雰囲気



雰囲気




(注)もしも木ノ葉にバレンタインがあったらの話。




 その日の火影室は、殺気とやる気に満ちていた。というのも、「今日は絶対に定時で帰る!帰るったら帰る!」と朝一番に言い張った火影がしゃにむに書類仕事をこなしているからであって、その勢いたるや火影の補佐役として立ち回っているシカマルの確認作業が追いつかないほどだった。うず高く積まれ、山と化していた決裁未処理の書類は、瞬間移動でもしているのかと目をこすってしまうほど大胆かつ豪快に切り崩され、今は2合目あたりをうろうろしている。朝5時の早すぎる始業と共にはじまったこの格闘劇は、握り飯を片手に正午を越え、今は佳境の3時半に差し掛かりつつあった。定時の目安である5時まで、あと1時間半。ここからは時間との勝負だ。
「くっそー、頭疲れてきた……飴ちゃん、さっきので最後だったよなあ」
 手の動きを一切止めずに引き出しを確認する様は、もはや一芸と言って差し支えないだろう。
「……買出し、行ってくるか?」
「いや、いい。お前が出てったら、誰が書類の確認すんの。書類の差し戻しで呼び出しくらうなんて、ぜってー御免だってばよ。予約、6時半に入れてんだから」
 この日は、折りしもバレンタインデー。普通の恋人同士ならチョコをもらってデートをするくらいで済ませるのだが、ナルトはシチュエーションにもこだわりたいらしく、毎年チョコを受け取るのにふさわしい店を調べては、予約を取るのが習慣になっていた。
 ナルト曰く、「なんたってガキん頃から夢見てた本命チョコだかんね!義理チョコからの脱出を願っては振り出しに戻るのを繰り返していた頃を思うと泣けてくるってばよ……本命貰えるようになるまで何年かかったことか……。本来なら神棚に供えてお祈りしなきゃいけないぐらいありがたーいチョコなんだから、せめて雰囲気のある場所くらい整えなきゃ、相手に失礼ってなもんでしょうよ!」だそうで、暑苦しく語るその様子を酒酒屋で目の当たりにした同期の男連中は皆、かわいそうな生き物を見るような視線を送りつつ無言で酒をかっ食らった。
「あー、甘いモン食いてー」
 イライラしているのが丸分かりの表情でがしがしと頭をかきむしるナルトを横目に、シカマルはそっと口を開く。
「影分身はダメだぞ」
「わかってるよ!そんなくだらねーことで術使ったら、火影の沽券に関わるわ!」
 そんなやり取りをしていると、不意にノック音が響いた。面倒事じゃなけりゃいいが、とこめかみを揉みつつ、シカマルが「どうぞー」とだるそうな声で答えると、控えめに扉が開く。
「あらー……絶賛、修羅場中?」
 現れたのは、非番のサクラだった。毎年お馴染みになっているこの光景を見越していたのだろう、様子見がてらに寄ってみた、という佇まいだ。
「陣中見舞いに来たんだけど、何か手伝うことある?」
「各部署への仕分け、手伝ってくれ」
「りょーかい。あ、決裁済の分、なんならあとで持ってこうか」
「悪いな、助かる」
 サクラはシカマルの真向かいに座り、早速仕事に取り掛かろうとする。その様子を空気だけで捉えつつ、ナルトは視線を書類に注いだままこう言った。
「サクラちゃん、何か甘いもん持ってる?」
「うん、持ってきた」
「だったら悪いんだけどさ、オレの机の上に広げてくんない?今、手ぇ離せなくてさ」
 サクラは隣に置いた紙袋から箱を取り出すと、リボンを解いて立ち上がり、蓋を開けながら執務机に近づいた。
「はい、これ」
「ん、わりーね」
 書類仕事の邪魔にならない場所に箱を置くと、そのままサクラはソファに戻り、仕分けの作業を開始する。ナルトは菓子が何なのか確認することなく、決裁を進めながら脳への栄養をバリボリと歯で噛み砕いた。
「お、チョコだ。そいや今日は里中で売ってるもんなー」
「おまんじゅうでもよかったんだけどね。せっかくだし、と思って」
 バリボリ、カリカリ、ガサガサ。執務室には、色んな音が響き渡る。皆が皆、無言で作業に没頭する中、12ピース入ったチョコをすっかり平らげると、ナルトは右肩をぐるぐると回した。
「あー!なんか復活した!チョコパワーすっげー。しっかしこれ、やたら美味かったな……」
「だって、今年の本命だもの」
「まーたまた、冗談きついんだからー」
 ナルトは軽く笑いながら手にした書類を決裁済の箱に放ると、サクラをちらりと見た。サクラは、てきぱきと書類を捌いている。何の返事もない。
「……え?……冗談、じゃないの……?」
 長い長い沈黙が広がり、朝から一切止まることのなかったナルトの手が、ピクリとも動かなくなる。その表情は、真顔から驚愕へ、そして遅れてやってきた衝撃はナルト自身をパニックに陥れた。
「え、え、えー!?何それ、何それ、本命って……あ!これ知ってる!すげえ高いやつだ!」
 蓋についているロゴを確認すると、木ノ葉ではこの時期にしか入荷されない希少なチョコだというのがわかった。なぜわかるかといえば、最初にもらったサクラからの本命チョコがこの銘柄だったからだ。バン、と力強く机を叩いて立ち上がると、ナルトは思いっきり声を張り上げる。
「オレ、ゆったじゃん!昨日寝る前も念押ししたじゃん!今年も予約しといたよって!なんでこんな時に渡すの!サクラちゃん、情緒って知ってる?こういうイベントはね、そっけなくしちゃうと、ありがたみが一気になくなるの。チョコをただ義務的にあげるだけの日になっちゃうの。それをなんとか阻止すべくオレがどんな思いで毎年……」
 そこまで熱弁をふるったところで、サクラの肩が微妙に震えているのに気づいた。
「……嘘です、冗談です」
 くぐもった声でそう言うと、サクラは笑いを明らかにこらえている表情で、書類の端をトントンと机に叩いて揃えた。
「言ったじゃない、陣中見舞いだって。美味しいもの食べたら、少しは能率上がるでしょ? どうせおにぎりしか食べてないだろうしって思ったら、ついつい買っちゃったのよ。今年のは家に置いてあるから、ご心配なく。……えーと、情報部と暗号部と病院に書類届けてくるね。あと1時間、頑張ってー」
 サクラは書類を抱えて、ふりふりと手を振りながら執務室を後にした。ナルトはといえば、ぽかんと口を開けたまま、腰が抜けたみたいにへなへなと身体を崩し、椅子の上にどすんと落ちる。
「よかったな、冗談だと」
「……面白かったか」
「あ?」
「今の一部始終、面白かったか」
「いや、別に」
「嘘つけ!顔が微妙に笑ってんだよコンチクショウ!」
 ナルトが丸めた半紙を投げると、シカマルはかすかに口角の上がった表情でそれをひょいっと避けた。
「……お前、全部忘れろよ」
 新しい書類を捲りながら、ナルトがむくれた口調で言う。
「酔っ払ってベラベラ喋りやがったら、この先5年は休みがないと思え」
「お前……そりゃ公私混同にも程があるだろ」
「あー!その反応!喋る気満々だったな!んもー!サクラちゃんって、時々こういうことすんだよ!」
 赤くなった顔を覆ってナルトが嘆けば、シカマルはこう返す。
「そりゃ、お前の反応が良すぎるからだろ。そもそもイタズラはお前の専売特許だろうが」
「……ということは、仕返しをしろと?」
「そうとは言ってねえ」
「いーや、言ったね。そういう意味だと、少なくともオレは思ったね。こうなったからにはお前、協力しろよ」
「……仕事、終わったらな」
「うっし!ぜってーやってやるぞ!つーわけで、お仕事再開!」
 それきり二人は口を閉ざし、書類の擦れる音やペンの走る音が執務室に広がる。
 残りあと1時間。サクラの差し入れた高級チョコのおかげで頭の疲れはすっかり取れた。早めに仕上げてシカマルと作戦を練ってやるとナルトは息巻いている。最近はすっかり角が取れてイタズラなんてしなくなったが、昔取った杵柄とはよく言ったもの。切れ者の参謀役もついていることだし、あっと驚く仕掛けを用意してやる。
「よーし、残り10件!シカマル、遅れ取るなよ!」
「へいへい」
 ほのかに笑みを宿しながら、二人は書類と向き合う。その顔は、アカデミー時代を彷彿させるものだった。
 



2017/2/14