最適解



最適解




「よし。異常はなし、と」
 サクラはそう言うと、チェック表の空欄をすべて埋めて、ナルト専用に作った分厚いファイルにそれを紐閉じした。義手のチェックは、五日以上里を空けた場合に必ず受けることになっていて、一週間の任務を終えたナルトはまっすぐ病院に向かい、サクラの世話になったというわけだ。
 ナルトは、脱いだ任務服を身に着けると、支度を整え、床に置いた背嚢に手を伸ばす。そして肩紐を握ると、ちらりとサクラに視線を遣り、遠慮がちな声でこう言った。
「あのさ、今日の夜、サクラちゃんの家、行ってもいい?」
 サクラは、咄嗟に応対できず、書類整理にもたついている振りをしながら返答を考えた。
「えーと……家に帰るの、たぶん日付跨ぐくらいになるけど……」
「別にいいよ」
「明日早いから、ほとんど話できないかもしれないよ……?」
「それでもいい」
 言葉数が少ない中にも、とにかく家に行きたいのだという意思の強さを感じる。ため息を喉の奥に押し込んで、サクラは頷いた。
「じゃあ、それでいいなら、うん」
「オレ、病院の外で待ってていい?」
「……寒いわよ?」
「ちゃんと防寒するから、平気。じゃ、待ってるから」
 ナルトは背嚢を担いでサクラの執務室から出て行く。少々くたびれた感のある後姿は、任務の過酷さを物語っていた。これから仮眠を取るとしても、あまり待たせるわけにはいかない。サクラを急かす意図はないにしても、スケジュールを組み直して一時間は早く切り上げられるように調整をしようとすぐに決めた。最近のナルトの行動を思い返すと、午後九時ぐらいから待っていてもおかしくはない。
 ナルトとサクラが付き合いはじめて、今年で二年目になる。最初の一年はニコニコ笑ってばかりで、頻繁に会えないのは忍者なのだから仕方がないと割り切ってさえいたナルトだったが、このところどうにも物足りなそうな顔をするようになった。一度、治療室のベッドに無理やり押し倒された時、当たり前のことながら拒んだのだが、ナルトはとても傷ついた顔をした。拒まれたということ自体がよほどショックだったのだろう。「あなたを拒絶しているわけではなくて、場所が場所だからやめて欲しかった」と噛んで含めて説明したが、その傷はおそらくまだナルトの中に残っている。
 何がナルトを不安定にさせているのか、サクラはうっすらとだが理解している。ナルトにとって愛とは、恒常的に受け取れるものではなかった。いくら両親との邂逅を果たせたとはいえ、男女間の愛はまるで別物。手に入れた最初こそ満たされたが、それが実はとても脆くて絶対的なものではないのだとやがて気づきはじめ、どう対処していいのかわからず戸惑っている。だからこそサクラを試すようなことをしたり、どんな自分でも受け入れてもらいたいと自棄にかられたりする。ただの推量だが、あながち的外れではないという確信がサクラにはあった。それは、ナルトと一番長く顔を突き合わせているのは自分だという自負でもある。
「とにかく、巻きで仕事するしかないか」
 サクラは腕まくりをすると、思考を頭から追い払い、今日中に片付けるべき書類に手をかけて仕事に集中した。




 午後十一時前に病院の裏口を出ると、もこもこのセーターにマフラーをぐるぐる巻きにしたナルトが、フェンスの角にしゃがみこんで手を擦っていた。鼻の頭が赤い。
「いつから待ってたの。風邪引くでしょ」
 腰を折り、赤い鼻をぎゅっと摘むと、ナルトは「おかえり」とくぐもった声で言って笑った。サクラは冷たい手を引っ張り上げて、自宅アパートに向かって歩く。ナルトはといえば、身体を摺り寄せてサクラの手を握った。その様子は恋人というよりも、迷子にならないようにと親に引っ付いて歩く子供のようだった。不安や心配というのは、非常にわかりやすく人に伝染する。繋いだ手から流れ込んでくるのはそういった感情で、どうしたらこの人の不安を溶かしてあげられるだろうかと、サクラは考える。
 男と女がいて、間にある不安を埋めたいのであれば、安易で手軽な方法がひとつだけある。それは即効性こそ抜群だが、残念ながら根本的な解決にはならない。むしろ関係がだらしなくなるばかりで、余計に事態が拗れてしまうだろうと容易に想像ができた。かといって、サクラはナルトの母親代わりになるつもりもなければ、ましてや別れるなんて論外だった。この状況を打開するには、自分自身で最適解を見つける必要がある。
 やがてアパートにつき、階段を上がると部屋の前で鍵を開ける。家の中に入るなり、ナルトはサクラの身体に背後から抱きついた。サクラは、ぎゅうっと抱きついて離れないナルトの手をポンとひとつ叩く。
「中、入ろ」
 襲ってきたらまた対応の仕方は違うのだが、ナルトからは何の反応もない。拒まれるのが、きっと怖いのだ。どうしたらいいのか、わからない。そんな感情が透けて見える。
「まだ冷えるから、温かいものが飲みたいの。ナルトも身体冷えちゃったでしょ?だから、入ろ?」
「……うん」
 ナルトはようやくサクラの身体を離し、靴を脱ぐ。そんなナルトの手を引いて、小さなちゃぶ台の前に座らせると、サクラは台所に立った。そして、まだまだ高級品で手に入りにくいインスタントコーヒーの蓋を開けて、二人分のコーヒーを淹れる。その片手間に牛乳を沸かし、砂糖を準備した。
 湯気のあがるマグカップを二つ持って、サクラはちゃぶ台に歩み寄る。ナルトの向かいに座ると、渦巻き模様のマグカップを差し出した。
「これ、飲んでみて」
 ナルトはマグカップを受け取り、そっと口をつける。中身を一口含むなり、やや強張った顔が途端に和らいだ。
「……スゲーうまい」
「それはね、あんたが一番好きな配合なの」
「配合?」
「コーヒーの濃度と、牛乳の量と、砂糖のさじ加減。薬学並みに研究したのよ?」
 その言葉を受けて、ナルトはもう一口飲むと、「うまいなぁ」としみじみ呟いた。
「そりゃそうでしょうよ。愛情の結晶だもの」
「なにそれ?」
「あんたの好みを試行錯誤で割り出して、あんたのためだけに淹れた一杯。だから、美味しいの」
「……そっか」
「飲みたくなったらいつでも言って?どんだけ眠くて疲れていても、作ってあげるから」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「……そっかあ」
 ナルトは頬を緩ませて、マグカップの中をじっと見つめる。久々に、纏う空気が柔らかい。両手をうんと伸ばしてナルトの髪を混ぜ返すと、飲めないじゃんか、と文句を言いながらもナルトは楽しそうに笑っている。その姿があんまりにも愛しかったものだから、たまらなくなって頬に口付けた。ナルトは目を瞬かせて、呆然とサクラを見る。
「びっくりした?」
「……した」
「ナルト、こっちおいで」
 手招きすると、ナルトは膝を引きずってサクラに近づく。サクラが両手を広げれば、ナルトは本当にいいのかな?という顔でおそるおそるサクラを抱き寄せた。やがてじわりと互いの熱が身体に伝わりあう。
「……なんか、こういうの久しぶりだ」
 ほとんど独り言みたいな呟きだったが、サクラには意図するところがよくわかった。ナルトは今、心身ともにほぐれて満たされている。その感覚を浴びるのが久々だと言っているのだ。
「寂しかった?」
 その問いかけに、ナルトは間を空けた後、無言で頷いた。
「私もよ」
「……そうなの?」
「最近の私たち、ちょっとすれ違ってたよね。だからかな。今、なんだかすごーく甘やかしたい気分」
「それ、甘えたいの間違いじゃなくて?」
 こういう時、拗ねた口調で反論するところが可愛くて仕方ない。口にしてしまえば機嫌を損ねるだけなので言わないが、それは失わずにずっと持っていて欲しい。
「じゃあ、甘えたいって言ったらどうする?」
「……寝る時間が……遅くなる」
 こちらから誘いをかけたというのに、ムードも色気もない答えが返ってきて、サクラは吹き出してしまった。
「だ、だって、明日早いってサクラちゃんが……!」
「ごめんごめん。そうだね、言った。確かに言った。気を遣ってくれて、ありがと。でも、帰りたくないでしょ?」
 ナルトはがしがしと頭をかいた後、うんと頷く。今夜は、一緒に過ごすのが正解。こんなにも心が近いのに、どうして離れなければならないのか。いつか拒んだ傷が、癒えるといい。そう願いながら、ナルトの頬に手をあてる。いいの?とその瞳が問いかけるので、どうぞ遠慮なくと笑みを返した。
 幼い頃に標榜した「一生愛の人生よ!」という生き方は、まんざら子供の戯言ではなく、サクラの中に根付こうとしていた。きっと自分は、生ある限り愛の証明をし続けていくのだろうとサクラは思っている。今のところは一杯のコーヒーがせいぜいだが、それで終わるつもりはない。その時その時の最適解を探し続けながらナルトと共に生きていこうと、サクラは降ってくる口付けを浴びながら自分自身に誓った。




2017/3/28