ほくろ



ほくろ




 9月15日があっという間に過ぎようとしている火影の執務室で、カカシは普段から眠そうな目をさらに垂れ下げて書類に向かっていた。蛍光灯の一部が寿命なのか、先ほどからうっすらとチカチカ瞬いている。眠気覚ましにコーヒーを淹れてくれる部下は、もうとっくに帰らせていた。自分で給湯室に行けばいいのだが、三日も寝ずに書類に向かっていると何もかもが億劫になって、椅子から立ち上がるのさえ嫌がる始末だった。
 そういや五代目も、就任直後はこんな感じだったな。
 カカシは、もう何十件目かわからなくなっている案件をまたひとつ整理して、処理済の箱に書類の束をぼすんと入れる。要処理案件と処理済の書類は同じぐらいの量で、仮眠を取るタイミングが難しい。この調子だと、あと三時間が目安だろうか。そう決めた時、コン、コンと執務室のドアを叩く音がした。
「火影さま、よろしいでしょうか」
 それは聞きなれた元部下の声で、ふっと肩の力が緩むのがわかった。大戦後は野戦病院と化していた木ノ葉病院の機能を通常に回復させるために、今は全力で奔走している。
「はいはい、どーぞ」
 声を出すのは、四時間ぶりだった。口布越しの声は乾いていて、自分がくたびれきっているのだとわかる。じっと身を潜めたり、ひたすら動き続けたりという任務に慣れてしまった身体を書類仕事専用の身体に切り替えるには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「……遅くにごめんなさい。どうしても、今日中に決裁印が必要で……」
 申し訳なさそうにしているサクラを、目の動きだけで執務机に招き寄せる。
「これ、なんだけど」
「うん、すぐ見るから」
 火影とその部下。その関係に変わりはないが、さすがに深夜二人きりだと、慣れない態度を気取るのも馬鹿馬鹿しい。カカシもサクラも、いつも通りの距離感を保っていた。
「あ、その前に、ちょっと説明だけ、いい?」
 目を伏せることで答えると、サクラは書類にまつわる注意事項を語りはじめる。サクラも疲れているのだろう、抑揚のないぼんやりとした声は、なんだか子守唄のようにカカシの耳に届く。すうっと意識が途切れるまでには、さして時間がかからなかった。
 あ、寝てる。微動だにしなくなったカカシを前に、すぐに気づいたサクラは困ったように息を吐くと、執務机に歩み寄り、カカシの口布をするりと下ろしてほくろの部分にそっと唇を落とした。労わり半分、いたずら半分。そんな所業だったのだが、思いもよらぬ感触にカカシがビクッと身体を揺らした結果、二人の唇が触れ合ってしまう。すぐに唇は離れるものの、お互いが目をまん丸に見開いて、動けない。すまん、と口にしかけたカカシだが、立ち直りが早かったのはサクラの方だった。
「ま、いっか。誕生日プレゼント。目、覚めたでしょ?」
 軽くウィンクさえしてみせるその余裕ぶりに、カカシは曖昧に笑うしかなかった。
「で、説明の続きね。注釈はちゃんとついてるんだけど……」
 ばっちりと冴えてしまった頭は、今度こそサクラの説明を解そうとする。ただ、どうにも気まずくて、ペンをくるくると回したり、朱肉の上に置いた決裁印をぐりぐりいじったりと、落ち着きがない。そんなカカシをよそに、サクラは何食わぬ顔で訥々と説明を続ける。
「じゃ、お仕事がんばってね」
 サクラは決裁済の書類をひらひらと振って、執務室を出て行く。ガチャリと扉が閉じると、カカシは天を仰いで、片手で目元を覆い、はーっと深く息を吐いた。唇には、感触が、はっきりと残っている。
「……参った」
 一人残されたカカシは、そう呟くしかなかった。



2016/9/16