彼氏



彼氏




 この春、サクラが異動になったのは、木ノ葉の医療体制では珍しく女性しかいない研究室だった。現場上がりでシズネとばかり組んでいたサクラは、研究室に飛び込む際に少しだけ身構えてしまったが、シズネの口利きがあったのか、わりとあっさり馴染んだ。研究員は皆、人柄が温かく、実直で、我慢強い。環境に恵まれたこともあって、何の問題もなく研究室に溶け込んだものの、たったひとつだけ、研究室内の通例に順応ができなかった。その研究室では、培養する細胞を「彼氏」と呼ぶのが慣例化していて、最初は何のことを言っているのかサッパリわからなかった。サクラはいつも通り、AだのBだのとシャーレに貼り付けた名前で細胞を呼んでいたのだが、二ヶ月もすると「彼氏」と普通に呼ぶようになり、「彼氏が元気ない」だの、「彼氏が温度にうるさくて困る」だのと昼ごはんを一緒に食べながら細胞の話をするのが慣わしになった。「これ、他人が聞いたら絶対に勘違いされる」と我に返る隙もなく、研究に没頭し、顕微鏡を覗く毎日だ。
「サクラちゃーん、八時だよー」
 研究室の先輩が、サクラの背中に声を掛ける。机の隅っこに置いてあるカレンダーには、今日の日付のところに赤い文字で同期会と記してあった。サクラは顕微鏡から顔を剥がして、時計を見る。
「うわ……どうしよ。行けそうにないやー」
 椅子に背中を預けて、天井を仰ぐ。煌々と電灯がついていて、目に眩しい。サクラの彼氏は温度管理に問題があったのか瀕死の状態で、このままだと全滅を免れない。そうなると、研究は振り出しに戻る。今までの苦労が水の泡。大幅なタイムロスだ。
「私、朝まで詰めてるから、一緒に世話しておくよ。同期会は大事だよ〜。機会逃すと次に会うのは三年後とか、ザラにあるし」
「ほんとですか!?一時間で必ず帰りますから!」
 顔を輝かせるサクラに、先輩は白衣のポケットに手を突っ込んだまま、穏やかに笑う。
「このところ、詰めっぱなしだもんね。ゆっくりしといで」
 サクラは白衣を脱いで椅子に引っ掛けると、上着とバッグを急いで手に取って、出口の前で一礼する。
「よろしくお願いします!」
「はいはい、行ってらっしゃ〜い」
 ひらひらと手を振る先輩にもう一度頭を下げてから、まずは化粧室を目指した。たとえ同期だろうと、身なりぐらいは整えておきたい。十分でなんとかしようと心に決めて、サクラは上着とバッグを抱えたまま、廊下を早足で歩いた。




 集合時間を二十分ほど過ぎてしまったが、焼肉Qの戸を開けて、奥の座敷に目を遣った。そわそわした顔のナルトがサクラを見つけると、バネ仕掛けの人形みたいにぴょこんと立ち上がって、サクラの名前を呼ぶ。
「サクラちゃん!こっちこっち!キバ、そこ避けろってばよ!」
 荷物置き場になっていた隣の席を空けると、座布団をぽんぽんと叩いて、サクラを迎え入れる。サクラが腰を落ち着けると、ナルトはニコニコと嬉しそうに笑いながら、甲斐甲斐しい仕草でメニューを広げた。
「どれ飲む?オレンジ?りんご?グレープ?」
「じゃあ、オレンジ」
「おかみさーん!オレンジジュースひとつ!とびきり美味しくしてね!」
「バカ言ってもらっちゃ困るよ、うちのは毎回絞りたてなんだから!これ以上美味しくなんかできないよ!」
 真向かいにはいのが居て、その隣はテンテン、そしてナルトとキバに挟まれたこの席は、騒がしくするなと言う方が無理だった。朝から飲まず食わずだったせいか、頼んだオレンジジュースがひときわ沁みた。ナルトがチョウジから奪った肉を小皿に取ってくれたので、何日ぶりかの肉を食べる。焼肉Qは十班が馴染みにしている店だが、七班時代に訪れたこともあり、こちらは懐かしい味だ。そして、アカデミー時代から腐れ縁の仲間達がワイワイやかましくしている雰囲気もまた、懐かしい。このままずっとここにいたいなと思うサクラだが、それでも心に引っかかっているのは「彼氏」こと培養中の細胞で、全滅なんて結果になったら自分が一番後悔する。
 小皿に盛った肉を残らず食べ終えて、ジュースを飲み干し、キバといのが犬と猫どちらが可愛いかの論争を繰り広げている最中に、サクラは申し訳なさそうな声でそっと皆に告げた。
「あの、そろそろ私、帰るね」
 壁際に置いた上着とバッグをまとめると、靴を履いて身支度を整える。ナルトが真っ先に反応し、畳の上に四つんばいになってサクラの後を追おうとする。
「ええっ!?来たばっかじゃんか!」
「彼氏が死に掛けてるから、病院に戻る。ごめんね、みんな。顔見れてよかった!」
 早口でそう言うと、サクラは心ここにあらずといった様子で店を出て行った。座敷の一角を占めている仲間達は、サクラが残した言葉に、ぽかんと呆けている。
「彼氏……いたんだ……」
 悲しみを湛えたナルトの一言に、止まっていた時間が動き出した。力なく座布団に腰を下ろすナルトの周りだけ、お通夜状態だ。「空気重っ!」と皆が思う。そんな中、勇ましく先陣を切ったのは、いのだった。
「あ、あの子に彼氏がいるとは思えないんだけどな!病院に詰めっぱなしじゃない!ねぇ、テンテンさん!」
 いのが話を振れば、テンテンは「え、私!?」という表情をしながらも、ウーンと悩んだ末に口を開く。
「逆にチャンスなんじゃないの?彼氏とやらが退院した時にでも、身体が丈夫なのが自慢ですって、あの子に告白すればいいじゃない」
 どう返すのかな、と皆が見守る中、ナルトは目を潤ませてこう言った。
「サクラちゃんは……死に掛けた彼氏を放っておくような人じゃない……」
 なんと面倒くさい男だろうか。げっそりする仲間達を他所に、ナルトの頭の中では、サクラが献身的に彼氏の世話を焼く光景が流れていた。下忍時代、イタチの幻術をくらって昏睡状態に陥ったサスケを見ていた時みたいに、病院のベッド脇に置いた椅子に座って、涙ながらに手を握ったりするのだ。そいつがサクラの剥いた林檎を踏みつけでもしたら、ブン殴ってやる。彼氏ってのは一体どこのどいつだ、チクショウ。ナルトはお通夜状態から抜け出すと、チョウジと競うぐらい自棄食いをし、翌日は腹痛に悩まされた。




 あれから三日後、ナルトは病院の中をうろついていた。受付に聞いたところ、サクラが所属している研究室は、だいぶ奥まった場所にあるらしい。書いてもらった簡単な地図を頼りに、慣れない建物の中を歩く。タグに書かれている研究室の名前を何度も確認してから、こんこん、と控えめに扉を叩いた。
「すみませーん」
 少し遅れて「はーい」と返事がかえってきて、自分より少し年上と思しき女の人が、扉の奥から出てきた。任務では組んだ覚えがない。あまり見ない顔だ。
「あの、春野サクラさん、いますか?」
「ちょっと待っててね。サクラちゃーん、お客さんだよー」
「……はい!今行きます!」
 ごろごろと小さな車輪の転がる音がした後、サクラが外に出てきた。ナルトが研究室を訪れるなんて初めてなものだから、顔を覗かせたサクラは少し驚いている。
「どしたの?急用?」
「や、気になることがあってさ……。お昼、今日はこれから?」
「うん」
「じゃあ、オレと食わない?場所は、サクラちゃんに任せるからさ」
「いいよ。じゃあ、そうねぇ……あと十五分で片付けるから、病院の前で待っててくれる?」
 ナルトは、木ノ葉病院の名前が刻まれた門柱の前で、ぼんやり考え事をしながらサクラを待った。とにかく行動を起こさなければと、思い切って研究室を訪ねたはいいが、どう切り出すのかは考えていなかった。さて、何から聞けばいいだろう。自分の気持ちはさて置き、まずは彼氏の状態か。何事もなさそうな顔をしていたのだから、きっと無事なのだろう。いや、サクラのことだ、職場だからと気丈に振舞っているだけかもしれない。喜怒哀楽が如実に現れる性質なので、ナルトは複雑な表情を作るのが苦手だ。こういうデリケートな話題は、話を聞く姿勢が難しい。
「お待たせ」
 ポンと肩を叩かれるまで、サクラが近づいていることに気づかなかった。それほどまでに己の思考の中に没頭していたらしい。忍者としてあるまじき醜態に少し恥ずかしくなる。
「どこ行こうか。オレ、一楽以外のメシ屋ってあんま知らない」
「じゃあ、蕎麦屋にしよう。最近、気に入ってるとこがあるの。丼も美味しいよ?」
「へー、親子丼とか食いたいな」
「蕎麦屋だから、ダシも効いてて美味しいのよね」
 サクラは、まったくもって普段通りだった。悲しんでいる様子は欠片も感じられない。かといって、彼氏の容態が良くなったからと喜んでいる節もない。このところの気候の変化について話をしながら病院を離れて、二人は通りに向かう。
 サクラが連れて行ってくれた店は、病院から歩いて三分ほどの場所にあり、この近さが気に入っている理由なのかもな、とナルトは思った。医療の道に進んでから、サクラは利便性や合理性を尊ぶところが目立ちはじめ、「これ便利なのよね」という言葉をよく聞くようになった。本を読むスピードが目に見えて速くなり、資料読みの時などは紙を捲るスピードの速さに周囲が面を食らうこともある。もうちょっとゆっくりしようよと本当は言いたいのだが、サクラがそうしたいのならば、止めるのは違うような気がした。今は、全速力で走りたいのだろう。
 店に入ると、通されたカウンターに並んで座り、サクラは品書きに目を通す。ナルトは壁に貼ってある品書きをぐるりと眺めて、天丼とどちらにしようか悩んだが、やっぱり今日は親子丼だとすぐに決めた。
「私、ざる蕎麦にしよっと。あんた、何頼むか決めた?」
「オレは親子丼」
「じゃあ、店員さん呼ぼうか。すみませーん」
 やっぱり、驚くほど普通なんだよな。サクラの横顔を眺めながら、改めてナルトは思う。
「昼はいつも一楽なの?」
「や、最近は違う店にも行くよ。サラダの小鉢がついてる定食なんかも食うし」
「じゃあ、その店に行けばよかったね」
「オレ、蕎麦屋って行かねーから、品書き見るの楽しいってばよ」
「そ?ならいいんだけど」
 そのまま食べ物の話をしていたのだが、この砕けた雰囲気ならば彼氏のことを聞けるかもしれないと気づき、ナルトは気持ちを新たに息を吸い込む。
「お待ちどうさま。ざる蕎麦と親子丼ね」
 カウンターに頼んだものを置かれたが、親子丼には目もくれず、箸をパチンと割るサクラをじっと見る。両手を合わせて「いただきます」と一礼。喉がやたらと渇くので、ナルトはグラスを手に取り、口に水を含む。それをごくんと飲み込んでから、本題を切り出した。
「あの、さ」
「んー?」
「前に言ってた彼氏さんって、その、大丈夫なの?」
「あんだけ世話したのに、全滅した」
 箸で蕎麦を持ち上げながら、事も無げにサクラは言う。その表情は、ややしかめ面。身に起きた不幸を嘆く素振りは、一切ない。
「全滅!?」
 ナルトは箸も取らずに声を裏返した。サクラはずるずると蕎麦を啜ってから、できたての親子丼に目を遣る。
「そーよ、やってらんないわよ。親子丼、冷めちゃうから食べれば?」
「あの、ちなみに彼氏って何人ぐらい……」
「シャーレひとつ分」
 サクラの返答に、思わず箸を取り落とした。お盆の中に着地した箸を軽く指で払って、二つに割る。彼氏をシャーレ単位で数えるのが、まったく意味不明だ。研究に没頭していると、そういう思考になってしまうのだろうか。
「同期会に顔を出したのが原因じゃないんだけどね。次の日まで粘ったんだけど、やっぱりあの子、気難しくて」
 サクラは確かに「あの子」と言った。気難しいのが死因だという彼氏は、年下か、あるいは同い年か。
「彼氏さんって、いくつだったの?」
「えー、いくつだろー。生後二ヶ月ってとこかなー」
 もうダメだ。決定的に話が噛み合わない。ナルトは親子丼には手をつけず、割った箸を丼の上に置いた。このままでは、埒が明かない。いっそ聞いてしまおう。
「サクラちゃん、箸置いて」
「何でよ」
 ずるずると蕎麦を啜るサクラは、食べるのを止めようとしない。強い口調でもう一度言い直せば、サクラはしぶしぶといった様子で箸を置き、ハンカチで口元を拭った。
「サクラちゃん、彼氏いるんだよね?いたって言った方がいいのかな……。同期会でさ、彼氏が死に掛けてるって言ってたじゃん。そんで、全員死んじゃったんでしょ?いくつなのかって聞いたら生後二ヶ月とか言うし、オレもう、話が全然わかんねぇよ」
 きょとんとした顔を見せたサクラだが、次の瞬間、両手で顔を覆ってガクリと肩を落とした。その耳は、真っ赤に染まっている。
「ああ〜……ついにやってしまった……」
「彼氏……いるんじゃないの?」
 サクラは無言で首を横に振り、さらにうな垂れた。
「この調子だと、いつかやると思ってたのよ。そっか、言っちゃったか、もうやだ死にたい」
「死ぬ前に、彼氏って何のことなのか、聞かせてくれってばよ」
 死なせるわけねーんだけど、と心の中で呟きながら、ナルトは言う。しかしサクラが立ち直るのにはそれなりに時間が必要らしく、答えを待つ間、ナルトは黙々と親子丼を食べた。一楽ラーメンの濃い味付けとはまったく違う、優しい味。卵がふわふわで、つゆの染みたご飯と一緒に食べるとさらに美味い。今度この店に来た時は、天丼を頼んでみよう。
「私、この春に異動したじゃない?」
 食後のお茶を飲んでいると、サクラがぽつりとこぼした。
「そこの研究室ってね、培養してる細胞のことを『彼氏』って言うのよ。まあただの言葉遊びなんだけどさ。そりゃもう大事に育ててるし?下手すると私生活まで犠牲にしてるわけだし?彼氏といっても過言ではないんだけど、でも外では絶対に使わないようにしようって決めてて……」
「でも、うっかり言っちゃった?」
 こくんと頷くと、サクラは箸を手に取った。蕎麦はすっかり乾いてしまって、ほぐすのに苦労をしながら蕎麦つゆに浸し、ずずっと吸い込む。顔の赤みは薄れているが、まだ耳は赤いままだ。よっぽど恥ずかしかったらしい。彼氏がいないとわかってホッとしたのか、笑いがこみ上げてくるナルトだが、追い討ちをかけるのは気が引けるので、感情を一切消してお茶を啜った。
「そもそもこの生活で、彼氏ができるわけないのよ。男の人と接点がないし、起きるのも寝るのも時間が不規則で、ご飯忘れちゃう時だって……」
「……ここ、よく来るんじゃないの?」
「それでも、週に二回くらいよ」
「オレ、里にいる時、呼びに行こうか?昼、一緒に食おうよ」
「え?いいわよ、そんなの」
 キッパリ断られてめげそうになるが、彼氏がいると勘違いした時の絶望感を思い出せば、何だってできる気がした。
「体調崩したら困るの、サクラちゃんだよ。ご飯って、大事なんでしょ?」
 ぐっと喉を詰まらせて、サクラは気まずそうな様子でグラスに入った水を飲む。生活のリズムがすっかり狂っていることは、サクラも自覚しているようだ。
「オレの一楽通いも少なくなるし、一石二鳥って言うんだっけ?こういうの」
「呼びに来てくれても、食べに行けない時の方が、たぶん多いわよ」
「わかってるってばよ。彼氏、大事だもんな」
 からかうのは、少し早かったか。もしかして失敗したかもしれない。冷や汗をかくナルトだが、サクラは「それでもいいなら」と了承してくれた。彼氏が細胞なら、嫉妬心に悩まされることもない。研究熱心なのはナルトもよく知っているし、サクラの顔を見に行く口実もできた。三日間の鬱々とした気分が嘘のように、今は心が晴れている。サクラが蕎麦を食べ終えると、自分のおかわりを含めてお茶をふたつ頼んだ。
 蕎麦屋での一件をきっかけに、ナルトが里にいる時は、サクラを呼びに研究室まで足を運んだ。二人で歩いている時や、注文した品物がやってくる間に、「彼氏、どんな感じ?」とサクラに問いかければ、照れ隠しにムッとした後、「わりと順調に育ってる」やら「色がうまく染まらない」やらと状況を報告してくる。細胞の様子をサクラの口から聞くたびに、人間の彼氏ができる前にきちんと立候補をしなければとナルトは己を奮い立たせ、告白にふさわしい状況設定に頭を悩ませるのだった。




2014/04/03