「春野上忍」
 書棚の脇で書類整理をしているサクラに、羽織姿のナルトが問いかける。その背中に縫い取られた六代目の文字は、仕立てたばかりのため、ひときわ光沢を放っていた。大きなガラス窓から差し込む陽の光に照らされると、つやつやと輝いて見える。
「なんでしょう、火影様」
「オレってば甘いもの食べたいんだけど、買いに出ていい?おやつの時間っつーことで」
 名前を呼ばれても作業の手を止めることがなかったサクラだったが、その動きを緩めると、ようやくナルトを見た。
「ああ、私に仰って頂ければ、買いに出向きますよ。何なりと、どうぞ」
 にっこりと上品な笑顔を浮かべるサクラに、ナルトは、いやいや、と顔の前で手を振った。
「上忍さんをおつかいなんかに行かせるわけにはいかないってばよ。自分で行くから大丈夫」
「私はあなたの手足です」
「……あのね、オレね、外に出たいの」
「火影様」
 咎めるような口調にも、ナルトは屈しない。筆を置くと、椅子を回転させて、サクラが立っている書棚に身体ごと向ける。
「ぷらっと外の空気吸って、すぐに帰ってくる。だから、外に出ていい?」
 サクラはその顔から表情を一切消すと、椅子につかつかと歩み寄る。そして、ぺこりと一礼。
「切り替えを、させて頂きます」
 すうっと息を吸い込むと、目の前の能面が般若に変わった。
「あんったねぇ!そう言って何時間帰らないつもりよ!前科ありすぎんのよ、あんたは!やれ八百屋の若旦那につかまっただの、魚屋の主人がなかなか帰してくれなくてだの、アカデミー生に囲まれて動けなかっただの、何かと理由作って道草ばーっかりするんだから!」
 公私をちゃんと分けたいから。そう言ってサクラは、火影補佐に就いている時に自分の名前を呼ぶことを止めるよう、ナルトに願い出た。火影と、一人の上忍。その線引きをしたいという。生真面目なサクラらしい提案に、ナルトは笑いながら応じた。ナルトが火影に就任して、すぐの出来事だ。
 普段は忠実な部下として礼節を重んじるのだが、我慢にも限界があるらしい。失礼します、と律儀に一礼してから、こうして時々素を晒して雷を落とすのだった。
「今日は大丈夫だってばよ!約束する!」
「十回以上破られて、もう一度約束するバカがどこにいると思う?」
「じゃあ……影分身残すから……」
「ダメに決まってんでしょーがッ!甘いもの買いに行くためだけにチャクラ半分も目減りさせるって、どういう理屈よ!非常事態以外は、影分身禁止!あんたのスポンジみたいにスッカスカな脳みそにも、就任時の約束事ぐらい刻めるでしょ!?」
「スポンジって、サクラちゃん……」
「はい、今、サクラちゃんって言った。明日のお昼は、あんた持ちね」
「ちょっ!そりゃないってばよ、サ……春野上忍!今のは切り替え後でしょ!?」
「あんたは、火影のままでしょう。火影様は、家に帰って羽織を脱ぐまで、ちゃんとみんなの火影様でいてください」
 むぅ、と唇を尖らせた後、ナルトは羽織の襟に手を掛ける。
「何脱ごうとしてんのよ!」
「ちょっとぐらい、いいじゃんか!オレだって、羽伸ばしたいってばよ!」
「だまらっしゃい!だったら、さっさと仕事終わらせてさっさと羽織脱げばいいでしょーが!いーっつも夜遅くまで仕事ずるずる残すんだから。それに付き合わされるこっちの身にもなってよ。歴代一無能な火影って言われないように、補佐する側は大変なんだから。私だってねぇ、あんたの補佐なんて放り投げてデートのひとつもしたいわよ。あーあ、どっかにイイ男いないかしら」
「あ!デートなら、オレが……!」
「火影様、職務中ですよ」
 デート相手に立候補をしようと試みるも、瞬時に一介の上忍へと戻ったサクラは、その先を言わせない。
「ご所望の品物は?」
 こうなると、ナルトは手も足も出なかった。火影の補佐としてきっちりと体面を整えたサクラは、そうそう崩れない。何か言おうと口にしかけては、うーんと思い悩み、脳内で言葉が尽きた頃に白旗を上げる。
「……饅頭食いたい」
「わかりました。では、行って参ります」
 サクラは一礼をすると、すたすたと部屋から出て行った。バタンと閉まる扉を恨めしげに眺めながら、ナルトは深々とため息を吐く。
「こんなことなら、あん時、頷くんじゃなかったなぁ……」
 膝に手のひらを当てて、ガックリとうな垂れる。何しろ、口説く隙を一切見せない。羽織を着ている時は、火影とその部下という一線をきっちり引かれてしまうのだ。そこから一歩踏み出そうものなら、恐ろしい鉄拳制裁が待っているだろう。あの怪力を目の当たりにしてしまえば、誰だって尻込みをする。
 机の上に詰まれた書類の山に手を伸ばし、親指でパラパラとめくる。今日は少ないほうだが、それでもナルトの肩口ぐらいには積まれていた。ざっと見た限り、紐とじされている分厚いやつが、三件。ペラい一枚の決裁書なら、すぐに判子が押せる。
 死に物狂いで書類を決裁すれば、今日こそは早めに上がれるだろうか。先ほどのペナルティを今日の夕飯に変更して、サクラをデートに誘うのはどうだろう。羽織を脱いでしまえば、ただの男だ。口説くのも自由。その先も、また自由。
「……いっちょやってみるか」
 妙木山で鍛えた集中力を、今こそ発揮しよう。そんなことのために鍛えたわけじゃないとフカサクには怒られるだろうが、こっちだって将来がかかっている。椅子の上に座りなおし、だらしない姿勢を正すと、顔を引き締めて再び机に向かった。




2013/07/03