花、一輪



花、一輪




(注)698話からの分岐設定です。



一.



 サクラが一輪挿しを買ったのは、ナルトの義手を開発するチームから外れてまもなくのことだった。
 綱手の先導により柱間細胞の分析・研究は急ピッチで進み、予想を遥かに越える速さでナルト専用の義手は仕上がっていく。その間、綱手の片腕となって研究に心血を注いでいたサクラだったが、義手調整のためにナルトが開発部署へ通い詰める日取りが決定したその日、違う部署への移動を綱手に願い出た。
 私的な感情を持ち込むなと叱責されるのを覚悟していたというのに、綱手はサクラの決断を最後まで聞き届けると、その意思を尊重し、ナルトと顔を合わせることのない研究室へとサクラを異動させた。




 朝、誰よりも早くその部屋に入るのは、サクラだった。薬品の匂いが染み付いているそこは、いかにも研究室といった内装で、薬棚に各種器具、そして様々な機器を乗せた机がいくつも並べられている。サクラはその部屋の責任者になっていて、奥にはささやかな仕事部屋があった。そのドアを開けると、壁はすべて書棚に覆われ、ぎっしり並べられた資料群が目に入る。そして、机の上には、桃色の花が一輪。
 サクラは荷物を執務机の脇に備えてあるフックに吊るすと、桃色の花を手に取り、窓辺に歩み寄る。そして、棚の上に飾ってある一輪挿しの中に、それを滑らせた。昨日置いてあった黄色い花は、まだ枯れることなく咲いていて、捨てるには惜しい。黄色の花はそのまま、新しい桃色の花と共に、窓辺に飾られた。
 一輪の花は、サクラが異動になった次の日から、毎日のようにこの場所に置かれている。どこで学んだのか、はたまた花屋の親友の入れ知恵か、いずれも前向きな花言葉を持ったものばかりで、机の上に置かれた一輪の花を目にするたびに、「君は素敵だよ」と言われているような気分になった。花を贈られたら、誰だって悪い気はしないだろう。
 いつものサクラであれば、すぐに仕事部屋を出るところなのだが、窓辺にしばらく立ち竦んだ後、施錠器具を引いて、窓をからりと開ける。普段とは違う行動をおこしたのは、一輪挿しを彩る色合いのせいかもしれない。黄色と桃色。意図して贈ったのかはわからないが、自分たち二人の姿が、どうしても被る。
「……いるんでしょ?」
 窓の外には、いつも人の気配があった。一輪挿しに花を飾って、サクラが仕事部屋を出ると、すぐに姿を消してしまう。気配の主は誰なのか、そんなのは明白で、サクラはそれを察していながらも、気づかぬ振りをしていた。
 そして今、花の贈り主は、返事をすることなく地面にうずくまっている。そのまま数秒がすぎると、サクラはその名を呼んだ。
「ナルト」
 やはり返事はない。
「わかってるから、出てきなさい」
 かくれんぼをしている子供を優しく諭すように、サクラは窓の外へ声を届ける。すると、ひょこりと半分だけ、顔を出した。
「久しぶりね。顔、半分だけど」
 サクラがそう言えば、窓の外、にょきっと首まで生える。視線を合わせると、ナルトは、どこか気まずそうな、照れくさそうな顔をして、すぐに目を伏せた。
 二人は終戦以来、まともに話をしていなかった。もちろん互いの多忙さ故だったが、サスケが木ノ葉に戻らなかったことが一番の理由だった。サスケが旅立って以来、サクラの表情から翳りは消えず、取り戻せなかった日々を想いながら生きている。そんな心情を理解しているからこそ、ナルトは一輪の花を贈るだけにとどめて、サクラに近づくことはなかった。
「顔だけ?身体は?」
 そう問うと、ナルトはもぞもぞと立ち上がる。オレンジ色の忍服は先の大戦でボロボロになってしまった。今は長袖のシャツ姿で日々を過ごしている。
「ほんと、久しぶり」
 どうやらひどい顔をしているらしく、ナルトはサクラを心配そうに見つめるばかりだ。
「そんな顔しないで」
 困った風に笑うと、ナルトは何かを言いかけたが、結局は黙りこくって、顔を伏せた。
「花、いつも、ありがと」
「……うん」
「これから、綱手様のところに行くの?」
「……うん」
「スケジュールは?」
「予定通り」
「そ、よかった」
 会話は、すぐに終わった。今の二人を繋げるのは、義手の話題くらいで、俯いたまま、空気は徐々に気まずくなる。早く窓から離れて、研究室に戻りたい。ナルト相手にこんなことを思うのは、初めてだった。
「サクラちゃんはさ、何をしたら笑うかな」
 ナルトが迷いを振り切るように顔を持ち上げ、問いかける。急な問いかけに、サクラは一切の反応ができなかった。
「オレさ、サクラちゃんには、笑ってて欲しいんだ。でも、サクラちゃん、笑わなくなったよね。里の中歩いてても、どっか元気なくて、いつものサクラちゃんじゃねえなって、ずっと思ってた」
「……いつものって、どんなのよ」
 サクラは、少しの苛立ちを抱えて、ナルトに言葉を返した。自分だって、わからないのだ。今までどんな風に里の中で過ごしていたのか。誰と何を話していたのか。どんな時に嬉しいと思うのか。最後に声を出して笑ったのは、一体いつだったか。
 いつもの姿なんて人によって見方が変わるし、もし仮に自分が以前の姿とは変わってしまったとすれば、そのズレを認識できない限りは、どうすれば元に戻れるかなんてわからない。いや、たとえ認識できたとしても、今のサクラは以前のようには立ち振る舞えないだろう。そんな気力は、どこからも沸いてこなかった。
「オレはこれから、サクラちゃんをうんと笑わせるよ」
「……私は、できれば、あんたと距離を置きたい」
 なりふり構わないとは、ああいうことを言うのだろう。カグヤ戦後、サクラは自分でもわけのわからない破綻した理屈を並べ立て、サスケをどうにかして引きとめようとしたが、その挙句に拒絶された。鋭利な刃物でスパッと切られたのであれば、治るのも早いかもしれない。しかしサクラは、腕で心臓を潰された。その傷は、一生ものと言い切れるほど、大きくて、深い。
 今のサクラにとって、同じ七班のナルトと顔を合わせるのは、その傷口をえぐるような真似に近かった。近しい人との接触をすべて絶ち、柱間細胞の研究室で影となって動いてナルトを支えるのが最良の道に思えてならない。
「ここには……しばらくこないで欲しい」
 サッシに置いた両手に、我知らず力が入る。一輪挿しはサクラの視界から離れない。何もかもを忘れて没頭するための仕事場に、ナルトの気配がどうしても残る。それに付随して、七班の記憶もまた鮮明に蘇るのだ。それがあまりに辛い。
「……サクラちゃんがそう思ってるのは、オレだってわかってる。義手の開発室から異動したって聞いた時、そうなんだろうなって。だからオレ、サクラちゃんが花を受け取るのを確認したら、すぐにここから離れただろ?」
「わかってるなら、なんで、」
「だって、オレとサクラちゃんを繋ぐのは、七班だけじゃないから。七班ごとオレまで切り捨てられたら、泣くに泣けねー」
 七班という単語は、ナルトの口から聞きたくなかった。こちらの心情を慮っているくせにどうして安易に口にするのかと憤慨する自分もいたが、ナルトが発した言葉の文脈すべてを受け取ると、その感情も消えてなくなった。ナルトの言葉はサクラに届くどころか、真新しい傷跡を抉る。
「あんた、私のことを、簡単に人を切り捨てる人間だって思ってたわけ?心の整理がつくまで、ちょっとだけ距離を置きたい。それだけなの」
「嘘だ。七班だった過去を切り離したら、オレとの思い出もどこかに行っちまう。朝に花を受け取って、枯れたら捨てて、その繰り返ししかなくなっちまう」
 ナルトの言葉はだんだんと熱を帯び、目を逸らすことなくサクラをじっと見る。
「だから、オレは春野サクラを、もう一度笑わせる」
 まるで宣戦布告のような口調だった。ナルトと視線をまっすぐ合わせると、その力強さにのまれそうになる。
「……言いたいことは、それだけだから」
 ナルトの言葉をまだ十分に消化しきれないサクラを置いて、ナルトは病院から去っていった。一瞬、ゆるやかな風が吹き、一輪挿しの黄と桃がふらふらと揺れる。サクラは他の研究員がドアを開けるまで、その様をじっと見つめていた。


 翌日、机の上には、やはり花が一輪。
 花言葉は、「オレを忘れないで」だった。



2015/7/26




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