きみはなんて綺麗なアムネジア



きみはなんて綺麗なアムネジア

180℃/千羽鶴様



 どうして、アンタはヒトを憎まずにいようと思ったの?
 その手をつかみ損ねて、サクラは訊いた。暗闇の中だった。

「なんでって明確な根拠はねえけど、不毛だと思ったから? ――ん、それもちょっと違うか。人間って簡単に死んじゃうじゃん。そんな表情しないでよサクラちゃん。あーあ、泣きそうな表情。可愛いけど、泣かないでってば。オレはね、サクラちゃんには笑うか、せめて怒るかしてて欲しいの。オーライ。だって、オレたちの横をたくさん通りすぎってたじゃんか。下忍の頃から。ずっと、ずっと。三代目のじぃちゃんが死んだときも、『火影』が死んだって感覚がオレにはなくてさ、ただもう居なくなっちゃったとか、そんなことばっか考えていたってばよ。だから、オレはイイって思えたんだ。大事なヒトとだっていつ別れちゃうのか分かんない世の中で、恨んで時間を無駄にすんの不毛だから。それなら、オレは好きなヒトと一緒にいたい。楽しみたい。あったかくて、幸せになる。そーいうことに時間使いたい。とか、そういうんじゃダメ? それにさ……――」
 ダメじゃないけど。けど、たったそんだけで全部水に流せるダイヤモンドメンタル、スゴイけどコワイ。第一、こんなに暗いのにナルトには表情が分かるだなんて、なに。動物?
「オレも、サクラちゃんも、サスケだって、きっとそういうことの為に生きてるべきだってばよ」
 お手をどーぞ。足許がおぼつかなくて姿勢を崩したら、ナルトに腕を掴まれた。急に力を感じて吃驚したから、お礼の言葉が出できたのが奇跡。掴まれたところだけナルトじゃなくて、『男』を感じるから。ありがとうってその骨ばった手をとって、掴んではくれるけど、掴ませてはくれない微妙な力関係に、サクラは一層モゾモゾした。相変わらず夜に目が慣れなくて、世界は黒のままで。
「そこ、脆くなってるから気をつけて」
 暗いし、黴臭いし、足許からは砂利を踏むような気持ち悪い音がする。任務でこれなら我慢できるけど、オフの日に、里の中でこれはこころから我慢し難い。それでも、自分は里外れに取り残されている塔を登っている。ナルトに上に行ってみようよ、と言われたからだ。普段なら、ナルトに言われたくらいじゃ、こんなとこたぶん登らない。……あ、いま掌に苔がついた。訂正、絶対登らない。掌がネチョッとしてる。ありえない、まったくのナンセンス。オフなのに、まったくお洒落もせず、太陽の光すら射さない塔を登っているなんて、春野サクラにあるまじき。階段が高い、その距離が遠い。よく捉えれば、上までたどり着きさえすれば、きっと気持ちはイイ、筈。眺めくらいはサイコーに違いない、筈。ただ、そこまで行くのが異様に大変なだけだ。もう一度だけ断言する、普段なら断ってる。だけど。
「鐘、鳴ってる――――」
 今日だけはダメ、今日だけは弱い。なんでもしてあげたくなっちゃう。
 だって、今日、アンタはお誕生日でしょ?

 だから、これは出来ることが少ない「女」の話だ。

 ナルトが慰霊祭に出たがらないのは、ずっと小さい頃から知っていた。
 なぜ出たくなかったのかは、もっと大きくなってから知った。状況が少し違ってからも、それは変わらなくて。マヌケにも「なんで?」って訊いたら、「結局さ、オレの誕生日でもあり、父ちゃんと母ちゃんの命日ってのも変わんないからさ」と微笑われて返事につまった。そういうのをスマートには返せない。昔は誰かにお祝いされたら、ただそれだけで嬉しかったけど、いまは「おめでとう」も複雑な気持ちになると云う。
 そんな誕生日が鎮魂の鐘と共に、今年も始まった。この廃屋寸前の塔には夜が白む頃から登りだしたから、上に着かないまま夜明けを迎えたことになる。長い螺旋階段だ。朝がきたというなら陽が射しても罰はあたらないだろうに、依然くらいままで、鐘の音も遠い。握られた手だけ頼りに前に進む足も、どこか戸惑い気味に一度立ち止まって、あれはほんとうに慰霊祭の鐘なのかと莫迦なことを訊いてしまった。そんなことナルトにだって分からない。なにより、ナルトは気にもとめていなかった。
「――――鐘?」
 聴こえる? 暗がりの中で、見えないはずの上をナルトが見上げた。
「鐘が鳴ったら朝よ」
「うん、だろうとは思ったってばよ。ここ上がって降りるの、ガキんときは一日がかりだったし」
 サクラちゃん耳いいね、なんて当り障りのない称賛にイラついた。
 嘘、ほんとうはもっと根本的な、根深い問題にずっとイラついている。自分とナルトの間に横たわるモノ。して貰ったことはたくさんあるけれど、してあげられることがほとんどない。そんな現実だ。誕生日にあげるプレゼントすら思いつかなくて、それこそありったけの勇気だとかプライドだとかをかき集めて訊いたお返事が、マジで斜め上。なら『ここ』一緒に登ってよ、サクラちゃん。嫌だとか言えないのは性分で、むしろそんなんでイイのかって胸ぐら掴んでゆさぶりたくなる。それとも、誕生日がしんどいとそうなるもんなの?
「昼には帰りたいんだけど」
「帰り楽だってばよ、あれ、飛び降りちゃえば」
「は!?」
「ぜってぇー気持ちイイから」
 あからさまに笑いを噛み殺した声に、飛び降りるっていう帰り方はナルトの中では全然有りなんだと分かっても、とりあえず聞かなかったことにした。命綱なしのバンジージャンプをするかどうかは上に出てみてからだった。まだ陽光すら拝めていない。いまは景色を見れば安い感動をしてそんな気にもなるのかなんて思ったりするだけで、飛び降りちゃえばイイっていうのを笑い飛ばせもしなかった。ナルトについて知らないことが多すぎる、から。
「アンタね、そんなことしてたってイルカ先生にバレたら泣かれるわよ」
 私は自分が嫌いだ、いまもこんなにも。
「やったーッ! ふったりっきりの秘密だってばよ」
 その嘘を信じてあげられなくなってから、もっと自分が嫌いになった。



「よいっしょ、と。おっしゃー、とうちゃくーッ!!」
 暗がりに陽光射す瞬間って見たことあるだろうか。最初は薄い膜に目を浸されて、それからすぐに金色の束に目を焼かれる。それから自分を守ろうして目を閉じて、次に開いたときにようやく世界はカラーリングされる。その日は青で、これでもかってぐらいに晴れていて、ほんの少し風が強くて寒かった。なんか羽織るもの持ってくれば良かった、まずはそんな後悔が頭をチラリと横切って、景色を楽しむどころじゃなかった。風が強すぎて、視界を斬り刻んでいく。カシャリカシャリと細切れに、コマ送りで、すべてが進んだ。
「サクラちゃん、見なよ。すげぇ葉っぱが赤いの、向こうまで続いてる」
 陽光に焼かれた目に視力が戻ってくると、今度は萌える朱が瞼で洪水を起こした。真っ赤だった。
「すごい……」
 一言で云うなら、圧巻。三六〇度のパノラマが広がっていた。地平の向こうまで脈々と。そして、雲が異様な速さで流れていく。この指からちぎれていくみたいに。手を伸ばしたら、「落ちるよ、忘れないで」と言われた気がした。――だけど、誰に?
「アンタ、いまなにか言った?」
「……へ?」
「ううん、なんでもない――」
「変なサクラちゃん。疲れてる? それとも疲れたってば?」
 私が寒いのにそれすらも気づかない相手と、こんな心許ない場所にいる。石の壁に設けられた窓みたいな出入口から外へ出ると、ヒトひとりがどうにか通れる広さの道がぐるりと一周続いていた。ただそれだけの、場所。朽ちている隙間からは蔦が絡まっているのが見えた。崩れるなら一瞬で、その想像だけは楽しい。――ナルトはここで何を思って、その憂鬱な誕生日を越えていったのか。やっぱり、崩れたら怖いとかそういうこと? あるいは、遠くへ行きたい。
「疲れさせる天才だもんね、アンタは」
「ヒデェ」
 歯を見せて笑っているかぎり、傷ついたなんて見てあげない、とサクラはそっぽを向く。どっちにしろ、同情したら逃げられる。ナルトは愛されることも、同情されることも、ほんとうに嫌いでどないせいちゅーねんとキレたことが、サクラには多々あった。そこから学んだことは、深追いは決してしないこと、だ。やらかして、縛り付けてしまった過去がある。仲間を、どうしてもサスケくんを連れ戻して欲しいだなんて、よく言えた。時空間忍術とかで過去に戻れるなら、その言葉でお手軽な依存関係の出来上がりだと自分を蹴り上げに行く。あれはきっと言ってはいけなかった言葉で、取り返しなんかつかない。ナルトに一度した告白が見事にスルーされたのは、きっとあれの所為だ。なんだ、自業自得か……。
 サクラは手すりに顔を伏せて、いかんいかんと頭を振った。
 ネガティブ・ループしてる場合ではない。今日だけは己の性格の悪さを呪う時間があるのなら、「おめでとう」の代わりになる言葉を探さなければ、こんな里外れくんだりまで来たのが無意味になってしまう。かといって、これといった気のきいた会話もひねり出せない。
「アンタ、昔から怖がりだったクセに、よくひとりで登ってこれたわね」
「サクラちゃんは気がつかなかったかもしれねえけど、あの階段にへばりついてた苔がさ、キラキラ蒼く光ることがあって、それが夜空みたいでキレーだから、怖いとかそんな風に思ったことねえってばよ」
 宝の塔みてぇーじゃん、うっししし。少年の心の賞味期限はいつまでなのかしら、と、両手を組んでそこにあごを乗せた。呆れるには、純粋すぎる目だった。
「ナニ冒険心だしてるのよ」
「楽しいほうがイイじゃんか」
「ガキ」
「あはは、やっぱサクラちゃんだーッ!」
 宇宙に高く、そう叫ばれて目を見開いた。髪が風に遊ばれて、口に入りそう。
「ど、ういう意味よ」
「だって元気なくて大人しいし、簡単に手握らせてくれるし、ちょっと別人みたいだった」
「そんなの、そんな……の、アンタだってそうじゃない」
「オレはいつも通りだってばよ。今日だって何も変わらない」
「そういうの強がりって云うのよ」
 ナルトからの返事が途切れた。それで、風の音ばかり聴こえる。その音に紛れ込む、恩師の声。――同じ記憶をね、何度も再生しているとさ。最初は起きたことまんま再生してたのに、そのウチにどっか歪んでくんだよね。喜びであれ、憎しみであれ。感情は凝り固まってく、そういうのオレにも覚えがあるよ。オレの場合は父親に対してだったんだけどね。あー、だからかな。だから、ナルトに――ちゃん、サクラちゃん! サクラちゃんってば!!
「聞こえてるわよ。だから、そんな大きな声出さないで」
「だって、サクラちゃんボーっとしてて、せっかくの絶景楽しんでないみたいだから。オレの誕生日祝ってくれるんだろ?」
「わたしが楽しんでどーすんのよ」
「オレ、サクラちゃんの笑顔が見たい! それプレゼント・フォー・ミィー!!」
 もっと欲しがったらどうなんだろうかと、サクラは思った。踏み出して、顔だって覗き込んでみた。あまりにも近くて、青い目に自分が居るのが分かった。だけど、こころに住んでいるのかは分からない。澄みきりすぎてて、誰もそこでは息なんか出来ないんじゃないかとも思う。
「お顔近いってばよ」
「もっと他に欲しいもんないの?」
「んー、ケーキとか」
「それは先生たちが用意してんじゃないの」
「じゃあ、やっぱり笑顔だ!」
「無欲ねー」
 Vサインを出されて、サクラはその指先ごと握ってやった。ゆっくりと、掌に包む。昔、母がしてくれた仕草のように。
「サクラちゃん、なにしてんの?」
「アンタを抱きしめようと思って」
「そっか……ッて! ええええええええええぇーッ!!」
「うるさい」
 喜べと、手を引いてから両手を広げて抱きしめてみた。大きくなって、これで二度目。その金髪からお日様の匂いがした。心音が聞こえないかしらと耳を移動させると、ナルトが大きく震えて強張った。あからさまに震えられても、見つけ出した心音が規則正しかぎり大丈夫だと、サクラは何度も自分に言い聞かせた。とりあえずは暖かくもなって大満足だ。ナルトは矛盾している、というか「した」。口では好きだというけれど、行動がなにも伴わない。もっと子供のときのほうが積極的だった気する。デートに行こうとか、ただの耳年増だったんかいと、いまは責めたくもなる。
「どうせ、飛び降りるならこうなるじゃない」
「へぇ?」
「まさかひとりで飛び降りろとかいう無茶ぶりなの」
「さ、サポートはするってばよ。だけど、サクラちゃんそんなの要らないん……――ッ痛テテテテ」
 背中に回した手で、肩甲骨から下のあたりを思いっきりつねってやった。失礼なと、サクラは思うのだ。弱い、何も出来ないままでいたいワケじゃないけど、ときめきまで奪われたいワケじゃない。足手まといだって置いてかれるのは本意じゃないけど、キミは強いから平気なんて言われた日には泣きたくなる。そんなもんだ。
「アンタ、私の誕生日にはときめきをお返ししなさいよね」
 ナルトを抱えて手すりを越えかける。軽い悲鳴が上がった。男のクセに情けないわねって口を開きかけて、どうにかこうにか今日は誕生日という呪文を思い出した。どうせ手すりの上に立ってしまえば、世界にふたりっきりだ。風が肩を、脇を、吹き抜けていくのを感じる。一歩踏み出したらそこは、宙だった。
「で、どうするの?」
「思い切りいいな、サクラちゃん」
「女は度胸よ。それに、帰りは早いほうがいいもの。でも、ただ落ちたら大惨事よね。どこでチャクラ使えばいいっての」
「マジでただ落ちればいいんだってばよ。三階辺りにネット張ってあるからさ、そこまでダイブ。あとはチャクラ吸引で下まで降りてけるから」
「――ねぇ、いっこだけ質問。そのネット、無かったら?」
 笑顔の沈黙があった、動きなんて空気から静止して。ナルトが思いもしなかったと無言で言うもんだから、サクラは思わず拳を固めてしまう。この短絡思考が……ッ!
「アンタね、去年あったからって今年もあるとはかぎらないし、そうじゃなくたって老朽化してるんだろうから、わたしたち支えきれなかったらどうすんのよッ」
「そ、そこまでは考えてませんでした、ごめんなさい!」
「まったく……」
 そんなことだろうと思ったわよ。けど――――……。
「いいのかもね」
 運試しにはあまりにも丁度いい。無事に帰れたらなにがあるって理由でもないけれど、ほら、悪い奴を続けるには強運が必要だっていうじゃない。逃げ続けるためだけの、ね。
「わたしが止めたところで、アンタはここ落ちる気なんでしょう? だったらつき合うわよ、いまのいままでバカにつき合ってきたんだから、これくらいで退かないっての」
 石畳と苔、腐った匂い。寂しさの匂い。ナルトがここから帰るときに、いつだって思いきって飛び降りたのは、ウジウジしていた自分とオサラバしたかったからなのかしら。それだけ考えて、サクラはくちびるを噛みしめた。本能的に抑え込めない恐怖で細かくふるえる指先を、隣の少年に掴まれてハッと息を呑む。指先はあたたかくて少しも震えていないのに安心感なんてなにもないし、ぬかるみから足を引き抜けない。横を盜み見ると、もうはるかなる地平にこころを移してしまったナルトの横顔しかなかった。
 これは恋だろうか。それとも、せつなさが見せる魔法なのか。
 恋だと言えたら楽だった。同情だと言えたら楽だった。けれどなにをしてもナルトの為じゃなくて自分の為になってしまうのなら、これは呪いだ。しかも、幼い自分がかけた自業自得の呪い。
「無事に帰れたら吊り橋効果でアンタにキスするかも」
「嬉しいけど、なんか嬉しくないってばよ」
「嫌ね、男って。変なところでロマンチストで」
「どうしたのサクラちゃん!? ストレスMAX?」
 そうね、ストレスFull。だから飛び降りてみて、生きてる、を感じたい。

 いち、にー、さーん。

 木ノ葉隠れの里の入り口には大きな門がそびえ立っていて、山の麓まで続く道がど真ん中を突っ切っている。そこから左右上下と碁盤の目のように住居や店が立ち並んで街の区画が出来上がってもいた。その街はすっぽり包まれるように青い塗料に塗られた漆喰の城壁によって守られている。それが里の中で、自然の絶壁と呼ばれる火影岩から先には至宝の峰が続く、雲海だ。そもそも里自体が樹海の中に忽然と姿を現すのだから、火の国のもっと都市部に住む人たちから見たら、大門から中は不思議の街だろう。もう何十年とそうやって天然の牢のように、在る街。里に生まれた者の大半が、やがて忍者になる。そんな街。ダイブして、その街が見える。だけど、真実は見えるなんて生易しいもんじゃない。空気のすべてを切り裂いて、あれは迫ってくるのだ。
 目に痛い。いつもそうだ。ナルトが見せてくれる世界は、いつだって痛い。街がいまは萌ゆる朱のみ込まれて、こういうのって洪水っていうんじゃないかってぐらいの量が、建物を、道を、朱に染め上げている。泳ぐ。きっとあの塔だけが地平で、あとみんな水底だったのだ。潜る。手を繋いだままでネットが見えた。すぐに視界が遮られて、思ったより衝撃がこなかったのを、サクラは不思議顔で受け止めた。ネットが水面みたいにたゆんでいる。でも、冷たくはない。ヒトの息で、鼓動で、代わりに熱い。どくん、どくんと、生きている音が聞こえる。いまさら呼吸が乱れるなんて、有り、なんだろうか。もう飛び込み終わった後で、全部フィナーレを迎えてしまった後で、こんなにも鼓動を大きく打つなんて。
「ごめん、サクラちゃん。これ結構怖かったの、オレ忘れてたってばよ……」
 腕ん中に抱きかかえられても、涙ひとつこぼれやしない。この薄情さ、を。
「アンタは、きっと、そうやってみんな忘れちゃうから生きていけるのね」
 命を、毎年ここでリセットすれば傷を抱えずに生きてはいける。思い出すことはあっても、それはもう本質にもならないのだ。ダイヤモンドメンタルなんて言葉は嘘っぱちだ。多分そのヒトは鈍感になるのが上手いだけで、綺麗に忘れていけるだけなのだ。
「わたしは、」
「――オレ忘れてないよ。サクラちゃんとの約束、全部。ただ、守れないだけだってばよ」
 肩口に赤い紅葉。首筋に、青い銀杏。目に映るモノすべてが綺麗だった。
「もうイイから、忘れて良いから、その代わりに生きてなさいよ。……ね?」
「もち、まだサクラちゃんのことお嫁さんにしてないし、火影にもなってないし、サスケ連れ戻してないし。……やりたいことしたいことイッパイあるんだ」
 だけど、守れないんでしょう? ――たった数分前に言ったことさえ忘れていくというなら、何回でも祈り願いつぶやくしかない。真っ白だったスポンジに、最初に落としてしまった何かのシミが消えなかったとしても、少しでも元通りになるように洗剤つけてこする、あの無駄な努力。
「願うだけはタダだから、イイのよ」
「あは、安いプレゼントだってばよ……」
 もうわたしとの約束はなにも守らなくてイイと言う代わりに、サクラは泣きたい気持ちを抑えこんで、空元気の頬を包み込んだ。ナルトにとって今日は自分が生まれた日、そして両親を失った日だ。なら、この木漏れ陽はあたたかいばかりじゃないんだろう。
「ナルト、生まれてきてくれてありがとう」
 別にわたしの為じゃなくてもいい、生まれて貰わなければ、罵倒も、好意も、嫌悪も、後悔も、この胸に灯るなにひとつ伝えられもしないのだ。だったら、わたしの為じゃなくてもいい。わたしだってナルトの為に生まれてきた理由じゃないし。それくらいドライでイイ。だけど自分じゃ祝えないというなら、乗りかかった船だから、わたしが毎年おめでとうの代わりを言えばイイのだと、よろしい加減で諦めがついた。覚悟が、いつも足りないと云われる。足りないと、自分でも思う。けど、全部決めてしまったら、相手を窒息させるほど苦しめることになる。――――――――あぁ、そうか。
 その覚悟がないんだ。苦しんで貰うのを良しとする覚悟は、まだ無い。
 途端に、可笑しくなって、天上の高い秋の空へ高らかに笑い声を上げた。腹筋が引き攣るくらいにオカシイ。いい女を演じるには早すぎて、だけど早く大人にならなきゃいけない。サクラはここが正念場だと、ふり切れと、己のこころに念じた。息をして、目は閉じて、いまは口の端に押し付けるので精一杯。
「さ、さくらぁ……ちゃ、ん……」
「喜びなさいよ、こっちが自信なくすっつうの!」
 顔面に掌をめり込ませて、撃沈したナルトを置いてさっさと外壁を下へ降る。後ろから、ひどく戸惑いながらも追い駆けてくる足音を聞いて、いまは笑顔が口の端から洩れた。ナルトが真っ赤になって、必死になって起きたことを時系列に整理しようとしているのが、言葉にならないうめきでよく分かる。だけど、その動揺だって夜までもつかどうか。街中に帰る前には、素晴らしい極論をぶつけて女心とは程遠い位置に落ち着いているような気がする。ナルトはそういう風に自分を納得させるのが、天才的に上手いのだ。詐欺師かと思う。そのクセ、己に起きた一大事を忘れると、バカみたいに優しい。いまも「サクラちゃん、やっぱりどっか頭打ったの?」って……――あれ、これは優しさじゃない。残念な失礼成分だ。愛される順番を失念している。だから、サクラは答えることも、ふり返ることもしなかった。ただ、その口が真実のみを語るというなら、それを信じるしかない。それだけのことで、それはとても難しいこと。

『それにさ、普段はそういうの忘れちゃってるから。英雄とか、英雄の息子とか、言われると嬉しくないって言ったら嘘になるけど、なんでもかんでもそう言われたくってやってるワケじゃねえんだってばよ。計算(?)とか言うの、まどろっこしいから苦手だし、我愛羅にはさもっと賢しくなれとか言われたんだけど、そいつはオレには無理じゃねって。自分で認めるのも癪だけど、そんときそんときの感情ダダ洩れだからさ。でも、後になると大抵覚えてねえのッ!! もうさー、感情爆発野郎でゴメンネ。……あのさ、サクラちゃん大好き』

 きみはなんて綺麗なアムネジア。生きる為に、すべてを忘れていく。





※アムネジア=物忘れの多いこと





【コメント】
主催様、お読みくださった方々、webアンソロジー企画おめでとうございます!ナルサクをたくさん拝見できるナル誕となりましたね。当方はつき合ってもいなければ、告白もないという、いまいち糖度の薄いふたりですが、少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。ナルトさん、お誕生日おめでとう&ありがとうー!!!





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