宿



宿




 ざぶりと派手な水音を立てて湯から出ると、ほんの少しだけ足元がふらついた。湯に浸かっている時は気にも留めなかったが、立ち上がることでようやくサクラは自分がややのぼせ気味なのだと気づいた。時間を忘れてのんびりしてしまったのは、浴場に誰も入ってこなかったからだ。腰を伸ばして風呂に入れる機会なんて、そうそう巡ってこない。実家の風呂だってそれほど大きくないし、あと二回は絶対に入ろうと心に決める。
 いつもより慎重な足取りで、濡れた石造りの床を進んだ。からりと引き戸を開けて籠の前で立ち止まり、タオルで身体を拭うと、部屋に用意してあった浴衣をさっと身に纏う。着ていた任務服は、洗面具とまとめて風呂敷に包んだ。背嚢に風呂敷を何枚か入れておくと、こういう時に重宝する。それも長年の経験といえよう。
 女湯と文字を染め抜いた暖簾を払って、大浴場を出る。壁を隔てたところにある男湯との間にはベンチが据え付けてあり、浴場に入る前は老夫婦が並んで座っていた。その場所に目立つ金髪が見えたので、浴衣の着崩れを気にしながら声を掛ける。
「あんたも、お風呂上り?」
「ありゃ、偶然」
 ナルトはどこで買ったのか、牛乳瓶を持っていた。それを口元に運ぶ手は、サクラの姿を認めるなりピタリと止まり、だらしなく頬が緩む。
「おおー、浴衣姿、色っぽいってばよ〜。あだっ!」
「まだ任務中」
「……帰るだけなんだから、そんぐらい別に……」
 ぶつぶつと文句を零しているナルトの隣に、風呂敷を抱えたまま座った。のぼせ気味だし、少し休んでいくのもいいだろう。コーヒー牛乳があるなら飲みたいな、とサクラは迷う。周囲に売店は見当たらないし、玄関先の受付で売ってるのだろうか。聞けばわかるかと口を開こうとするが、ナルトが先にのんびりと声を出した。
「風呂、スゲーきもちかったー」
「肌にいい泉質みたいだから、すごく嬉しい」
「そうなの?オレの肌もスベスベになっちゃうかも!」
 ニシシと笑って、ナルトは牛乳を一口含む。風呂好きなのはお互い様だ。帰りの道中にちょうど温泉街があって、日程的にも余裕がある。これは外せないよね、と互いに口にし合うまでもなく、温泉宿に泊まることが自然と決まった。部屋はもちろん別。里に戻れば恋人同士だが、木ノ葉の忍として動いている今は、一線を引いておきたい。それが二人の中では大事な約束として成立していた。
「任務、無事に終わってよかったな」
「そうね」
「こういう任務が、オレ、一番好きだ」
「うん、私も」
 実感のこもったナルトの言葉に、サクラも賛同する。
「誰も死ななかったし、殺さなくてすんだ」
 ふーっと肩で息を吐くと、ナルトは柔和な表情で、手に持った牛乳瓶の表面を擦る。事件に巻き込まれたさる要人の子供を保護をするのが、今回の任務だった。子供に万が一のことがあった場合の医療スペシャリストと、探知の得意なガマ仙人のツーマンセル。国との取引材料にされそうだったところをすかさず助け出し、人身売買に手を染めている拐かしの一味をまとめて役所に突き出した。一件落着とは、まさにこのこと。
「選り好みするなって怒られるかもしんねーけど、誰かの手助けができる任務は、やっぱりいいよ。依頼主が笑ってると胸があったかくなるし、帰りの道中も、なんか気分がいいしな!」
 血なまぐさい任務ばかりを引き受けていると、心に澱のようなものがどんどん溜まっていくのが自分でもわかる。それを誤魔化したり、見て見ぬ振りをしたり、うまく受け流したり。そうやって忍は日々を生きている。その澱を浄化する手段は、こうした任務につくことかもしれない。カカシやヤマトが長らく所属していた暗部の仕事は、自分にはきっと務まらないだろう。サクラは、彼らを尊敬する。
「あいつ、ずっと我慢してたんだよな。オレとサクラちゃんが何を言っても、『ボクは平気です。先を急ぎましょう』だし。父ちゃん母ちゃんを見つけた途端、顔ぐっちゃぐちゃになっちまった。あー、ダメだな!こういう話、オレ、すんげえ弱くて。思い出したら、何度でも泣けるってばよ」
 ずっと鼻を啜り、ナルトは肩に引っ掛けたタオルで顔をごしごしと擦る。ナルトは家族が絡む任務、中でもとりわけ子供が関わるものになると、涙腺が弱くなる。波の国でイナリと別れる際、強情を張って一人ぶわっと涙を流していたナルトの姿を、サクラはそのたびに思い出していた。きっと、情が強い人なのだ、彼は。
 この人を出迎える家族は、今いない。両親の愛情なら、15の時に浴びるほど感じ取ったと満足げに言うが、灯りのともった家に帰って家族と他愛のない話を交わす夜を、ナルトは知らない。それを思うと、胸の真ん中がじわりと焦げて、煙が上がった途端、あっという間にそれは燃え広がる。
 誰もいない家に帰ると、「ただいま」と口にしてから靴を脱ぎ、荷解きもそこそこにまずは観葉植物に水を注ぐのだろう。ナルトにとっては植物が家族であり、子供みたいなもので、丹念に世話をしていることをサクラは知っていた。如雨露を片手に、ちょっとした会話を交わすかもしれない。今日も頑張ったってばよー、なんて。ナルトの帰りをいつでも待っている植物と一緒に、自分もそこに置いて欲しい。話を聞くのは、自分でありたい。サクラは強く思う。
「ねえ、ナルト」
 名前を呼ぶと、ナルトは牛乳をごくりと飲みながら、視線をちらりとサクラに向けた。
「一緒に住もうか」
 口からこぼれたのは、そんな言葉だった。牛乳瓶を口にしたままナルトは動きを止めて、声もなくサクラを見る。じっと視線を受け止めるサクラは、とても冷静だった。今、このタイミングでなければ言えないと思ったし、伝えるべきだとも思った。一人ぼっちで荷解きをするナルトの姿を想像して心を痛めるくらいなら、自分が「おかえりなさい」と出迎えればいい。ナルトの手を取ったその日から、そういう覚悟を、ずっと固めてきたはずだ。
「……それって、どういう……」
「二人で暮らせる家を探そうってこと」
 ナルトが戸惑いが、空気を伝ってサクラの肌を震わせる。動揺と、何らかの葛藤と、たぶん少しの恐怖心。わずかでも拒む反応が見当たらなかったことに、サクラはホッとする。
「そろそろ実家を出ようと思ってたのよ。でも、一人暮らしをはじめるタイミングがとても難くて。私、ずっと実家暮らしだったから、家賃とか光熱費とか、全然わからないの。ずっと踏ん切りがつかなかったけど、今ね、あなたと一緒に暮らしたいなって、思った」
 ナルトからは、何の言葉も出てこなかった。突然の提案を咀嚼するのが難しいのか、牛乳瓶をベンチに置くと、膝の間に両の指を組み合わせ、右の人差し指をトントンと動かしはじめる。じっと黙りこくり、その視線は床の一点を見ていた。
「もしかして、迷惑だった?」
「そ、そんなわけ……!」
 ナルトがパッと顔を上げると、二人の目が合う。普段は豪胆でどこか呑気な性格なのだが、ふとした瞬間、繊細さを覗かせることがある。今が、その時だった。
「だったら、そのことについて考えてくれると、とても嬉しい」
 やはり、反応はない。時間が必要なのだとサクラにもわかっていたし、自分の意思を伝えられただけで満足だった。
「そろそろ、ご飯の時間か。一階だったよね?これ、部屋に置いてくる。身支度も整えなきゃ」
 任務服と洗面具が入った風呂敷を軽く持ち上げて、サクラは言う。二歩、三歩と部屋に向かって歩いたところで、ナルトが声を発した。
「あの、さ!」
「ん?」
 後ろを振り返ると、ナルトの頬は上気している。湯あがりということもあるが、それ以外にも理由がありそうだ。サクラを見つめる瞳には、何かしらの決意が込められていた。
「オ、オレ、ベランダ広いとこがいい!ウチにある鉢植え、置いていかずに全部持っていきたい!そんで、ベッドはちょっと大きいの買って、ソファも揃えて、テーブルもちゃぶ台じゃなくてずっと使えそうなヤツにする!そんで、食器棚も買って……あ!洗濯機も新しいのにしよう!」
 そう一気に捲くし立てると、ナルトは呼吸するのを忘れていたかのように、大きく肩で息を吐いた。
「……一緒に住む?」
 ぶん、と音が出るほど力強くナルトは頷いた。その姿に、サクラは目を丸くする。こんなにも早く答えを返してくるなんて、思いもしなかった。一人でいることが当たり前のナルトにとっては、誰かと暮らすイメージさえ浮かべることが困難なはず。サクラはそんなナルトをじっくりと説き伏せるつもりだった。
 あれっぽっちの時間で、何を考えたのだろう。すらすらと選択肢が出てきたのは驚きだし、それがとても尊いことのように思えた。何よりも一緒に住みたいと即座に返せるナルトの素直さが愛しい。
「里に戻ったら、ゆっくり話し合おうね」
 へらっと笑う顔があんまり可愛いものだから、思い切り抱きしめたくなる。このまま駆け寄って、撫で回してやろうか。いやいや、まだ任務中だから、と自らに言い聞かせて、サクラはくるりと前を向いた。




2014/05/11