背中



背中




 家に帰って玄関の戸を開けると、珍しいことに、こちらに向かってくる気配がなかった。いつもだったら、どんなにくたびれていても、「お疲れ様」と「おかりなさい」は欠かさず伝えに来てくれるのだが、今日はどうしたのだろう。上がり框に腰を落として、サンダルについた土埃を払いながら、ナルトは首を傾げた。
「ただいまー。帰ったよー」
 くるりと首を後ろに向けて、ためしに声を出してみる。しかし廊下の奥からは、衣擦れひとつ聞こえてこなかった。窓から明かりが漏れているのは確認しているし、いよいよナルトは心配になる。もしも倒れていたらどうしよう。サンダルを乱暴に脱いで、どたどたと派手な足音と共にリビングへ飛び込む。
 サクラは、ソファーの前で座り込んでいた。伊達に忍者をやっていないので、意識があるかどうかなんて、一目見ればわかる。きっと本でも読んでいるのだろう。ナルトは、ホッと一息ついて、玄関先に放ったままの背嚢を取りに廊下へ戻った。そのまま廊下で荷ほどきをして、汚れ物を洗濯機に運ぶ。脇にはすでにナルトの着替えが一通り用意されていたので、これ幸いにと風呂に入ることにした。熱いシャワーで汗を流し、きちんと洗ってある部屋着に腕を通すと、任務の疲れがすっかり取れる。これを言うと、まだ若い証拠だとカカシは笑う。寝ても治らない病気や癒されない疲れを、ナルトはまだ知らなかった。
 髪を乾かし、ちょっとゆっくりしようかとリビングに行く。すると、サクラは帰ってきた時と同じ格好をしていた。寸分違わず、ピクリとも動いていない。ピンと伸びた背筋に、顔をわずかにうつむけている。まさか、寝ているとか?慌てて近寄って真正面から顔を覗き込むと、サクラは無心で刺繍をしていた。ちくちく、ちくちく。何の布かわからないが、色とりどりの花がすでにいくつも散っていて、これ以上どこを刺すんだろうと疑問に思う。
「……おかえり」
 その声は、常よりぐんとテンションが低い。間違いなく、怒っている時の声色だった。何か、しでかしただろうか。ナルトは顔を青くして、あれだろうか、これもいけなかった、と自分の所業を見つめなおす。
「風呂掃除、明日やっとくよ!」
「そう?じゃあ、お願い」
「あと、洗濯機も回しとくから!最近、干すの任せっぱなしだったもんな!面倒だったろ?」
「別に、気にしてない」
「あ、あとね、今日は風呂場の換気扇、ちゃんと回したよ?」
「ふうん、そう」
 ナルトは、サクラの眉間に人差し指をあてて、くしゃっと皺が寄っている部分をぐりぐりと押す。
「ねえ、なんで怒ってんの?」
 思い当たる節は、もうない。降参だ。理由がわからないのに謝るなんて軽率な真似はできない。適当にごまかしても、後で喧嘩になるだけなのは経験済みだった。ナルトは眉尻を下げて、サクラの顔を覗き込む。
「オレ、何かした?」
「ねえ、ナルト」
「お、おう」
「私はよくやってるって、言ってみて」
「へ?」
「サクラちゃんは、よくやってる。はい、どうぞ」
 刺繍針を布の上に置くと、サクラは手のひらをナルトに差し出して、その言葉を繰り返すよう求めた。
「サクラちゃんは、よくやってる」
「私は、先のことを見据えてやっているだけ」
「サクラちゃんは、先のことをミスエテやってるだけ」
 ナルトは眉間から指を離し、おうむ返しをする。
「細かいこと気にしすぎとか、スケジュールの切り方が厳しいとか、書類の提出期限に容赦がないとか、」
「……ごめん、もっかい言って。ぜんぜん覚えらんない」
 ナルトが匙を投げると、サクラは天井に顔を向けて、はーっと深く息を吐いた。
「何だか、疲れちゃった」
「そっか」
 サクラの髪を混ぜ返すと、気持ちが緩んだのか、ちょっと泣きそうな顔になる。
 最近、サクラが医療班を取り仕切る立場に昇進し、前任者だったシズネの穴を埋めるべく必死になっているのを、ナルトはよく知っていた。庇ってくれる上司がいないというのは、きっと大きな負担なのだろう。いくらサクラが優秀だからといって、現場のトップにいきなり抜擢されたら戸惑いもあるだろうし、慣れない仕事に重圧を感じるはずだ。
「刺繍、ずっとやってたの?」
「……本読んでも、集中できなくて」
 サクラはナルトの肩に額を預けて、小さくこぼした。外で泣き言を一切漏らさないのは立派だが、こういう時は頼って欲しい。サクラの身体を包むように、抱きしめる。
「サクラちゃんは、最高の医療忍者だよ。これから、里を引っ張っていく人だ。頑張ってるなって、オレはいつも思ってる。みんな、サクラちゃんを信用してるよ?」
 労わりの言葉を贈って、ぽんぽんと背中を叩いた。
「そうかな」
「そうだよ」
 しばらく背中を撫でた後、サクラの両肩に手を乗せて、まっすぐ視線を合わせる。
「オレが火影になった時、片腕になってくれる人だ」
 この発破は効いたらしい。風前の灯だった闘志が、瞳の奥で揺らめいた。
「待ってろ。オレはいつか必ず火影になる。その時に、絶対サクラちゃんの力が必要になるんだ。だから、サクラちゃんは里の柱を支えてくれ」
 ニカッと笑みを見せれば、サクラの表情は徐々に和らいでいく。口の動きだけで「ありがと」と言うのが、なんともサクラらしかった。
「しっかし、よく作ったなぁ、これ。すんごい細かいのばっか」
 布に散りばめられた刺繍を、ナルトは唖然とした表情で眺める。医療忍者になってから、サクラは刺繍の腕がものすごく上がった。皮膚を縫う練習をしたからだと本人は言うのだが、針と糸で花を作るのとはわけが違うとナルトは思う。きっと、どちらも素養があったのだ。
「何に使おうかしら」
「え?何に使うか考えてなかったの?」
「適当なハンカチ広げて、縫っちゃったのよ。これ、もしかしてアンタの?」
「……あ、オレんだ」
 一緒に暮らしているうちにどちらの持ち物なのかわからなくなっている物も多々ある。特にハンカチや手ぬぐいは、洗濯物を片付ける途中でいつの間にか入れ替わったりして、一種の共有状態になっていた。
「悪いことしちゃった。自分のだと思ってたから、嫌って言うほど針刺しちゃったわよ。これじゃ、外で使えないわ」
「オレ、使うよ?」
「えー、こんなに花がついてるのを?」
「だって、サクラちゃんが刺してくれたんだから、ご利益ありそう」
「……ご利益って、何それ」
「お守り代わりになるかなって」
「誰かに見られたら、笑われるわよ?」
「そんなの、笑わせときゃいいってばよ。怪我しない方がずっといいんだから」
 ナルトが適当な調子で返すと、サクラは、ぶはっと笑った。
「アンタには、似合わない」
「そうかなあ?」
 ナルトは、花の散らばったハンカチをサクラの手から奪うと、自分の顔の脇に掲げて、ニッと笑った。サクラは、ますます笑いが止まらない。ムスッとした顔よりも、こっちの方がずっとずっと可愛い。
「あとは、黄色い花もつけて欲しいかな」
「じゃあ、今作りかけてる花は、黄色にするね」
 そう言ってサクラは、うーんと伸びをする。いつからか知らないが、ずっとちくちく針を刺していたのだろう。肩と腰が心配だ。
「身体、揉んでやろうか」
「……なんか、やらしい」
「ええッ!今の、純度100%の厚意だよ!?」
「嘘よ。アンタ、任務帰りなんだから早く寝ないと。私もお風呂入ってくるわ」
 サクラは立ち上がり、ナルトの髪を軽く混ぜ返した。
「私が寝るの、待ってる?」
「うん、待ってる」
「じゃあ、さっさと入ってくるわ」
 サクラは軽やかな足取りでリビングを出て行った。残されたのは、黄色い花が咲く予定のハンカチが一枚。よく刺したものだと、改めて眺める。こんなに小さな花ばっかり刺しているから、あんなに背中が縮こまってしまうのだ。きっとそうに違いない。黄色い花は、どの花よりうんと大きくしてくれ、とお願いをしよう。
「どんな花になるのかな」
 柔らかな声で呟くと、ハンカチの表面をそっと撫でて、宝物を扱うような手つきで床に置いた。




2014/10/31