半纏



半纏




 病院の外を出ると、粉状の白いものが、はらはらと落ちてきた。今朝から降り続く雨のせいで濡れた地面は、あちらこちらがうっすらと白い。首元にきっちりとマフラーを巻き、凍った外気が服の中に入り込まないようにしているので、空を見上げるのは少し抵抗があったが、思い切ってぐんと顎を持ち上げる。やはり、雪だ。
「冷えると思ったのよねぇ……」
 このところやたらと冷え込むものだから、昨日の夜、とうとう押入れからとっておきの半纏を引っ張り出してしまった。これを出すタイミングが毎年難しくて、一度腕を通したら、春先まで手離せなくなる。いつ頃から着ていたのかは、覚えていない。いつかの年末、「あれどこに仕舞ったっけ?」と母に尋ねて、「そのぐらい自分で覚えておきなさい!」と怒られたのが、半纏にまつわる最初の記憶だった。手足が伸びきった今でも肩に余裕があるくらいだから、父の物かとも思うが、濃赤地に白い花柄はいかにも女性用で、考えにくい。それでは母の物かといえば、愛用している半纏が昔からあった。じゃあ、あの半纏は忍のくせに寒がりな我が子を思って、両親が買い与えてくれたのか。親の深い愛情を知るのは、いつだって年を重ねてからだ。それでも、まだ手遅れということはない。年始には、ナルトと一緒に手土産を携えて挨拶に行こうと考える。
 雪は時折風に舞い上がり、傘をさしたところで役に立ちそうもない。バッグを肩に掛け直すと、サクラは傘を手に持ったまま、早足で家に帰った。
「ただいまー」
 リビングから灯りが漏れているのに、返事はない。靴を脱いで廊下を抜けると、ソファの上でナルトが寝こけていた。外が雪ということもあり、冷えるのだろう、サクラの半纏を羽織っている。そのわりに下は裸足で、見ているこちらが寒々しくなる。素足の方が落ち着くんだと日ごろから言ってはいるが、半纏が必要なほど寒いのであれば、靴下くらい履いて欲しい。
「ナルト」
「んがっ!」
 そっと肩に手を乗せただけなのに、奇声と共に上半身がビクリと跳ね上がる。きょろきょろと辺りを見回し、自分がどこにいるのかを確認するその姿は、忍者の寝起きではない。いくら気を緩めているにしたって、これはないなとサクラは思う。
「……ただいま」
 表情も声も、やや呆れた調子になるのは、仕方がない。
「うわ、寝ちまってたわ……おかえんなさい」
「あんた、寒いんなら靴下ぐらい履きなさいよ。なんで素足なの」
 覗き込むサクラの顔は、しかめ面。寝起きでボーッとしていたナルトは、ハッと我に返ると、半纏の襟を慌てて掴んだ。
「ち、ちがうんだってばよ!暖めておいただけだから!」
 どうやら半纏を勝手に着たから怒っていると思われたらしい。それにしたって、間抜けな言い訳だ。サクラは床にバッグを下ろすと、コートを脱ぎながら、息を吐く。
「別にそんなの気にしてないわよ」
「ほら、ね!あったかいから!」
 ナルトは急いで半纏を脱ぎ、サクラの肩に羽織らせる。ナルトの体温が中綿にまでしっかり行き届いているおかげで、確かに暖かい。そのまま袖を通す。
「ご飯、食べた?今日はオレ、何も作れなくてさ、買った惣菜の残りならある」
「あー……もう寝るだけだし、とりあえずいいわ。お風呂入ってくる」
「サクラちゃん、食べてないでしょ」
 その問いかけに胸をぎくりと突かれるが、平然とした風を装って、サクラは半纏姿のままコートとバッグを抱える。
「野菜、食べてないでしょ」
「……お昼に食べた」
「もー!昔は野菜食えってオレにうるさく言ったくせに、サクラちゃんだってサボってばっかじゃんか!ビヨーに悪いんだっていのに聞いたぞ!」
 実家暮らしのひよっこ忍者が垂れた説教が、巡り巡って大人になった我が身に返ってきた。こんなことなら、偉そうにしとくんじゃなかったなぁ、とサクラは眉を下げる。
「明日の朝、しっかり食べるから」
「よーし、ほんじゃ明日は朝定食な!小鉢ついてるやつ!」
 家の近所にある居酒屋は、卵が一個おまけでついてくる朝定食が密かに人気で、しっかり動きたい時に重宝していた。日替わりの小鉢で野菜も繊維質も手軽に取れる上に、値段が手ごろで美味しいとくれば、頼りにもしてしまう。最初のうちはナルトの野菜不足を補うべく暖簾を潜っていたのだが、今では半々の割合でサクラも引っ張られている。
「何時に集合?」
「明日は、昼過ぎ」
「何よ、寝てられるじゃない。わざわざ外で食べなくても、」
「サクラちゃん一人だと、適当に済ませちゃうからダメ!」
 サクラの言い分は、途中でピシャリと遮られた。忍の身体にとって重要な食事を任務効率化の犠牲にしがちな点は、サクラも自覚していた。明日は、一緒にご飯を食べる。それに頷かなければ、部屋から出してもらえないようだった。




 その日、サクラの手には大きな紙袋が抱えられていた。紙袋の側面はあちこち膨らんでいて、そのまま放置しておくと、口が勝手に開いてしまう。女の力でも楽に持ち上げられるほど軽いのだが、とにかく嵩張るのが難儀だった。
「ただいまー」
 玄関を潜り、奥に向かって声を掛けると、少し間をおいて「おかえり!」と声が返ってきた。この分だと、また半纏を着ていたな、とサクラは思う。サクラが留守の間、ナルトは好んで半纏を着るようになっていて、しかもそれを「あまりしちゃいけないこと」と認識している。人の物を借りるのが苦手な性格なのだろう。今頃は、慌てて半纏を脱いで、バタバタと中の熱を逃がそうとしているに違いない。サクラはいつもよりゆっくりと靴を脱ぎ、ついでにコートもその場で脱いで、リビングに向かった。
 扉を開けると、こちらに向かって歩いてくるナルトと目が合った。ダイニングチェアの背もたれには、半纏が掛けられている。そちらに視線を投げると、ナルトがビクッと肩を揺らせる。触ればきっと、まだ暖かい。
「これ、お土産」
 腕に抱えた大きな紙袋を差し出せば、ナルトはパッと顔を輝かせた。
「えー、なになに?あれ、思ったよりも全然軽い。開けていい?」
「いいよ」
 サクラが言えば、ナルトは紙袋を床に置いて、中に納まっているものを広げてみる。それは、濃紺に白縞柄の半纏だった。
「すごいあったかいわよ、これ。店員さんに聞いたんだけど、中綿の質が良くて、熱が逃げにくいんだって。あんた、寒がりだもんね」
「これ、オレの?」
「そ。あんた、よく私の半纏使ってるじゃない。家にもうひとつあった方がいいかなーと思って」
 きっと喜ぶに違いないと思い込んでいたのだが、ナルトは半纏を目の前に広げたまま、固まってしまった。いらない、なんてことはないと思うんだけど。サクラはナルトの反応を、じっと待つ。
「ねー、サクラちゃん」
 半纏越しに、やや歯切れが悪い声で、ナルトが言う。
「この新品のと、サクラちゃんがいつも着てるやつ、交換しちゃダメかなあ」
 言っている意味がよくわからず、サクラは一瞬考える。今の言い方だと、ナルトは新品よりも、少しくたびれた感のあるサクラの半纏が欲しいらしい。人の物を羨ましがる気質はナルトの中に流れていないのだが、珍しいこともあるものだ。
「……あれがいいの?」
「なんか着心地いいっていうか……着てるとぬくいんだよ」
「そりゃあったかいでしょうよ、半纏だもの。でもあれ、だいぶ着古してるし、新品の方があったかいわよ?」
 返事はない。ナルトは、すっかり黙りこくってしまった。広げた半纏で姿かたちが隠れているため、表情はわからない。それでも、眉毛を八の字に下げて、少しばかり情けない顔をしているのは、容易に想像できた。
「じゃあ、私がこれ着ようか」
 サクラがそう提案すると、ナルトは半纏の向こうから、ちらりと目だけ覗かせる。
「……いいの?」
「うん。私はどっちでもいいし」
「へへー、やったぁ!じゃあそうする!」
 新品の半纏をサクラに預けると、ダイニングチェアに駆け寄って、背もたれから半纏をそっと持ち上げた。いそいそと袖を通す。
「色、逆だけどね」
「そういうの、オレ気にしない。赤好きだし!」
 昔から目立つ色が好きなので、ナルトには濃紺よりは赤かもしれない。散らばっているのは可愛らしい花柄なのだが、それがまた妙に似合った。大事そうにぎゅうっと半纏の裾を掴むのを見て、よっぽど欲しかったのね、とサクラは思う。
「着古しでよければ、どうぞ」
「あったかいし、これがいいの!」




 家に帰ると、コートを脱いで、濃紺の半纏を羽織る。中綿はまだ新しく、しっかりとした造りで、断熱性にも優れている。ソファに座れば、年季の入った赤い半纏姿がとことこ近づいてきて、湯呑みを差し出す。首回りを見遣れば、襟の縫合が緩くなっていて、そろそろ縫い直さないといけない。
「ほい、お茶」
「……ありがと」
 ぼすんとソファの隣に腰を落とし、湯飲みを持ち上げる袖口には、お茶の染み。
 両親の愛は、今、ナルトが着ている。




2014/01/26