まろやかな棘



まろやかな棘




   三.


 逃げるようにサイの部屋を後にしてから、三週間が経つ。
 里内に留まっている間、もしかしたら接触を試みてくるかもしれないと緊張していたが、そんなのはただの取り越し苦労で、外を歩いていても気楽なものだった。サイも何かと多忙なのだろう、女の気まぐれにいちいち構ってはいられないとみえる。あの夜のことは、記憶から綺麗さっぱり洗い流してくれたらしい。サクラにとっては、とてもありがたい話だ。
 そんな日常がにわかに崩れ出したのは、十日目のことだった。サイが、サクラの周囲をうろつきはじめた。今やサクラも上忍、簡単に気配を掴ませないし、病院に詰める用事があれば、根回しをして入念に人払いをした。侵入禁止の信号を、サイはどう受け止めるのか。サクラはそれを探りながら、慎重に逃げ続けた。



 深夜の木ノ葉。大門を潜る身体はさして疲れを感じなかったが、その代わりに警戒心をよりいっそう強めた。家に戻るルートはいくつかあるが、それをランダムに使い分けて、サイに尻尾を掴ませない。どういうつもりなのだろう、と自分のしたことを棚に上げて、サクラは家路を急ぐ。
 裏路地を細かに折れて、住宅の密集地を抜け切る寸前、足元をぬっと動く生き物に気を取られた。それが超獣戯画の蛇だと、板塀を蹴り上げたところで気づく。庭木の枝に着地すると同時に、手首をぐっと強く掴まれた。
「悪いけど、忍術を使わせてもらったよ」
 その声色には、珍しく焦りのようなものが滲んでいた。なかなか捉まらない状況に、痺れを切らしたのかもしれない。
「待ち伏せなんて、本当は趣味じゃないんだ。でも君は、ボクと顔を合わせることを、ずっと拒否し続けている」
「……とりあえず降りない?ここ、人の家の庭だから」
「いやだ」
「今更もう、逃げないわよ」
 そうは言っても、散々逃げ続けた人間の言うことなど、素直には聞けないらしい。手首を掴む力は、緩まるどころか強くなるばかりだ。
「そこの蛇で、手足を縛ってもいいから」
 すぐ下の地面を這っている蛇に視線を投げて、サクラが言う。サイはじっと何か考え込んでいたが、やがてサクラを拘束するその手を緩めた。かわりに手のひらを重ねて、ぎゅっと握る。その仕草に、サクラは面を食らった。忍術を行使してもいいと言ったのに、手を握ることで、サクラを繋ぎとめておこうとする。こんなにも人間くさいことをする男だったかと、サイの顔をまじまじと眺めてしまった。
「降りるよ?いい?」
 サイが問いかければ、サクラは黙ってこくりと頷いた。サクラの手を引くと、二人揃って地面に降りる。これからどこに行こうかと迷っている風だったので、サクラが先導をした。このまま森の方角に抜ければ、話し声が気にならないはずだ。こんな真夜中、民家が並ぶド真ん中でする話でもない。
「ずっと避けていたのは、ボクと寝たことが、原因だね?」
 民家が途切れたところで、サイが話を切り出した。その問いかけに、サクラは黙り込む。気まずい沈黙こそが、肯定であることを強く示していた。
「意味が、知りたいだけなんだ」
 サイの弱い声が、地面にぽつりと落ちる。
「君と過ごした夜が、頭の中を巡って仕方がない。気づけば意味を探している。あの夜は、何だったんだ?どうしてボクの部屋を訪ねたんだ。サスケくんでも、ナルトでもなく、何故ボクなんだ」
「やっぱり、意味とか必要だったよね……」
 観念したように、サクラが力なく零した。がっくりと肩を落とし、弱りきった様子で額に手をあてる。その姿に、サイは言葉をなくした。「何を言っているんだろう、この人は」という表情で、項垂れるサクラをただただ眺めた。
「その、なんでか思っちゃったのよ、アンタと寝ておけばよかったかなって。なんていうか、あの日は、ちょっと死に掛けた直後で……。これで終わりかもって思った時、パッとアンタの顔が何でか浮かんだの。ホント、ただそれだけなのよ。意味とか理由とか、そんなのなくて、」
「そういうことは、ちゃんと考えてくれ!」
 サクラの言葉を遮って、サイは思い切り怒鳴り声を浴びせかけた。初めて聞く大声にサクラは目を瞬かせ、そんなサクラの反応に、サイは更に苛立ちを募らせた。
「単なる思い付き?意味なんてない?冗談はたいがいにしてくれ!だいたい君は、昔っから考えなしなところがあるんだよ!」
 サイにも、感情を制御できなくなる瞬間があるらしい。戦場でさえ聞いたことがない大声にも驚いたが、感情を爆発されるその姿にこそ、サクラは圧倒された。
「嘘が下手なくせに嘘をつこうとするし!人一倍正しいことがしたいと思ってるくせに、いざという時に判断を間違うし!任務から離れると、急に周りが見えなくなるんだ!」
「……うん、知ってる」
 まだ喉がうまく動かないのだが、サクラはなんとかそれだけを返した。
「薬の調合はお手の物なのに、どうしてこう、物事のバランスが取れないんだ。どこか極端なところがあるんだよ、君は」
「はい、ごめんなさい」
 手厳しい指摘の数々に、サクラは反論することなく、素直に謝罪を口にした。そのしおらしさを前にすると、まだまだ山のように積まれた文句の数々は、自然と胸の内から消えてしまった。
「どうして君は、いつもいつもボクの心に棘を刺すような真似をするんだ。君の存在は、ひどく性質の悪い、抜けない棘だよ」
「……あの、さすがにそれは言いすぎだと思うんだけど……」
 ぽつりと落とされた言葉が、サイの中で化学反応を起こす。先ほど静まったばかりだというのに、今度は腹の中を獰猛な動物が駆けずり回っているような感覚がやってきた。
「言いすぎ?これでも全然言い足りないぐらいだよッ!」
 言葉端がきつくなるのを、サイはもう抑えられない。相手の言い分にじっと耳を傾けるなんて、とてもじゃないができない。いつもは見渡す限り静かに凪いでいる感情の海原は、巨大な渦や激しい高波に支配され、サイ自身を飲み込んでいった。
「むしろ、責任を取ってもらいたいぐらいだね」
「責任?何の?」
 きょとんとした顔で、サクラが問う。こんなにも鈍い女だったかと、サイは呆れたように息を吐いた。
「こうなったことに対して、だよ。これだけ人のことを振り回しておいて、ごめんなさいの一言で済むわけないだろう?」
 ああそうか、と納得する一方、サクラはいよいよ困り果てる。責任なんて、どう取ればいいのやら。また寝ればいいのか。いや、違う。そんなことを口にすれば、サイは怒り狂うだろう。「あ、そんな姿も、見てみたい」などと心のどこかで思ってしまう自分自身を、サクラは他人事のように見つめた。
「そもそもボクは、特定の女性と付き合う気はなかった。だけど、相手が君となれば話は別だ。ボクも腹を括る。これから君と、とことん向き合ってみようと思う」
「ちょ、ちょっと待って!」
 話が、物凄い方向に流れはじめている。サクラはサイの一方的な通告を遮るのが精一杯だ。咀嚼がまるで追いつかない。
「私にできることなら、とは、うん、思うんだけどね……?腹を括るとか、向き合うとか、どういうことかサッパリ……」
「だから、できることをやってもらおうと言っているんだ。勝手に踏み込んできてその気にさせたのは他でもない、君自身だろう?相手が悪かったと思って、諦めて欲しい。君も、そのくらいのことはしてくれ」
「それはつまり……結婚、とかそういう?」
「ボクは体裁にこだわらないけど、君がそれを望むなら」
 サイはそう言って、サクラの反応を待つ。サクラに向ける眼差しからは、視線を逸らすことを許さない強引さが覗き見えた。
「時間、欲しいって言ったら、どうする?」
「それを許せば、君はきっと逃げる」
 間髪入れずに、サイはきっぱりと断言した。
「まず、任務に逃げる。自分には、やり遂げなければならないことがあるってね。そして、ほとぼりが冷めるのを待つ。ひたすらに。その後はそうだな、忍社会とは縁のない男を、人生の伴侶に選ぶだろうね。君は、七班のしがらみを何より大事に思っている一方で、どこか窮屈に感じているところがあるから」
 サイの口から語られるサクラの未来図は、まるで預言のようだった。サクラ自身の脳裏にも、そんな自分の姿がありありと浮かんだ。
「君は、ボクのことを侮りすぎている。そう簡単に諦めると思うかい?」
 サイは、サクラを見つめたまま、意を決したように口を開く。
「君は、ボクにとって、特別なんだ」
「特別って……仲間として、とか……?」
 この期に及んで意味を濁そうとするサクラに、サイの表情が一変する。
「惚れてるんだよ!君に!どうしてそれがわからないんだッ!」
 今日一番の大声に、サクラは大きく目を見開いた。ぶつけられた言葉に、曲解する余地は一切残されていない。
「惚れ……ええ?私に?なんでッ!」
「知らないよ、そんなことはッ!もう、本当に愛想を尽かしてしまいそうだよ。いや、尽かさないけどね。ボクは一生、君に囚われっぱなしだ」
「えと、ごめん……。アンタのこと、そういう風に……一度も考えたことなくて……。困ったな、どうしよう」
「じゃあ、これから考えればいい。そういう衝動を抱く程度には、君の心にボクの存在が突き刺さっているんだろう?死に際に寝ておけばよかったなんて、普通は思わないはずだ」
 サイの口から「普通」という言葉が自然に出てきたことに、サクラは心の底から驚いた。今日は、サイに驚かされてばかりだ。
「時間が欲しいと、君は言ったね。じゃあ、ボクの隣で考えてくれ。別に寝なくてもいい。今更、多くは求めない。ただ、ボクのことを、もっと考えてみてくれ」
 サイが零した「普通」という言葉は、サクラがまだ十代だった頃の純粋な気持ちを、その胸に蘇らせた。
 好きな人だから、抱かれたかった。
 理由なんて、案外そんなものなのかもしれない。事はもっと単純で、深く考える必要なんてないのかもしれない。
「さっきも言っただろう。これからは、君と向き合ってみるって。責任を取るっていうのは、そういうことだ」
 びゅうっと風が流れて、周りの木々が葉擦れの音を派手にかき鳴らす。そういえば、最初に任務を共にした天地橋も、風が強かった。サクラは、真剣にこちらを見つめるサイの表情を、改めて眺める。
 何も感じない。感情がない。
 かつてそう言い切ったサイが、本心を確かめるために女を追いかけ回し、聞いたこともない大声を張り上げて、あの夜の出来事を衝動で終わらせまいと言葉を尽くしている。その必死さに触れるうちに、サイが愛しくなった。
 サクラは右手を持ち上げて、怒りのせいで紅潮している頬を、指で撫でる。びくりと肩を小さく震わせる様が、また可愛い。サクラはサイに寄り添うと、その背中にそっと両腕を回した。
「……誤魔化そうとしてる?」
 サイは、身体を強張らせながら、おそるおそる問いかける。棒立ちのまま、微動だにしない。
「さっきはしたり顔で私の未来を予想したくせに。それぐらい、当てられるんじゃない?」
「無茶言わないでくれ。君の真意は、見失ったままなんだ」
「……ごめんね」
 それは、今発した冗談についてか、あるいは逃げ続けたことか、それともあの夜の所業か。依然として判別はつかなかったが、サイは問い詰めなかった。
「君の中に、ボクの居場所はある?」
「今、作りたてほやほやのベンチがある」
「作りたて、か……。まあ、ないよりはマシかな」
「私も、アンタとのことを考えてみるわ」
「うん」
「向き合うって、いい言葉ね。そういうの、今までずっと避けてたような気がする」
「ボクは、初めてだよ。君以外の女性とは、どうも向き合う気になれなくてね」
「あら、嬉しい」
 ずっと困惑しがちだったサクラの声が、ようやく弾む。
「心置きなく、できてたのベンチに座らせてもらうよ。ボクは我慢強いんだ。君の答えを、ゆっくり待つことにする」
「そうは言っても、答えはもう出ているような気もするんだけどね」
「……それは聞き捨てならないな」
「確信が持てたら、ちゃんと言うわ」
 拗ねた様子でサクラの顔を覗き込んでくるサイに笑いかけると、サクラはその唇に、すっと自分のものを押し当てる。もっと大胆なことをしたくせに、サイはひどく動揺して、明後日の方角に顔を向けた。
「逸らさないの」
 サクラはそう言って、サイの両頬を挟んだ。あの夜とは違い、付き合いたての恋人同士のように初々しいキスを交わす。唇を離すと、サイはようやくサクラに手を伸ばし、その身体を両腕で囲った。
「君には、調子を狂わされっぱなしだ」
 それはため息まじりの呟きだったが、どこかホッとした響きも含まれていた。



 一年ぶりにできた恋人は、ずっと避けていた七班の、しかもサクラの手をひどく煩わせた常識知らずだった。
 あれから三日後、部屋の合鍵をサクラの手に握らせて、「時間があったら必ず寄るように」と言い含めるサイの顔は、珍しく緊張していた。思わず吹き出してしまうと、今度は「何がおかしいんだ」と不機嫌になり、その顔がまた面白いものだから、サクラは腹を抱えて笑った。
 サイは、いつの間にかすっかり感情を取り戻していた。変貌の過程を見届けられなかったことを、サクラは悔しく思った。その後悔は、サイと恋愛というやつをはじめるのに十分な動機となり、合鍵を受け取ると、久方ぶりに心が浮き立った。
 病院からの帰り、サイの部屋へ続く道を、てくてくと歩く。西陽のせいで細長く伸びた自身の影と、食材や日用品が入ったビニール袋がシャカシャカと擦れる音。それらは遠い昔、サクラの悩みの種であった己の平凡さの象徴だった。任務の解散後、待つ人のいない家に帰る三人と、母親に調味料を買ってくるよう頼まれている自分。こちらの立場も考えないで家庭内の用事を押し付けてくる両親を恨んだこともある。
 そんな少女期を過ごしたからだろうか、自分が肩の力を抜いていられるのは、忍とは縁遠い世界に住む男と歩いている時だと思うようになった。過酷な任務の反動もあるかもしれないが、平凡さを認め、愛してくれる男を、サクラはいつも選んだ。しかし実際は、相手との間に溝のようなものを感じてばかりの日々で、いつも別れる羽目になった。
 そして今、一番噛み合わないと信じきっていた男と共にあることで、その歯車が上手く回りはじめている。物事にいくら逆らったところで、なるようにしかならない。
 このまま、上手く収まるのかしら。
 サクラは、そんなことを思いながら鉄製の階段を昇り、ビニール袋を肘に引っ掛けると、合鍵を使ってドアを開けて、絵の具の匂いが染み付いている部屋の中に入った。




<了>