朧月



朧月




(注)「陽光」の夜の話




 夜の9時を回った頃に、男の部屋を訪ねる。それはデートと言うべきだろうかと考えながら、サクラは玄関扉の前に立った。ノックをしようと手を持ち上げるのだが、扉の横には立派な呼び出しブザーが設置されている。ナルトが昔住んでいたアパートには呼び出しブザーなんてものはなくて、いつも大きめにノック音を響かせてから、「ナルトー!いるのー!」と扉に声をぶつけていた。同じことをしてみようかな、と一瞬だけ思ったが、いい大人なんだからとブザーに指をかざす。しかし、ためらいを残しているため、なかなか押すことができなかった。
 その日、サクラは定時あがりで、ここに足を運ぶかどうか、部屋の中で二時間考えた。サクラが執務室で書類仕事をしていると、その窓からひらりとナルトが現れるのは、さして珍しいことではない。実のある話をするわけでもなく、休憩がてらに顔を出しているのだと最初のうちは思っていた。ただ、いつからだったろう、それは別れ際に多かった気がするが、互いの心の柔らかな部分がぴたりと吸いつくように合わさる瞬間があるのをサクラは感じていた。旧来の間柄だからという考え方もあるのだろうが、どう考えても他の同期とはそんな感覚は共有できない。
 ナルトはいったい、どんな顔をした春野サクラを愛しているのだろう。少女期にデートを申し込まれた頃の自分とは、ずいぶんと変わってしまったし、幼い時分から抱えていた理想を膨らませるには十分すぎるほど時間が経っている。求めている顔とは違う自分、つまり「女の部分」を差し出してしまうと、すぐに関係が破綻してしまいそうで、儚さがどうしても拭えない。
 ブザーから指を離して、一歩後ろに引く。すると扉が音もなく開き、肩をぐっと強く抱かれた。扉が閉まると、ナルトの息遣いをすぐ側に感じる。
「ここまで来ておいて、逃げるなよ」
「……迷うぐらいは、させて」
 服越しに体温を感じられるほど、二人の距離は近かった。そういう振る舞いを何のわだかまりもなく許せてしまう自分を見つけて、サクラはまた怖気づく。「いつも叱ってくれるサクラちゃん」を表に出して、「よして」と避けるべきか。
 ナルトは、明らかに逡巡しているサクラから身を引くと、背中をトンと優しく押して、部屋の中へ入るよう促した。
「ごはん、また一楽?」
「んー?」
「……そうやって、すぐ誤魔化すんだから」
「これからデートだと思うと緊張しちまって、ラーメンぐらいしか喉が通らなかったんだよ」
「嘘ばっかり」
 靴を脱ぐとさっそく説教モードに入りかけるが、部屋の綺麗さ、いや、素っ気無さとでも言おうか、そちらに気を取られた。その昔、任務の呼び出しに部屋を訪れた時は、脱ぎ散らかした服があちこちに散乱していたものだが、床には雑誌ひとつも置かれていない。それどころか鉢植えさえ見当たらなかった。生活の匂いが、限界まで削られている。身の置き場所をなくしたわけでもないのに、人が生きている気配がまったくない。これではまるで、仮宿だ。
「鉢植えは?」
「今は、ちょっと外に置いてあるだけ」
「どうして?」
「大事にしてた木、枯らしちゃってさ。それから、なんとなく」
「……一言、相談してくれてもよかったのに。水ぐらいなら遣れるわよ?」
「それは、合鍵欲しいってこと?」
「ち、ちが……!」
「嘘、冗談。でも、気にかけてくれて、ありがとな。嬉しかった」
 気まずそうに髪を耳にかければ、ナルトはサクラとの距離を詰めて、その肩に手を置く。身体はたやすく引き寄せられて、あまりにも自然な流れで身体を抱かれた。女慣れしているような立ち振る舞いが、サクラは気に食わなかった。
「……そういうの、どこで覚えるのよ」
 サクラは顔を伏せて、おもしろくなさそうな声を出す。
「オレも、たいがい必死だから、どうにかこうにか繕ってんだ。そんだけの話」
 そう言ってこめかみに口付けまでされるのだから、どこかの優男に口説かれているような気分になる。
「こういうの、やだ?」
 ナルトはサクラの顔をそっと持ち上げると、柔らかな視線を注いでくる。そんな目で見つめられるのなんて、もっと慣れていない。目を逸らすこともできず、近づいてくる唇を、抗うことなく受け入れる。触れるだけのキスは、幼年期の自分たちでも交わせるくらい軽いもので、無邪気さの延長上にあった。知らない領域に連れて行かれそうな不安は、一瞬で過ぎ去った。
「……まずは、抱き合うことからはじめたい」
 サクラはナルトの視線を避けて、その首に両腕を回す。まだ、女の顔はナルトに見せられない。その準備には、もう少しだけ時間がかかる。
「抱きつかれたら、脱がしたくなる」
「そういうのは、もっと後」
「今日は?」
 返答に詰まり、首に回した両腕の力が緩む。後ずさりしかけたところを、逃がすものかとナルトが抱き寄せた。
「そういうつもりで呼んだわけじゃない。けど、こんな風に抱きつかれたら、ダメだ。帰したくないし、違う意味で抱き合いたい。サクラちゃんに、嘘は言えない」
 思いがけず熱情をぶつけられて、唇が重なる。きっとまた、触れ合うだけのキスだろう。そう思っていたサクラだが、ナルトは啄ばむ仕草を加えて、上唇をつっと舌でなぞった。唇を食むのを止められないのか、まだ、もうちょっと、とその所作で伝える。
 忍服を脱がそうというナルトの手つきは、昼間の仕事部屋で羽織を取り払われた時の官能的なイメージと重なった。そこで、はじめてサクラは気づく。きっとナルトも二人でいる時は、男の部分を意図的に隠していた。引かれぬよう、嫌われぬよう、細心の注意を払ってサクラの側に留まっていたのだとしたら。
 もはや戸惑がまぎれる隙はなく、ナルトの頬を挟むと、今度はサクラの方から唇に吸いつき、湿った音を立てた後、スッと身を引く。至近距離で目を合わせると、ナルトはごくりと喉を鳴らし、それだけじゃ足りないんだと瞳だけで雄弁に語った。
「……誘うような真似されたら、さすがに勘違いする。サクラちゃんは、どうしたい?」
 鉄の如き自制心を有している火影が、こんなにもつまらない女一人に振り回されて、焦がれた表情を見せている。サクラは、愛されている実感というものを、強く味わっていた。そして、注がれる続ける熱視線に、確信する。求められているのは、女になった春野サクラだ。
「もっと抱き合いたい」
「それは、どういう意味で?」
 もどかしげなナルトの問いかけに、その唇を塞ぐことで返事をした。
「……このまま、ベッドに行こう」
 軽々と抱きかかえられて、身体を運ばれる。欲望をあらわにしたのは、ナルトが先だった。サクラはそれが嬉しくて、がっしりとした首筋に口付ける。感じるものがあったのか、ふっと息をもらす様が愛しい。顎先から耳にかけて唇を軽く押し当てる。素直な気持ちを明け渡す代わりに、自分を愛して欲しかった。
 寝室の明かりが消えると、朧月から靄が晴れるように、互いの感情の輪郭がくっきりと浮かぶ。それを隠さずさらけ出すことで、表面的なものではなく、もっと深い場所が繋がるような気がした。




2015/10/10