二. 片手に提げた風呂敷を持ち直し、呼び鈴を押す。このマンションに足を運ぶのは、二度目だった。苦い痛みが胸中にじわりと広がるが、扉の向こうの気配がこちらに近づくのを受けて、顔を引き締める。 「ちわっす」 扉を開ける紅に軽く頭を下げる。まだ腹の膨らみは目立っておらず、髪をひとつに括った格好が、いつもの颯爽とした印象をより強くしていた。 「いらっしゃい。今日は忙しいところホント悪いわね」 「いえ、そんな。お役に立てれば何よりです。で、これ。うちの母ちゃんから昼飯にって」 出掛けに持たされた風呂敷を紅にそっと差し出す。その中身は飯とおかずをぎゅうぎゅうに詰め込んだ重箱だった。朝早くに起きて何かごそごそとやっているのは知っていたが、まさか弁当を作っていたとは思いもよらなかった。今日は確かに一日中慌しくなるはずだし、あらかじめ昼飯を用意しておくと便利なはず。さすがは年の功と言うべきか。話を聞くと日持ちのするものを詰めたらしいので、余ったところで困ることはないだろう。とはいえ、食い盛りの野郎が三人も揃っていれば、むしろ足りないぐらいかもしれないが。 「助かるわ、ありがとう。皆でいただくわね」 「てめえシカマル!やあっと来やがったかコノヤロウ!こっちゃあとっくに始めてんだからな、さっさと加われ!」 キバのがなり声にシカマルはちらりと部屋の奥へ目を配る。頭にタオルを巻いたキバが、大きなダンボールを二つ抱えているのが見えた。まったく、いつ何時会ってもやかましい男だ。 はあ、と疲れたように息を吐き、シカマルは靴を脱ぐ。 「うるせーな、これでも急いだんだよ。っと、うるさくしてすんません」 「賑やかな方が嬉しいのよ。上がってちょうだい」 「失礼します」 廊下にはすでに荷造りを終えたダンボールがいくつも積んであった。きっと朝一で駆けつけたキバとシノの仕事だろう。それらを慎重にすり抜けてリビングに足を踏み入れると、壁一面の立派な書棚がひときわ目を引いた。雰囲気に気圧され、思わず見入ってしまう。 「あら、気になる?」 「あ、いえ、すみません」 人の家に入るなり書棚をじろじろ眺めるなんて、あまりに失礼すぎる。シカマルはばつの悪い顔で頭を下げた。 「何で謝るのよ。読みたい物があったら言いなさいよ?帰りに持っていきなさい。ああ、でもそうか。あなたの家には大きな書庫があるものね」 「や、本はまともに読まねっすから」 「そうそう。こいつに本を貸したところでね、どうせ昼寝の枕にされるのがオチっすよ」 廊下から戻ってきたキバが、二人の会話に首を突っ込む。訳知り顔なその言葉に反論はない。まさしくその通りだ。 「つーことなんで、オレのことは気にしないでください」 「紅先生はソファに座って寛いでいてくださいよ。作業中なんでお茶は出せないっすけど。オレらがちゃっちゃと片付けちゃいますから、すぐ終わりますって!」 キバは言うだけ言うと、利き腕をぐるぐる回しながら台所に引っ込んでいく。 「もしかして、朝からずっとこうなんすか?」 「そうなのよ。下手に動くと怒られちゃって」 心底弱った風だが、その心遣いが嬉しいのだろう、顔が笑っている。 足りないものがあったら遠慮なく言ってね。シカマルにそう言い残して紅はソファに戻り、雑誌類を紐で纏める作業を開始した。 二人が新居を購入していたと知ったのは、アスマが亡くなってからすぐのことだった。子供もできたことだし、中心街から離れた静かな場所へ越そうと相談をしたらしい。今日は、その新居へ引越しをする日だった。 当初は引越し業者への依頼を考えていた紅だったが、そこは八班の連中が黙っているはずがない。話を聞きつけたシカマルも加えて、今日この場に集まったのは四人の忍だった。身重の紅を除いてもこれだけ忍が揃えば、引越し作業など軽くこなせる。下忍時代に経験した任務のおかげか、この手の作業には誰もが慣れているからだ。部屋の大きさを考えても、動き回るのは四人くらいがちょうど良い。 ひとまず重量のある本と家具家電の類は男連中、台所は女の手で。そういう割り振りに決まったたらしく、ヒナタは台所、シノは寝室、キバはリビングと台所を行ったりきたりという具合で忙しく働いている。 「んで、何すりゃいいよ」 シカマルはアンダーシャツの袖をまくりながら、台所で冷蔵庫の角にクッションを括りつけているキバに指示を仰ぐ。こういうのは仕切りたがりのキバが適任だろう。 「家具はシノ、家電はオレ担当だから、お前は本な。処分するヤツは仕分けし終えてるって紅先生が言ってたから、後は箱に詰めりゃいいだけだ。ダンボールはベランダの窓んとこに用意してあっから、それテキトーに使ってくれ」 「ほいよ」 「あ、そうだ。くれぐれもめんどくさがって雑に扱うなよ!ここんちの書棚、結構すごいらしいから」 「へいへい」 返事は適当ながらも、シカマルの顔は真剣だった。なにせこの書架、結構どころか、かなりすごい。先ほど見入ってしまった理由がそれだった。奈良家の書架を見慣れているが故に、シカマルは目が利く。収められた数こそ奈良家には及ばないが、いずれも良書というのはすぐにわかった。もしこの場にサクラが居たら、さぞ読みたがるに違いない。あいつは書物に目がないのだ。前々から図書館によく通う奴だとは思っていたが、医療忍者になってからは、いつ足を運んでもサクラの姿がある。いつか聞いた「カカシ先生は上忍のくせに自宅の書棚が貧弱」という言葉には笑った。他里に名を轟かせる「写輪眼のカカシ」もサクラにかかると形無しだ。 窓に立てかけてあるダンボールをいくつか組み立てた後、書棚を眺める。端に寄せてある脚立を使い、書棚の上段から順に詰めていくことにしよう。見た限りきちんと分類別に並んでいるようだし、箱にラベルでも貼っておけば、楽に荷解きができるはず。 「うおーい、キバ。なんか書くもんねえか?できれば油性」 「ヒナタが今使ってんだよ」 「ごめんね、シカマルくん」 キバの真横で食器を梱包しているヒナタが、カウンターからひょっこりと顔を出し、シカマルに謝罪する。作業中ならば仕方ない。手を振って応じる。 「しゃーねえな。先生、わりーんだけどさ、何か書くモンある?」 「ペン?ああ、ちょっと待ってね」 ソファに座っていた紅は、キバの問いかけに腰を上げ、自室に急ごうとする。そんな紅の足を止めたのは、シカマル、キバ、ヒナタの三人だった。 「「「急がないでください!」」」 いかにも心配ですと言わんばかりな三人の声色に、紅は思わず苦笑をもらす。 「あのねぇ、病人じゃないって言ってるでしょ?」 紅がペンを探している間も、シカマルは黙々と作業を続けた。脚立を使って本を床に下ろし、分類を間違うことなくダンボールに詰める。まあ、単純作業と言えるだろう。そもそも単純作業というのは得てして夢中になりやすく、外界への意識が疎かになりがちだ。その結果、ベッドの解体を終えたシノが本の整理を手伝おうと声を掛けるのに気づかなかったとしても、やむをえない。それがシカマルの意見なのだが、シノはそう思ってはくれないらしかった。 「いや、だからさ、オレが悪かったって」 完全に機嫌を損ねたらしく、シノは先ほどから口を利いてくれない。書棚の下段でせっせと本を詰めているシノに脚立の上から声を掛けるのだが、それらはすべて不発に終わっている。同じ作業をしている以上、意思の疎通は最低限しておきたいのだが、それも叶わない。 なんかもうやりにくい。めんどくさい。効率が悪い。 「シカマル」 壁越しに聞こえた紅の呼び声は、そんなシカマルにとってまさに天の助けだった。 「おいシノ、紅先生が呼んでるから行くぞ。いいな」 ムスっとした気配をそのままに、それでもシノはこくりと頷いた。 「続き、お前に任せたからな。頼りにしてんぜ」 軽くシノの肩を叩いてから、書棚を離れる。 「シカマル?ああ、いたいた」 自室の扉から半身を出して手を小さくこまねく紅の仕草は、とても優しい。自身の身体に気を遣うせいか、立ち振る舞いも常より柔らかくなった。母になるというのは、こういうことかもしれない。 「失礼します。何すか?」 「これ、あなたが使いなさい」 差し出されたのは、二つ折りにされたマグネット式の将棋盤だった。駒が中で転がり、からころと音を立てる。 「これって……アスマの?」 紅は小さく笑って頷いた。アスマの、形見だ。 この部屋に、きっと残されているだろうなと、想像はしていた。アスマが生きた証を目にする覚悟はしていたし、案外簡単に受け止められるのではないかとさえ思っていた。しかし事はそう簡単に運んでくれなかった。 よりによって将棋盤かよ。そう毒づきたくなるのをシカマルは必死で堪えた。 それが本や煙草なら耐える自信はまだあった。だが将棋盤という存在は、シカマルにとってあまりに身近すぎる。アスマと自分をまっすぐに繋げる道具だ。昼寝以外に趣味を持たなかったシカマルをのめり込ませ、それからは毎日のように奈良家の縁側で盤を囲んだ。その傍らには、アスマの姿があった。温度さえ伝わる生きた記憶がシカマルの心に染み付いている。 まだ癒えきっていない傷跡から血が滲み出るのがわかる。まだそれを懐かしむ段階に入っていないのだと、自分のひ弱さを改めて突きつけられる。ちゃちな将棋盤の表面についた駒の擦れ跡に、猛烈に触れたくなる。 「私は将棋を指さないし、あなたが持っていた方がいいと思って」 ほんのわずか浮きかけた手を、シカマルは押しとどめた。膝の上でぎゅっと拳を握り、顔を上げる。 「……ダメっすよ。受け取れません」 「どうして?」 「これは、この部屋にあったものでしょう。だから、ダメです」 例えば、そう、台所に立って飯を作ってる時なんかに、アスマはテーブルの上にこのちゃちな将棋盤を広げて、将棋雑誌を難しい顔で睨みつけながら、やたらにデカい手でちまちまと駒を動かしていたのだろう。そんな様子がありありと目に浮かんだ。 駒を動かすたび、パチン、パチン、とプラスチックの軽い音が鳴る。こんな小さな将棋盤では、指と駒がぶつかるだろう。たまに駒を弾いてしまい、悲鳴みたいな声が上がったかもしれない。それらの音はこの部屋の一部であり、紅の記憶の中に確かにあるはずだ。 それは他人が気安く触れてはならない領域だろう。 「持っていた方がいいっすよ」 紅はじっと何かを考えていたが、うん、とひとつ頷くと、まだ封をしていないダンボールの中に将棋盤をそっと置いた。 「そうね、それがいいかもね」 「オレが持ってたところで、どっかにやっちまいますよ。その辺、杜撰なんで」 そう嘯くシカマルに、紅は小さく笑いを返した。 「あまりこの部屋に物を残さない人だったんだけどね。これが置いてあるのを見たら、シカマルに渡さなきゃって思ったのよ」 「その心遣いだけ頂いておきます」 「てめ、なぁに休んでんだコラ!手ぇ動かしやがれ!」 部屋の前を通りかかったキバが、しゃがみこんでいるシカマルに文句を垂れる。 「だーから何でそんな無駄に元気なんだよ、お前は」 「私が呼んだのよ、キバ」 「……ならいいんすけどね。台所は片付いたから、あと書棚だけだ。お前が戻ればすぐ終わんだろ」 「はいよ。じゃ、オレは戻りますんで」 書棚に戻ってみると下段はすっかり空となり、あとはシカマルの担当分と背の高い中段を残すのみだった。 「仕事早ぇなオイ」 「当たり前だ。お前と違って無駄がない」 作業を一時抜けたことをチクリと言われたが、口で何やかや言われるだけで済むのならそれでいい。脚立に足をかけ、すぐに荷造りの作業を再開した。その手を休めることなく動かしながら、シカマルは考える。 この先いつか、二人でアスマの話をしたりするのだろうか? アスマと紅が普段何を話していたのか、人並みには興味があった。紅に請えば、きっとその断片を聞かせてくれるだろう。しかし、シカマルはそれを尋ねる様な真似はしなかったし、その場所へ踏み込む気にもまたなれなかった。アスマが紅に残したものは、紅だけのものだ。語ることで薄れてしまうようなものじゃないとわかっていても。そうあるべきだと勝手に決めてかかること自体が、シカマルのエゴに他ならないとわかっていても。それは誰の手にも届かないところへ沈めて、箱に鍵をかけておくのがいい。 それでもいつか。アスマという男について語り合える日が来るとしたら。 時間が必要なのは明白で、腹の中の子供が無事に育った後になるかもしれない。紅はもう職場に復帰しているだろう。なにしろ優秀な人だから、ブランクなんてまるでなかったかのように最前線で動いているに違いない。自分ものらりくらりと忍をやっているだろうか。案外同じ班に編成されているかもしれない。ともあれ、何かの拍子にたまには飲もうかなんて話になり、三軒目くらいの場末の居酒屋でアスマを語るのだ。その時には、煙草屋の婆さんに吹き込まれた「切り札」を披露しよう。アスマが部下を助ける時にどれほど格好良い戦い方をしたかなんて話をはじめたら、一時間あっても足りない。それはきっと予想以上に楽しい時間になるはずだ。 ああ、そうか。その時に紅から酒の飲み方を教えてもらえばいい。なるほど、これは名案だ。アスマはきっと悔しがる。いや、オレが教えるはずだったのに、と拗ねるだろうか。あるいは、オレの嫁さんと勝手に飲むんじゃねえ!と本気で怒鳴りつけるかもしれない。 だって、仕方がないだろう。あんたは先にそっちへ行っちまったんだから。 シノが脚立の下からシカマルの名を呼ぶ。湿っぽくなった胸中を悟られまいと、わざと大きな声で「はいよ」と返した。そこから眺めおろすと、部屋の中はすっかり片付いていた。廊下には運ぶ予定のダンボールが山と積まれている。この先の作業は完全に体力勝負だ。 「出発前にお昼を食べておきましょう。ちょうどいい時間だし、シカマルに差し入れを頂いたから」 紅が提案をすると、色とりどりの声がリビングに響いた。 |