ダイニングテーブルに乗せた両腕の上に頭を預けて眠っていたサクラは、鼻を擽る香ばしい匂いに意識を揺り起こされ、まどろみの中から浮き上がった。書類整理の途中、少しだけ休もうとテーブルにうつ伏せたところまでは、記憶がある。そのまま寝てしまったのは、完全なる気の緩みだ。
「おー、起きたか」
「……すごく良い匂いがする」
 サクラはそう呟いて上体を持ち上げると、寝起きのぼやけた眼差しをナルトに向ける。ナルトはサクラの真向かいに座り、下部に小さな木箱のついたハンドルを、ぐるぐると回していた。時計回りに手は動き、そのたびに何かが砕けるような音がする。
「なあに、それ?」
「これね、コーヒーミルっていうんだって」
「もしかして、コーヒー豆を粉にするやつ?」
「そ。今日さ、骨董屋を覗いて世間話してきたんだけど、家でコーヒー飲むのが好きなんだって話したら、おっちゃんがそろそろ処分したいからって、タダ同然の値段で売ってくれた。他の客には内緒だぞ、だって」
 ナルトはそう言って、得意そうに笑った。最近ナルトは盆栽に興味を持ちはじめ、骨董屋で古い皿を眺めるのが新しい趣味になっていた。曰く、器が良いと見栄えがまるきり違うのだそうだ。
「おっちゃんに豆の量とか挽き方なんかは全部聞いてきたから、これできっちり二杯分。すげえよな。いつもと香りが全然ちげーってばよ」
 ハンドルをなおも回しながら、ナルトは鼻をひくつかせる。忍にとって、コーヒーは最大級の嗜好品と言ってもいい。里に滞在している間しか、味わえない。
「あんたは牛乳ガバガバいれちゃうんだから、風味もなにもないわよ。牛乳の匂いに消されちゃうじゃない」
「でも、サクラちゃんの隣にいると、香りを楽しめるってばよ?」
 ナルトは、牛乳を入れないとコーヒーが飲めない。淹れたての香りは好きなのに、舌が苦みを感じてしまってダメなのだそうだ。ちなみにサクラがコーヒーの味を覚えたのは、木ノ葉病院併設の研究室に異動してからのこと。昔は姉弟子が淹れてくれる緑茶を何より好んでいたのに、今ではすっかりコーヒー派に変わってしまった。というより、変えられてしまったと言ってもいい。サクラが所属する研究室には、気つけ代わりにとコーヒーメーカーが常備されていて、最初こそ飲みつけなかったのだが、毎日お世話になっているうちにほとんど中毒になってしまった。夜に飲んでも睡眠を阻害されることもなく、飲まないとかえって寝つきが悪くなるくらいだ。
 ナルトはそんなサクラと深い仲になった後、コーヒーの味を知った。反応は、想像通り。「これ、人の飲み物?」と言わんばかりに顔を顰めて、カップをそっとソーサーに置いた。しかし、サクラが持つカップから漂ってくる香りはとても魅力的だったようで、羨ましそうに見つめてくる。それならば、と少し濃い目のコーヒーを作って角砂糖ふたつに牛乳をたっぷりいれてみたら、大当たり。それがナルトの大好物になった。朝一番と夕飯後の腹がこなれた頃に、必ず飲んでいる。
「そろそろいいかなー。手ごたえが軽くなってきた」
「じゃあ、お湯、沸かすわね」
「ん、頼むってばよー」
 粉受けになってる木箱を引き抜く音がカタンと鳴り響き、香ばしい匂いが台所いっぱいに広がる。幸せの香りだ。豆から挽くと、こんな楽しみがあるのね、と薬缶を火にかけながらサクラは思う。沸かした湯の他に必要なのは、ドリッパーにグラスポットと、紙フィルター。台所下の収納から紙フィルターを取り出し、ドリッパーの上に広げた。
「これ、すっげえイイ匂い」
 引き抜いた木箱を手に持って、ナルトがガス台にやってくる。
「ほんとだ。いつもの粉と、香りが全然違う」
 木箱に収まっている粉末を紙フィルターに直接サッと移すと、ナルトは手持ち無沙汰な様子で流し台に寄りかかった。あとは湯が沸くのを待つばかり。流しの縁を掴んで薬缶を見つめているナルトの腕をくいっと引っ張る。顔がこちらを向くと、サクラは背伸びをして、軽くその唇を啄ばんだ。いいものを見つけてくれたお礼だ。
「なんだ、なんだ。誘ってんの?」
「お湯が沸くまでの時間だけね」
 途端に頬が緩まり、ナルトの顔が近づいた。昼下がりの口付けは、いつもより甘く感じる。もう少しこのままでもいいかな、と思うサクラだが、湯が沸騰しきってしまうと、コーヒーの味がうまく出ない。
「はい、終わり」
「え〜?」
 渋るナルトに背を向けて、サクラは煮立つ前に薬缶をコンロからおろし、挽いた粉の上にゆっくり円を描くように湯を注いでいく。湯の軌跡とサクラの手つきを交互に眺めながら、ナルトは背中に覆いかぶさり、サクラの腰にゆるく腕を巻いた。こんな甘い雰囲気を漂わせながら淹れたコーヒーは、きっと絶品に違いない。
「淹れ終わるまで、じっとしててね。コーヒーが台無しになっちゃう」
 濃い液体がフィルターの底から抽出され、ぽたりぽたりとグラスポットへと落ちていく。サクラは焦らず丁寧に湯を注ぎ、フィルターの中の湯が減ると、次を注ぐ。その作業を、丹念に繰り返した。ナルトはといえば、サクラのこめかみに頬を摺り寄せて、すんすんと鼻を動かしている。この男はどうも動物的なところがあって、サクラの首筋に顔を埋めては、「サクラちゃんの匂いだってばよ」と愛おしそうに呟いたりする。しかし今はコーヒーの香りにすべてかき消されているだろう。いくらでも鼻を動かせばいい。
「書類の整理中に寝ちゃうぐらいなら、ソファでイチャイチャしようぜ」
「……それはないなー」
「なんでよ」
「眠気覚ましにコーヒー豆を挽いてくれたわけでしょ?ホント、優しいわよね。涙が出ちゃう」
 そう言っているわりに、サクラの口元には笑みが浮かんでいる。ナルトはサクラの肩に顎を乗せて、負けじとばかりに反論を開始した。
「目ぇ覚ましてから改めてイチャイチャしたいなーっていうこっちの意図は汲んでくれないわけ?」
「私の機嫌を最優先にするはずだから、それはない」
「すげえ自信」
 声をくぐもらせて、ナルトは笑う。二杯分の湯はグラスポットの中にすべて落とされ、コーヒーはできあがり。いつも使っているカップにそれぞれ注ぐと、サクラはソーサーを両手にダイニングテーブルを素通りし、奥のソファに移動した。
「お、イチャイチャ解禁?」
 ナルトが角砂糖の入った瓶を抱えてソファに近寄ってくる。牛乳は、用意していない。豆から挽いたコーヒーとは、どんな味か。それを確かめたいのだろう。いい心がけだ。ソファに深々と身体を沈めると、サクラは口を開いた。
「その気にさせてくれるなら、考えなくもない、かな」
 ソファの上部に肘をつき、やや顔を傾けてナルトを見る。試すようなその視線に、ナルトは口端をつり上げた。
「じゃあ決まり。だって、オレの得意技だ」
「それ、初耳よ」




2014/08/04