あなたへ



あなたへ




 身じろぎをしたのは、これで幾度目だろうか。いつもならすんなりと寝入るはずなのに、この日に限っては、一向に眠気がやってこなかった。目をあけると、濃い藍色のカーテンが見える。もっと凝ったデザインのものが欲しかったのだが、急に入った任務の都合で、選ぶ暇もなかった。掛かっているのは、間に合わせの特価品だ。
「寝れないの?」
 布団の擦れる音に続いて、背後から声がかかる。サクラが寝入るまで待っているつもりだったらしく、心配そうな声色だった。
「私、緊張してる。きっと、里の中に長く居すぎたのね」
 久しぶりに月単位で里を離れるSランク任務が入り、サクラは明日の朝に出発する予定だった。今はナルトと二人、肌を合わせることもなく、ただじっと布団に包まっている。
 修業を怠っていたわけではないし、病院勤めでハードな生活をしていたおかげで、医療の腕は劇的に向上している。すっかり追い越されたちゃった、と肩をすくめて姉弟子に言われたが、綱手に師事を仰いでいた時間も医療に関わる経験年数もサクラよりずっとずっと長い。あの時は、とんだ謙遜だと慌てふためいた。
「実戦から長く離れるとさ、勘が鈍ってやしねーかって不安になんだよな。オレも実は、どっかでビビってた」
 ナルトが言外に匂わせたのは、自来也との修業の旅のこと。中忍試験を受けた上に、師匠から里外任務を言い渡されたこともあるサクラとは違って、ナルトが里の忍として任務につく機会はなかった。
「そんな風には全然見えなかったけどね」
「虚勢張るのは、昔から得意だったからな」
「そのわり、護衛任務に文句言ってたじゃない」
「護衛じゃ、腕試しなんかできねーってばよ。オレは、早く実戦経験を積みたかったの」
 ナルトの腕が、サクラの身体に巻きつく。服越しにも感じるあたたかい温度が、尖り気味な心の芯を丸くしてくれる。もしかして、ナルトが身体に触れようともしなかったのが、不安を助長させる原因だったのかもしれない。腰のあたりに置かれた手に、指を滑らせる。
「装備の点検、何度もしちゃった」
「そんなもんだよ」
「着替えってどれくらいいるんだっけ?って、忘れかけてた」
「隙をついて、洗っちまえばいい」
「すぐには乾かないわよ」
「そんなの、動いてりゃ乾くってばよ」
 何が問題なのかもわかっていない声で断言されると、それもそうね、と笑うしかない。兵糧丸は、武器ポーチのポケットの中。ベストの巻物ポーチには、全属性の発動術がひとつずつ。起爆札はフェイクを紛れさせて、光玉は持続時間が一番高いものを。何度確認したかわからない点検事項を一通りなぞる。
 こうして忘れ物はないかと巡らせていると、アカデミーの遠足実習に行く前の日みたいな気分になってくる。忘れ物ばかりでイルカ先生を困らせたのが、後ろの男だ。
「……こっちの方がいい」
 サクラは身体をくるりと反転させると、ナルトの身体に真正面から抱きついた。
「顔、見して」
 腕の中に収まったまま、サクラは顔を持ち上げる。
「大丈夫、凛々しいくノ一の顔だ」
「そう?」
「うん。誰よりも格好いい」
 くすりと笑ってから軽くキスをして、ゆるく抱き合う。ようやくやってきたまどろみの中、サクラはひとつの気がかりについて思いを馳せる。
 任務に出る際、親しい人間にあてた遺書を里に預けるのが木ノ葉の通例だった。両親への遺書は、下忍時代に記したまま、直すこともなく里に預けている。その時の覚悟や決意を一字一句違わず伝えるのがふさわしいと思っている。今回の任務を請け負う時、もう一通、遺書を残そうかと迷った。将来を誓い合う関係になったナルトに宛てたものは、まだ何も預けていない。残す言葉が、思い当たらなかった。
『あなたのことを、愛しています』
 そんなのは、相手をがんじがらめにする呪いの言葉にしか聞こえない。残される方がつらいだけだ。
『私のことは忘れて、違う誰かを愛してください』
 これは、相手を思いやっているような錯覚を覚えるが、サクラにしてみれば、押し付けがましいただの独りよがりに映った。
『私を、あなたの片隅に置かせてください』
 ふと思いついたフレーズは、言葉では表現できない己の心情に一番近いように思えた。時々、ほんの一瞬でも、好きだったなと不意に思い出してもらえるのなら、今まで積み重ねてきた絆が報われるような気もする。
 おそらく遺書とは、自分のためにあるのだろう。そう考えると、選択肢が少しだけ広がった。サクラの記憶に残る一番鮮烈なナルトとの思い出は、桜が咲き誇る季節、少し赤らんだ顔を必死に引き締めて想いを告げてきた時のことだ。桜吹雪の向こうに見え隠れするあなたの姿を、ずっと胸に抱いてきました。そんな文章が綴られている手紙を思い浮かべてみるが、なぜだか陳腐になる。言葉なんて、きっと、いらない。
 あの時、自分たちの真上にあった桜の木を探して、その花びらを栞にしてみよう。ナルトにならば、その意図が伝わるはず。残す文字は、「ナルトへ」という表書きだけ。我侭だとは承知しているが、違う誰かを見つけて生きるその傍らに、桜の栞を置いてもらえたら嬉しい。
 身体を摺り寄せると、ナルトはサクラの肩を抱いてくれた。窮屈さのない、ナルトの存在を一番感じられる優しい力で。それを一身に受けながら、サクラは眠りに落ちた。




2015/4/20