手癖



手癖




 籍を入れて一番変わったのは何かと問われれば、苗字が「うずまき」に変わったことをサクラは真っ先にあげる。住居は三年一緒に暮らしている場所から移していないし、仕事も同じく内勤と里外任務の半々。指輪は婚約してからずっと嵌めたままで、石のついたものからシンプルなものに変わったくらい。ナルトには親族がいないので新たな親戚付き合いもなく、二人で春野家を訪問する頻度が増えたくらいだ。
 二人暮らしの時とほとんど変わることのない新婚生活の中、記す署名が変わったのは、サクラにとっては飛び抜けて大きな変化だった。何しろ、生まれた時からずっと付き合い続けてきた姓だ。書類を読んで署名欄があれば反射的に「春野サクラ」と手が動いてしまうし、いつだったかの接待で店の予約を取った時も気づけば「春野」でお願いをしていた。電話をわざわざかけなおすのも手間だしとそのまま放っておいたら、接待で同席したシズネに「まだ慣れないのね」と苦笑をされてしまった。
 慣れが肝心だとわかってはいるのだが、何といっても書類の書き損じは、作業効率にも関わる。「春野」に二重線を加えて訂正印を押し、「うずまき」に変更するのだって、数をこなせばため息だって増えてしまう。
「あー……またやってしまった……」
 サクラは、ガクリと肩を落とす。分厚い書類の束を読み込むことに気を割きすぎて、ついつい手が疎かになり、署名欄に「春野サクラ」と書いてしまった。これでも最近は、「うずまき」と書ける回数も増えてきたのだ。とはいえ、うっかりするとこうなるのだから、染み付いた癖というのはなかなか抜けない。手の甲を額にぐりぐりと押し当てる。
「サクラさん、来客です」
 控えめなノック音の後、聞こえるのは耳に馴染んだ部下の声。慌てて時計を見れば、会合の予定時間はもうすぐだ。
「あ、はい。ちょっと待ってね」
 訂正をする時間を惜しんだサクラは、書類の束をとりあえず決裁済の箱に押しやり、「あとで署名欄を直すこと」と卓上のメモ帳に書き付けると、ノートと筆記具を抱えて会議室へと足早に移動した。




 会合が終わったのは、夕方の五時過ぎだった。三時間近くあれやこれやと検討を重ねて、今後の方針をようやく固めることができた。これで少しは見通しがよくなり、プロジェクトも軌道に乗りはじめるだろう。すっかりくたびれたサクラは、お茶を下げにきた部下に少しだけ離席する旨を伝えると、病院の一階にある従事者用の喫茶室でコーヒーでも飲むことにした。
「今日分の書類、提出しちゃいますか?」
 部屋を出る際、気の利く部下はそう提案をしてくれた。渡りに船とばかりに頷き、「あー、そうね、決裁済の箱に入ってるからお願いできる?」と何も考えずにサクラは答える。そして肩を揉みながら廊下へ出て、喫茶室に向かった。
 喫茶室の扉を開けると、奥のソファでシズネが紙コップを片手に書類と向き合い、何やら難しい顔をしていた。集金箱にお金を入れて紙コップを手に取り、サーバーからコーヒーを注ぐと、足音をきちんと立てながらシズネの隣に座る。
「何か問題ですか?」
「んー……予算が、ね」
 シズネは病院の経営部門にも呼ばれるようになっていて、そこで割り振られる慣れない仕事に四苦八苦している。木ノ葉を代表する腕利きの医療忍者も、経営に関してはまるで門外漢。苦労性の姉弟子は勉強の日々だと常々口にしていた。
「大規模な任務でも、予算まで気にしたことなんてないですよね」
「そこは本来、専門家に任せる分野だと思うのよね。でも、現場の視点が欲しいって言われたら、とても断れなくて……」
「経営かー……考えたこともないですよ」
「サクラもそのうち、呼ばれちゃうかもよ?わりと向いてると思うんだけど」
「ええ?私がですか!?でも、ちょっと面白そう……なんて思わないでも、ない、かな?」
「はあ、やっぱりこれは承認できないな。もうちょっと計画を揉んでもらうことにしましょう」
 そう呟くシズネと、署名欄のところでふらふらと揺れるペン。そこでサクラは唐突に思い出した。
 私、あの書類の署名欄、まだ直してない!
 サーッと血の気が引いて、紙コップを取り落としそうになる。あつあつのコーヒーをどうしようかと思ったが、「急用思い出したので、シズネさん、これ飲んじゃってください!」と無理やり押し付けて、サクラは病院を飛び出した。どうか間に合ってくれ、と思いながら火影屋敷への道のりを走りぬけ、執務室の扉をノックする。
「失礼します!」
 扉を押し開けると、側近役のシカマルがちらりと視線を遣り、「面倒事がやってきた」とばかりに顔をしかめて息を吐く。その仕草を見て、すべて遅かったことをサクラは悟った。
「あの、火影さま」
「なんでしょう、春野さん」
 火影さまことナルトは、春野サクラという署名がバッチリ入った書類を眺めながら、組んだ両手の上に顎を乗せていた。
「その書類、ちょっとばかり……いや、とても重大な不備がありまして……早急に手直しが必要なんですが……」
「不備って、どこ?」
 ゆっくりと首を傾げるナルトの声は、心なし冷たい。
「えーと、その、署名欄が、」
「これでいいんじゃないかなー問題ないんじゃないかなー」
「いえ、是非とも直させていただきたく……」
「いーっつも、いーっつも、春野サクラって書いて訂正線入れて、うずまきにするの、面倒でしょ?もうさー、これでさー、いいと思うんだよねー。特例措置っつーの?そゆの作ってもいいしさー」
 こいつ、拗ねてる。しかも、思いっきり拗らせてる。
 火影行きの書類には特に気を配ってはいるのだが、重要機密かつボリュームのあるものが多く、それに引きずられて頭の切り替えができないまま手癖が出てしまう。それが今回の大事故に繋がったというわけだ。書類仕事になまじ慣れてしまったが故の所業で、こんなことなら里外任務に特化した医療忍者になりたかったと自らのキャリアを嘆きたくもなる。
「火影さま」
「はい、なんでしょう」
「私の名前は、うずまきサクラです」
「ふーん、そうなんだー」
 ペンをくるくる手で回しながら、ナルトはつーんとした態度を崩さない。居場所をすっかりなくしているシカマルに、「ちょっとあっち向いてて」と耳打ちすると、サクラはずんずんと執務机に歩み寄り、ナルトからペンを引ったくる。そして椅子に座ったナルトを押しのけて書類と向き合い、お馴染みの訂正線を記してから、ひときわ大きな字で「うずまき」と書き付けると、ナルトのふてくされた顔をがしっと掴んで唇を奪った。思わぬ行動に目を丸くして身体を反らすナルトだが、サクラは離すどころかますます強引に唇をくっつける。やがてナルトは身体の強張りを解き、サクラの頬に手を当てて唇を迎え入れた。
「……訂正印、必要ですよね?」
 どちらからともなく唇を離すと、サクラは強気の態度でそう問いかける。
「あ、うん、そうね、必要だね」
「では、手直しをして参りますので、今しばらくお待ちください」
 サクラはすぐ目の前に置かれた書類の束をひったくると、執務机の前まで移動し、火影に向かって深々と一礼する。
「それでは失礼します」
 部屋を出る際、腕を組みをしながら律儀に身体ごと背を向けているシカマルに「ありがと」と声をかけてから、ドアノブを掴む。パタンと扉を閉じると、そこに背を預けて、ふうと一息。
「あー、焦ったー……」
 こんな手は、何度も使えない。一回こっきりだ。いい加減、自分も自覚しなければならない。言うことを聞かない右手をぶんぶんと振ってから、ぐっと握り、うずまきサクラ、うずまきサクラ、と念仏のように唱えながら、サクラは自分の執務室へと戻っていった。




2017/2/14