その昼



その昼




(注)「その夜」の後、ナルトの部屋で夜を過ごした二人。別バージョン。




 名残惜しそうな顔で玄関先に立つナルトの気配を感じながら、サクラは靴を履く。バッグの中身を広げた覚えはないので、忘れ物はないはずだった。
「今日、時間ある?」
「午後からなら」
「サクラちゃんの部屋、行ってもいい?」
 サクラは即座に返答ができない。外で会えばいいのに、どうして自分の部屋なのか。しかも、ナルトがアパートの前までサクラを送ることはあっても、部屋の中になど入れたことはない。
「大事な話があるんだ」
「……えっと」
「外じゃなくて、この部屋でもなくて、サクラちゃんの部屋がいい。話が終わったら、帰るからさ」
 照れた素振りもなく、下心も感じない。それどころか、その声色には深刻さが滲んでいた。
「お昼は?」
「食ってから行く」
「だったら、2時でどう?」
「ん。わかった」
 ナルトのアパートを出ると、病院に向かって歩き出した。今日は休暇なのだが、どうしても片付けたい案件があって、早出でやっつけようと思ったのだ。11時前には切りあがる算段で、遅くても昼過ぎには上がれるはず。どんな話があるのか気にはなるけれども、とにかく今は仕事だ。頭の中からその件を追いやって、今日の段取りを考えることに専念した。




 行きがけに作り上げた段取りを忠実にこなし、弁当を買って部屋に戻ったのは、1時半だった。昼を済ませた後は、軽く部屋の片づけをして、2時をやや過ぎた頃、玄関の呼び鈴が鳴った。
 扉を開けると、ナルトがビニール袋を手にぶら下げて立っていた。朝の別れ際は、どこか打ちひしがれた影が顔に残っていたが、今は生来の精悍さが戻っている。
「これ、土産」
 差し出されたビニール袋の中に収まっていたのは、大振りな紙製の箱だった。ホールケーキでも入っているのかと、サクラは目を瞬かせる。
「……ちょっと多くない?」
「日持ちがするのも、入ってる。仕事の合間に、ゆっくり食べて」
「じゃあ、遠慮なく」
 ナルトが手を離すと、ずしりと重みが伝わる。お菓子でこの重さは、なかなか感じられないと思うのだが、一体何が入っているのか。
「入っていい?」
「どうぞ」
 狭い玄関に入ると、ナルトはサンダルを脱いで、ちょこんとそれを揃えた。よそ行きの作法なんて、いつの間に覚えたのだろう。波の国でタヅナの世話になった時は、「ご飯の匂いがするってばよ!」とサンダルを脱ぎ捨てたまま家の中に入っていった。そんな子供も、ようやく大人になったということだ。
 サクラの部屋の真ん中にはちゃぶ台が置かれていて、それを挟んだ格好で座布団が二枚敷かれている。いつもは一枚しか敷いていないのだが、ナルトが部屋に来るのがわかっていたので、クローゼットから取り出しておいた。
「そっち、座って」
 いつもしまいっぱなしで中綿がまだ新しい座布団に、ナルトを座らせる。お茶でも用意しようと台所に向かおうとするが、ナルトがそれを引き止めた。
「サクラちゃん」
 改まった声で名前を呼ばれて、振り返る。ナルトは座布団の上にきっちりと正座をして、がばりと深く頭を下げた。
「ありがとう!」
 サクラは足を止めて、その場に膝を折る。サクラの戸惑いを察知しているのか、ナルトは頭を下げた格好のまま、話を続けた。
「オレは昨日の夜、本音を言っちまえば、一人になりたくなかった。誰か……いや、サクラちゃんに居て欲しかった。だから、オレの傍にいてくれて、ありがとう」
「……律儀ねぇ」
 ナルトの真摯な態度が少しだけくすぐったくて、サクラは笑った。一拍置いて、ナルトは勢いよく顔を持ち上げる。その表情は、見慣れたイタズラ小僧ではなく、任務中の忍の顔でもなかった。我知らず、ドキリと胸が鳴る。
「オレは曖昧なままで終わらせたくない。今日ここに来たのは、サクラちゃんに伝えたいことがあるからだよ」
 ナルトが続けて口を開こうとすれば、サクラは間を崩すように、慌てて立ち上がった。
「ちょっと待って、お茶ぐらい淹れるから」
 ナルトに視線を移すことなく、台所に駆け寄って、上の棚から湯のみを二つ取る。腰を曲げて台所下の収納から薬缶を取り出すと、その蓋を開けた。蛇口を捻って湯のみに水を満たし、薬缶に注ぐ。それをもう一度繰り返して、薬缶の蓋を閉じ、火を入れる。湯が沸騰するまで、5分くらいか。まだ少し時間がある。状況を、整理したい。
 昨日、サクラはナルトの部屋で共に一夜を過ごした。互いの身体にしがみついて、心臓の鼓動を感じ取り、頬をくっつけて温もりを伝え合った。服に皺がついてしまうな、とサクラが気にしはじめた頃、その意図を察したかのように、ナルトはサクラの着ている服に手をかけた。そういうことが起こり得るのを承知の上で部屋に入ったのだから、サクラは抵抗をしなかった。ナルトは脱がせた服をそっと床に落とすと、剥き出しの肩に顔を埋めて、サクラの素肌を抱いた。それだけだった。極めて紳士的な行動だと感じる一方、私はこの人に女として必要されてないんだろうな、とサクラは思った。サクラもまた、ナルトを男として見ない時がしばしばある。そういう意味では、お互い様だった。
 ナルトのことは大事だ。そこに揺らぎは一切ない。あまりに大事すぎて、性差など本当にどうでもよくなる。下着姿で抱き合っても何も起こらないのならば、ナルトに関して言えば、かけがえのない相棒として傍に居続けるという選択肢が一番合っているのかもしれない。
 薬缶の口から、シュウシュウと湯気が漏れはじめる。火を止めると、戸棚から茶筒と急須を取り出して、茶の支度に取り掛かった。形も高さも違う湯のみにそれぞれお茶を淹れて、くるりと後ろを向く。ナルトは正座をしたまま、ちゃぶ台の端をじっと見ていた。
「……はい、お茶。熱いわよ」
「うん」
 ふうと息を吹きかけながら、淹れたてのお茶を向かい合わせで飲む。しばらくそのまま黙っていたが、ナルトはちらちらとサクラに視線を寄越しはじめた。どう切り出したものかと悩んでいるらしい。話の腰を勝手に折ってしまったのは、サクラだ。そこは引き受けようと、先に口を開く。
「話、あるの?」
「あ、うん」
 ナルトは湯のみをちゃぶ台に置くと、尻のポケットをごそごそといじり、折り畳まれた紙片を取り出した。
「午前中、不動産屋に行ってきたんだってばよ。ここね、ベランダが広くて二階の角部屋。日当たり抜群だって。新婚向けの物件みたい」
 広げたのは、部屋の見取り図だった。ちゃぶ台の真ん中にそれを置くと、サクラが見やすいようにと上下をくるりと反転させる。最初に飛び込んできたのは、「玄関広々!」というマーカーの文字だった。
「良さそうだったから部屋の中を見せてもらったんだけど、前の人は大事に使ってたみたいで、水回りも壁紙も綺麗だった。床に細かい傷があったのは、まあ仕方ないかなって。たぶん子供がいたんじゃないのかなあ。玄関に背の高い靴箱があるから二人分は余裕で仕舞えるよ。収納はね、二間分の押入れがあるから。奥行きは……うん、ここに書いてある。一間はお互いの装備で埋まっちゃうけど、もう一間はサクラちゃんが使えばいいよ。風呂場はざっと見た感じ、カビは生えてなかった。足を伸ばして風呂に入るのは難しいけど、間違いなくウチよりは広い。でね、台所なんだけど、」
「ごめん、ちょっといい?」
「ん?」
 いつまで経っても終わりそうにない説明をサクラが一旦遮ると、ナルトはきょとんとした声を出して、顔を持ち上げた。
「なんでいきなり間取りの説明になってんの?」
「あ、そか。違ぇよ、まだ話の途中だったんだ……」
 いかにも失敗したという声でそう言うと、手のひらで額をごしごしと擦る。柄にもなく緊張をしているらしい。その顔は、うっすらと赤い。
「一緒に、暮らしたいなって」
「誰が?」
「オレが」
「……誰と?」
「サクラちゃんと」
 他に誰がいるんだよ、と言わんばかりの表情で、ナルトが言う。
「……大きな部屋を一緒に借りて、光熱費と家賃を浮かそう、とか?」
「んだよ、それ!そういう発想、どっから出て来るんだってばよ!オレもサクラちゃんも単なる同居で済む歳じゃないでしょ!?」
「あ、あんたの話が飛びすぎるのよ!そりゃ昨日は一晩あんたの家にいたわよ?だけど別に何があったわけでもないし……」
 サクラがやや声をすぼめて言えば、目の前にあるナルトの顔色が、はっきりと変わった。
「え……ちょっと……冗談だろ!?サクラちゃん覚えてないのかよッ!まさか寝てたとか!?嘘だろぉ!?オレは信じねーぞ!」
 あいにくと、サクラの記憶はまっさらだ。まさかこの野郎、何かしやがったか。合意の上ならともかく、寝ている間に手を出したとなれば、話は別だ。ちゃぶ台越しにナルトの胸倉を引っつかんで、サクラは思い切り凄む。
「あんた、私が寝てる間に何したのよ」
「何もしてねぇって!ただ、その、」
 途端に視線を泳がせて言いよどむナルトを前に、サクラもただならぬものを感じる。寝入りばなのぼやけた頭に、どうやらナルトは何かを吹き込んできたらしい。いや、誤魔化すのはやめよう。おそらく、愛の告白というやつだ。
「あー……なんというかこう、簡単に言うとね?オレがサクラちゃんのことを今までどんだけ大切に思ってきたかっていうことを……こう、つらつらぁ〜っと……ね?うあー!ダメだぁ!あのテンションに戻してもう一度言うなんて無理だってばよ!オレにはできねぇ!」
 顔を真っ赤にして頭を抱えるナルトだが、その胸倉を掴んだままのサクラは、襟が伸び切るほどの力でナルトを引っ張った。ちゃぶ台が派手にゴトンと揺れて、湯のみの中に残っていたお茶が飛沫を上げる。唇が、重なった。その感触は、すでに知っている。ナルトは自分の身に起きたことを理解できないまま息を呑んでいるので、サクラからしてみれば、あの時と似たようなものだった。ただ、唇を離す間際、ふっとナルトの息がかかり、情緒もへったくれもない蘇生術とはやはり違うのだと、肌で感じた。そこでようやくサクラの中に確信が芽生える。
 相手が男でも女でもどっちでもいい。そんなのって、最上の愛だろう。二人の間には親密な情が確かに存在していて、断ち切れぬ絆で結ばれている。生涯を共にする決断に何を悩むことがあるだろう。道は、悠然と拓けている。
「端折ったりしないで。今、聞かせて」
 しばし見詰め合った後、ナルトは胡坐を崩して立ち上がる。一瞬、逃げるのかとその背中を追ったサクラだが、ナルトはそのままベッドに移動し、ちらりと後ろを振り返ると、ちょいちょいと手招きをした。
「……とりあえず、状況を再現させてから」
 サクラは立ち上がると、とことこと歩いてナルトの隣に立ち、何のためらいもなく着ている服に手をかけた。その仕草に、ナルトは目をこれ以上なく見開いて、慌てふためく。
「ふ、服は!そのまま……で、いい……」
 尻すぼみの言葉は喉の奥にすうっと吸い込まれて、探りながら顔を近づけると、再び唇が重なった。一度離すと、額や鼻先を擦りつけて、また吸い付く。
「何から話せばいいのか、わかんなくなる」
「いのから教わった記憶退行術、かけてみる?……ん、何を言ったか、思い出せるわよ」
「……どうしても、聞きたいわけだ」
 どうやら昨晩はずいぶんと理性が働いていたらしい。会話の隙をついてナルトはサクラの唇を啄ばみ、舌を絡ませてくる。そうか、自分は愛されたかったのだ。上唇をなぞる舌先の熱を感じながら、サクラは理解する。ナルトが自分に愛を囁いたのだと知った瞬間に、心のフォーカスがナルトに向けて一気に絞られて、衝動のままに唇を重ねれば、熱情が生まれた。思い描いていた美しい友情エンドは、遥か彼方へとすっ飛んで行ってしまって、おそらく二度と見つからない。
「同じ言葉を、聞かせて欲しいの」
「長いよ?」
「まだ、夕方にもなってないわよ」
 たとえどんな道を辿ったとしても、ナルトはずっと昔から男で、サクラは紛れもなく女だった。
 それを今から、二人は知る。




2015/4/5