんたをそういう風にけしかけたっていうことになっちゃうのよ」
「なんでだよ」
「女の頭は、そういう考えしか受け付けないようになってるの。だから、任務に絡むことぐらいは、ちゃんと答えてあげなさい」
「……やっぱりお前、いい奴だ」
 ナルトの頬が、ほんの少し緩む。いつも周囲に振りまいている快活な笑顔からは程遠いが、幼少期の名残はそこに窺えた。
「あんたはおっかない奴ね」
 真顔で返すいのに軽く右手を上げて応えると、ナルトは店から離れていった。



 3.


 朝起きたら、ベランダの掃き出し窓に書置きが貼り付けてあった。
 今日の夜、一緒に飯食おう。病院の前で待ってる。
 差出人を確かめなくても、読みにくい汚い文字ですぐにわかる。こちらの返答なんてお構いなしだ。しかも、「待ってる」という言葉が厄介だった。放っておけば夜通し待っていそうな気がしてならない。
 里を出るまでの間、できればナルトと顔を合わせたくなかった。今更揺らぐような意志で里を出ることを決めたわけではない。自分の中に根強く残る劣等感、無力感、気後れ、萎縮。そういったものを払拭しないことには、胸を張って生きられそうにない。そのうち行き詰まり、どうにもならなくなるだろうという確信めいた予感があった。
 それでも、行くな、とあの顔で、そしてあの声で引き止められることは辛かった。何も残さず潔く里を出ようと思っていたのに、傷でもいいから残せと乞われて、告げる予定もなかった恋心を残した。これ以上見苦しい真似はしたくない。できれば綺麗に笑ってさよならをしたかったのだが、それが叶わないのなら、せめて黙って姿を消したい。



 夜も九時に届こうかという頃に病院を出たら、やはりナルトは待っていた。切りの良い時間帯にもう一仕事引き受けたのは、サクラのささやかな抵抗だった。ナルトはサクラが自分の元にやって来るのを待ってから、歩き出す。
「定食、蕎麦、うどん、丼もの、中華、寿司、」
 料理の羅列を続けるナルトを、仰ぎ見る。視線は合わない。
「食いたいの、何?」
「じゃあ、お蕎麦」
「ん」
 大通り沿いの蕎麦屋は、夕飯時をとうに過ぎているからだろう、人気はそれほどなかった。奥のテーブルに蕎麦と天ぷらで冷酒を飲んでいる四人組と、カウンターには忍客が三人。入り口近くのテーブル席に座り、向かい合って蕎麦を啜るが、会話は全く弾まない。味のよくわからない蕎麦を食べ終えて、会計時に財布を取り出すと、ナルトが手のひらでそれを抑えた。手が触れ合ったことで、あの部屋での出来事が思い起こされる。自分を抱きすくめる力強さが蘇り、腕をさすった。
「ご飯、ありがと。ご馳走様」
「いや」
 店を出た後に礼を言うが、抑揚のない声を返される。夕飯に誘ったのはナルトの方なのに、何も話そうとしない。気詰まりな沈黙が自分への非難のように感じられるのは、サクラの中に後ろめたさがあるからだ。それでも、いくら引き止められたところで決意は変わらない。今夜だってそのまま家に帰ればよかったのに、待ちぼうけのナルトを想像すると、放っておくこともできない。どん詰まりの膠着状態に、逃げたくなる。
「あの、私、方向こっちだから……」
「話、あるんだけど」
 なんで蕎麦屋で話さないのよ、と文句を言いたいのだが、それを口に出せる空気ではなかった。怒っているわけではないと思うのだが、自分の言うことをニコニコ笑って聞いてくれるいつものナルトは居なかった。そういえばここ最近、笑った顔を一度も見ていない。
「少し時間ちょうだい」



 4.


 有無を言わさず手を引かれ、通りから外れた小さな公園のベンチに座った。
「渡したいものがあってさ」
 ナルトは忍具入れの中に手を突っ込み、ごそごそと探る。
「これ、あげる」
「あげるって、あんた、」
 ナルトの手に乗せられているのは、どこをどう見ても装飾品を収める小箱だ。この中に忍具が入ってたら、むしろ笑う。笑える状況じゃないけれども。
「餞別っていうの?かさばるものじゃないから。受け取って」
 サクラは差し出された小箱に目を注いだまま、手を伸ばそうとはしなかった。
「迷惑?」
「迷惑って……わけじゃ……ない」
「なら受け取って」
 ナルトはサクラの手を取ると、小箱を無理やり握らせ、蓋を開けた。シンプルな細いチェーンに、指輪が括りつけてある。たぶん、物がいい。これなら水気にも錆びないし、手入れを気にすることなく使えるはずだ。
「……ありがと」
 ナルトから改まって贈り物を貰った記憶は、ほとんどない。自分はきっと、これを大事に大事にするだろう。小箱を見るたびに、里心を喚起されるかもしれない。弱音を吐くかもしれない。それでも手放すことは、きっとできない。布張りの表面をそっと撫でる。
「つけてやる」
「え?そんな、いいって……!」
 ナルトの強引な所作に、反応が遅れる。自分が流されやすい性質なことを、今更ながら実感した。ナルトの手が後ろに回され、首に金属製の鎖が触れる。その慣れない感触に思わず身体が強張る。その時、微量のチャクラを感じた。嫌な予感がして、首の後ろに手を回す。留め具を探して外そうとするが、引き輪は壊れたかのように固まっている。やられた。術を施された。
「何なの、これ」
「オレのチャクラにしか反応しない。オレにもこれくらいの術なら扱える。まあ、鎖自体を壊しちゃえば外れるけど」
「ナルト、外して」
 引き輪を外しにかかる手をそのままに、サクラはナルトを睨みつける。
「せっかく貰ったものを、壊したくない。外しなさい」
 いつもなら叱り飛ばせば素直に謝るのに、ナルトは顔色ひとつ変えずにサクラの手を握った。
「あっちに行ったら、オレのことを忘れる気だろう。オレのこと忘れて、仕事に没頭する気だろう」
 ぎくりと胸を突かれるが、だからといってこちらの意志を一切無視して、まるで首輪みたいな鎖をつけられるのは論外だ。術を行使された分、屈辱にも近い怒りが沸きあがる。
「だからって、こんな真似!」
「こうでもしなけりゃ、オレのこと忘れんだろが!」
 掴まれたその手を今すぐ振り払って、鎖を引き千切ってやる。力を込めたところで、目の前の男が泣きそうに顔を歪ませた。目の端に溜まった涙が、必死さが、サクラの気持ちを削いでいく。
「オレのこと、忘れるな。何があっても、絶対忘れるな」
「……そんなの、約束できない」
 強く握られた手が、解放される。後ろに回した手を膝の上に置き、サクラは顔を俯けた。首に掛けられた鎖の感触は肌に馴染まず、違和感が消えなかった。



 5.


「忘れ去られんのが、一番こえーんだ」
 苦しげに顔を伏せて、吐き出すようにナルトが言う。
「一緒にいらんなくても、オレはいつでもサクラちゃんのこと想ってるし、声だって姿形だって、はっきり思い出せる。修行で里を離れていた間も、それは変わんなかった。今更変わるはずがねーんだよ」
「……それがこれからも続くとは限らないでしょ」
 熱の篭った言葉をナルトの口から聞くたびに、サクラの心はじくじくと痛んだ。それはまるで、十二歳の自分が抱いていたサスケへの恋心をそのままなぞったかのようだった。行かないでと縋り付き、全てを投げ打つ覚悟でサスケを追いかけた自分だったが、その情熱は今もなお残っているか。その問いかけに頷くことができないからこそ、サクラは言葉をつなぐ。
「人の心は変わるものよ。会えない時間が長くなって、距離ができればできるほど、繋ぎとめておくのは難しくなる。側に居てくれる人に心が移るかもしれない。それを止めることはできないし、よそ見しないでなんて、もっと言えないわ」
 サクラの言い分を聞き届けると、ナルトは首をベンチの背に預けて夜空を仰いだ。
「なあ、ひとつ聞いていい?」
 前置きをしてから、ナルトはすぅっと息を吸い、長く吐き出す。
「それってさ、サクラちゃん自身のこと?」
 いつになく察しの良い隣の男は、躊躇いもなく疑問を口にする。咄嗟に返事ができない。あれほどまでに激しかったサスケへの恋心が、違う何かに昇華してしまうのを、サクラは押し止めることができなかった。その背に刃を突きつけたことは原因のひとつだろう。そして、サスケ自身が違う場所を目指してどんどん遠ざかっていったことも関係があるかもしれない。理由はどうあれ、自分の恋心は変質した。その事実は、サクラの心に深く突き刺さっている。
「……そうよ」
 どう答えるか迷ったが、結局は認めることにした。自分という見本を示すのは効果的かもしれない。そうサクラは考えた。
「あの部屋であんたに言ったことが、変わってしまうことだってある」
 今、自分は酷い言葉を投げつけている。サクラにもその自覚はあった。あんたも私も、この恋心は永続しない。言っているのは、そういうことだ。
「だから、何も残さず里を出ようと思ったのよ。そうすれば、また笑ってあんたと会える日が来るかもしれない。仲間として隣に立つことはできるもの」
 ナルトは夜空に顔を向けたまま、何も言わなかった。重苦しい沈黙が続いたが、やがてサクラは立ち上がり、ベンチを後にする。
「……それでもオレは、忘れんなって言い続けるよ」
「じゃあ私は、そんなの無理だって言い続けるわ」




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