「あー、そうだ。今月の予定、教えてくれる?」
 他愛のないおしゃべりの途中で、サクラはマグカップを置いて立ち上がると、バッグの中をごそごそといじりはじめた。中から取り出したのは、分厚い手帳。今後の予定を記したり、ちょっとした思い付きを書き留めたりと、重宝していた。そしてそこにナルトの予定が加わるようになって、そろそろ一年が経つ。行動予定を欠かさず書き留めるというのは、つまり互いの部屋を行き来する間柄ということであり、会う日にはきちんと印がつけられていたりもする。
 ページを捲って開くのは、今月のカレンダー。そこに記された予定の数々に気を取られているサクラの手元から、ぺらっとカード状の紙切れが落ちる。先に気づいたのはナルトで、拾ってやろうかと視線を下に向けるが、遅れて気づいたサクラは手帳を放り出すと、目にも留まらぬ速さでそれを拾い上げた。あまりの勢いに気圧されて、ナルトはぽかんと口を開ける。
「……見た!?」
 胸元に紙片を押さえつけて、サクラが問いかける。声を張り上げ、必死の形相だ。
「見てないけど、何焦ってんの」
「別に、焦ってない」
 サクラはふいっと顔を逸らして、ベッドに放られた手帳に手を伸ばす。ぱっと見た時は紙片かと思ったが、よくよく観察すると、その質感から写真だとわかった。そんなに見られて困るものなのか。ナルトは面白くない。
「それってさ、誰かの写真?」
「女の持ち物をいちいち詮索するものじゃないわ」
 そういう言い草で煙に巻こうとするところが、余計に怪しい。隠すということは、つまり知られたくないということだ。日頃から鈍いと揶揄されるナルトにも、第六感というものが立派に備わっている。サクラの不自然な態度からは、男の影を感じた。
「ま、そうかもな。そういうのは、男のすることじゃないか」
 ナルトがそう返せば、サクラは安心したのか、強張らせた気配をほんの少しだけ緩ませた。そして胸元から手を離し、手帳の中に写真を再び挟み込もうとする。
「なーんつって」
 背後からナルトの声がする。目の前に立っているのがナルトの影分身だと気づいたのは、写真を奪われた後だった。振り返る余裕もなければ、驚きの声も出ない。隙が生じたのは認めるが、いつの間に印を結んで移動したのか。唖然とするサクラの背後で、ナルトの本体は写真と対峙する。そこに写っている人物を認めると、ナルトは呆けた声で呟いた。
「……これ、オレじゃん」
 今より少しだけ顔つきが幼い。木ノ葉ベストを初めて着用した時のナルトの写真だった。
「……帰る」
「ちょ、ちょ!帰るって、サクラちゃん!」
 慌てて引き止めようとするが、玄関に向かって猛進するサクラを止められない。
「帰るって言ってんの!もうやだ!」
 影分身は玄関に立ちふさがり、本体はサクラの両手首をつかんで後ろからガッチリ抱きかかえる。そこでようやくサクラは暴れるのを止めた。真っ赤に染まった顔を下に向けて、口を閉ざす。
 サクラはこの後の展開を覚悟し、身を硬くした。ナルトのことだ、きっと有頂天になって揶揄するに違いない。「この写真、どこで手に入れたの?」だなんてニヤニヤしながら聞いてくるに決まっているのだ。サクラは背後を取られた悔しさと写真を見られた羞恥の板挟みになり、ぎゅっと目を瞑る。
「ごめんな」
 意外なことに、ナルトの口から漏れたのは謝罪の言葉だった。その声色は、後悔というより懺悔に近い。これにはサクラも驚いて、目を開ける。
「サスケの写真だと、思ったんだ」
「……何よ、それ。なんでサスケくんが出てくるのよ」
 明らかに声の調子が変わった。サクラの表情が見えなくても不穏な空気はしっかりと感じ取ったようで、ナルトは黙りこくる。それがまた、サクラの気持ちを逆立てた。
「ちょっとはっきりさせておきたいんだけどさ、」
 そう言うとサクラは物凄い力でナルトの手を振りほどき、ナルトと向き直る。目の前には、憔悴しきったナルトの顔があった。
「あんたは私がまだサスケくんのこと好きだって思ってるわけ?」
「それは……思ってないけど……」
「けど、何」
 じっと睨みつけるが、ナルトは唇を引き結んだまま答えを返さない。サクラは、なんなのよ、と口の中で呟く。
「約束守ってもらったから、仕方なく付き合ってるのかなって?それとも、ずっと好きでいてくれたから、お情けであんたの気持ちの応えたとか?めでたく英雄になったことだし、将来性考えたらあんたの方がお買い得?隣を歩いてるのが次期火影候補ってのは、そりゃさぞ鼻が高く見えるんでしょうね!」
 もやもやと晴れない胸の内をはっきり言葉にして吐き出すことで、感情はさらに高ぶっていく。とめどなく溢れるのは、怒りや悲しみ以上に、やるせなさだ。
「私は昔、あんたに嘘をついた。それがまだ引っかかってるのなら、謝るしかない。ごめん。本当に酷いことをしたと思ってる。でも、私はそこから先に進みたいの。自分勝手なことを言ってるのはわかってるけど、今の気持ちを疑われたくない。信頼をされたいの」
 何を言ったって、ナルトはだんまりを決め込んでいる。言葉を上手に扱う頭がないのはわかっている。自分の考えをまとめるのに時間がかかることも知っている。だけど、すぐに反論してこないこと自体が苛立ちを掻きたてるのも確かだった。
「全然、通じてなかったわけだ」
 出てきたのは、諦めにも似た溜息だった。ナルト相手に好きだの愛してるだのと言葉を浴びせることは大の苦手だが、時間を繋ぎ合わせて部屋を訪れたり、予定を最優先させたりと、できる限りのことはしている。周囲に人の目がなければ手も繋ぐし、ナルトが人恋しい顔をしていれば存分に甘やかした。それでも、サスケの写真を手帳に挟んで昔の恋心に浸っていると思われるらしい。気持ちを通い合わせた気になっていたのは、自分だけだった。こんなのは、ひとりよがりの恋だ。
「私がサスケくんの写真を挟んでいることであんたが安心するなら、そうするわよ。あんたの写真なんか今すぐ破って捨てて、昔好きだった人の思い出だけを大事にする」
「……そんなの、やだってばよ」
 ようやく言葉を発したかと思えば、その口調はまるで途方に暮れた駄々っ子だ。
「じゃあ、わかって」
 サクラはナルトの顔を手で挟む。視線は合わない。
「あんたがはじめて木ノ葉ベスト着た時、あんまり格好良かったもんだから、登録用に撮った写真の余りをこっそり貰って、ずっと持ってたの。サスケくんじゃなくて、あんたの写真。これ、どういう意味かわかる?」
「オレんこと、好きだってこと?」
 ナルトは、そろりと目を合わせてくる。咄嗟に言葉が出ないのが恨めしい。心の中ではいくらでも好きだの何だの言えるくせに、面と向かって問われると、認めることが非常に困難なのだ。バクバクと鳴る心臓を抑えて、すっと息を吸う。
「……そうよ」
「うん、とか。そう、とか。サクラちゃんはそれしか言わないから、オレは時々、よくわかんなくなる」
 痛いところを突かれた。言葉が足りないことは、自覚している。だからこそ、今までだって行動で示してきたのだ。頬に添えた手を一度離し、ナルトの頭を抱え込むと、そのまま顔を近づけ、キスをする。
「これで我慢して」
「……やだ」
 今日のナルトは流されることを良しとしなかった。いつになく頑なで、言葉を欲した。
「オレんこと好きだって、ちゃんと言って」
 その言葉を境に、部屋がしんと静まり返る。サクラは迷いを振り払うように両手をぶんと振り上げると、ナルトの両肩に思い切り乗せた。バシン、と皮膚を打つ音が鳴り、いてぇ、と小さな悲鳴が聞こえた。そのままの状態で、一分が経つ。二分が過ぎる。サクラが戸惑いの沈黙を貫けば、ナルトもまたせっつくように視線を寄越してくる。膠着状態がしばし続いた。
「私は、」
 喉がからからに渇いているせいで、声が少し掠れる。どこまでも格好がつかない。
「私は、あんたのことが、」
 サクラの言葉を遮るように、こつこつ、と窓を叩く小さな音。二人同時にそちらへ顔を向ければ、火影の呼び出し鳥が窓の外で待機していた。
「マジか……こんな時に呼び出しかよ……」
 たとえ非番だとしても、急を要する任務があれば呼び出しに応じるのが忍というものだ。ナルトにも、忠実な忍の血は流れている。
「ちょっと行って来る。戸締りよろしく」
 奥に吊るしたハンガーから木ノ葉ベストを抜き取ると、ナルトは急いで部屋を出て行った。残されたサクラは、気が抜けたように長い息を吐く。
「たすかったー……」
 そのままその場にへたりこみ、両腕の中に顔を埋めた。助かったという表現をこの状況で使うこと自体おかしいのだが、それが本音だった。発音が難しいわけでもない言葉がなぜスラスラ言えないのか、自分が一番もどかしい。
「言わないと、ダメだよね」
 任務に行く前には装備を整える必要もあるし、一度この家に戻ってくるだろう。非番の忍を呼び出すぐらいだ、急を要する任務なのは確実で、サクラが気持ちを整える時間はそう残されていない。しゃがんだまましばらく唸っていたが、やがて決意を固めて立ち上がると、ベッドに歩み寄り、腰を落とした。そこから玄関は真正面に見える。
 身体はガチガチに緊張し、表情はひどく強張っている。階段を上がる靴音を聞き逃すまいとその耳は研ぎ澄まされ、玄関扉を見つめる目は怖いほど鋭い。今は閉ざされているあのドアがもう一度開いたら、今度こそ。サクラは、戦いを挑むような心持ちで、じっとナルトを待った。




2013/05/06