本棚に囲まれた部屋で書き物をするのに飽きたサクラは、ダイニングテーブルに資料を広げて持ち帰りの仕事をしていた。奥の部屋を仕切る襖を開ければ陽の光が明るいし、気分もいくらか開放的になる。こういうのもたまにはいいな、と思いながら黙々と雑務をこなした。 玄関先でガチャガチャと金属音が鳴り響き、空気が震える。帰りは夜になると聞いていたのだが、思ったよりも早めの帰還となったようだ。血の匂いはない。気配にぎこちなさはないし、病院の世話にもなっていないだろう。ゆったりとした足音に続いて、リビングの扉が開かれる。 「おかえりー」 サクラは椅子の背凭れに身体を預けて、顎をぐいっと持ち上げた。ずっと同じ体勢だったので、少し疲れた。こちらに歩み寄ってくるナルトは、遠征から戻ったわりには元気そうで、顔つきにも疲れは残っていない。ナルトは「ただいま」の声の代わりに、サクラの額の上に小さな箱を置いた。 「ん?何、これ」 「預かり物。サクラちゃんに、だってさ」 「私にって、誰から?」 サクラは箱を手に取ると、姿勢を正して、預かり物だというそれの外側を眺める。 「昔さ、ヤマト隊長とサイと四人で護衛任務についたろ。大名の親戚だっていう、痩せぎすのチビ」 「うん、覚えてる。いっつも泣きそうな顔してた子だったよね。夜になると、怖いのを我慢して一人で震えてた」 サクラちゃんがそいつを優しく抱きしめてやってるのを見て、僕は見苦しくも激しい嫉妬に駆られていました。さりげない懺悔を胸の内にのぼらせながら、ナルトは話の続きを口をする。 「それ、そいつから」 「……ええ?嘘でしょ?」 「あの時、命を助けてもらった礼だとよ」 件の護衛任務は、カカシが写輪眼の使いすぎで不在の時に請け負ったものだった。サクラもナルトも、まだ十六の頃。高ランクの要人警護だというのにナルトはぶちぶちと文句を吐き、サクラはヘッドロックでその口を黙らせた。依頼人から礼状を受け取ることはたまにあるが、こんなにも年数を経てからの御礼というのは、経験がない。 「これって、装飾品かな?」 「たぶんね」 「こういうのは……嬉しいけど、ちょっと困るな。返した方がいいのかしら。それとも、お礼状出して受け取るべき?」 「カカシ先生に相談してみたら?」 「だったらヤマト隊長にしておく。カカシ先生じゃ、身のある返事が返ってこなさそう」 「はは、そりゃ言えてる」 おかしそうに笑うナルトを横目に、サクラは箱に掛けられたリボンを解くことなく、机の上にことりと置いた。困惑しているサクラの横顔を見つめながら、ナルトは口を開く。 「オレ個人の意見だけどさ、受け取った方がいいと思うよ」 「……どうして?」 「あいつにとって、サクラちゃんは初恋の人なんだとさ」 その言葉に、サクラは目を丸くした。覚えているのは抱きすくめた身体の薄さと、どこに潜んでいるかもわからない敵の気配に脅えている表情。手足は細く、背も小さかった。自分のことだけで精一杯だったはずだ。まったく、恋というのはどこに落ちているのかわからない。 「……あの子、今、いくつだっけ?」 「十六。あん時のオレらと同じ年だな。大事な思い出なんです、だって。これはさ、あいつの気持ちなんだよ」 そこからナルトは訥々と語りだした。火の国に帰ってからも、サクラのことがずっと忘れられなかったこと。心が折れそうな時には、護衛任務でのサクラの姿を思い返し、なんとか頑張れたこと。そんな彼にも、今では許嫁がいること。その人のことがとても大事で、幸せにしたいと強く思っていること。その前にどうしても気持ちに区切りをつけたくて、初恋の人への贈り物を選んだこと。 「全部思い出にしちまうかわりに、これをサクラちゃんにどうしても残したいんだってさ」 護衛とその対象というのは一時の迷いを生みやすい関係性だ。命の危険を救ってくれた恩人には、どうしても特別な情を抱きやすい。しかし、任務が無事に終わり、安寧な日常に戻ってしまえば、自然とその想いも昇華される。 それでも彼は、気の迷いと終わらせることなく、想いをずっと胸に抱いたままでいてくれた。遠い昔にこなした任務が彼の心の添え木となり、初恋になった。奇跡のようなことだとサクラは思う。いままで味わったことのない幸福感が胸の内に生まれた。 「あいつ、すげえカッコ良かったよ。オレが十六の頃って、あんなこと考えてたかなー。どうやっても真似できそうにねえや。なんせオレ、諦め悪いからな」 ナルトは何か思うところがあるのだろう、首の後ろに手を当てて、苦い表情で笑った。 「初めて自分で稼いだ金で買ったんだって。まだ見習いとはいえ、今じゃあいつも国の役人だからな。これから火の国を動かそうってんだから、大した奴だよ」 「そっか」 サクラは手を伸ばし、箱にかけてある紺色のリボンに指で触れる。少し頼りなさそうな顔立ちは、今ではきっと見違えるように精悍なものになっているはずだ。あの少年に手傷ひとつ負わせることなく無事に送り届けられたことを、サクラは誇らしく思う。 「私、これ、受け取った方がいい?」 「そうしとけって。突き返されたら、あいつ泣くぞ」 少し迷った後、するりとリボンを解いて、そっと箱を開ける。中に収められていたのは、キラキラと輝く細かな赤い石がいくつもあしらわれたブレスレットだった。 「……綺麗」 店のショーケースでこの品物を見かけたら、きっと一目惚れをしていた。派手ではない控えめな赤が、とても上品だ。もしかしたら、髪の色を覚えていたのかもしれない。少年と数日間を共にしたのは、何年も前だというのに。 血なまぐさい任務が増え、医療忍者として必死に立ち回っていても、人の命はその手から零れ落ちていく。任務の重さに押しつぶされないよう、歯を食いしばる毎日だ。少年がサクラと過ごした日々を心の支えにしていたのと同じように、サクラもまた、少年から寄せられたまっすぐな想いに支えられることだろう。 「ねえ」 「ん?」 ブレスレットから目を外し、顔を左に向ければ、ナルトはテーブルの脇で荷解きをしていた。遠征となれば、汚れ物も溜まる。明日の朝は、洗濯機がフル稼働だ。 「少し妬いた?」 「……まあね」 考える素振りを一瞬見せた後、ナルトは素直に認めた。サクラはブレスレットを箱の中に収めると、椅子から立ち上がり、背嚢の中をごそごそといじっているナルトの背後にしゃがみこんだ。その肩に手を掛け、こちらを向くように促すと、ナルトはその手を止めて身体ごと後ろを向く。首の後ろにサクラの両腕が回され、肩口にその顔が埋まった。 「任務帰りだから、汗くさいぞ」 「そういうの、気にしない方」 「オレが任務上がりに抱きついたら『汗くさいからやめろ!』って言わなかったっけか?」 「あれ、そんなことあったっけ?」 まったく、これだもんよ。ナルトは胸中でそう呟きつつも、サクラの気まぐれを大人しく受け止めた。 「ねえ、ナルト」 「何?」 「私、幸せだわ」 「そっか。そりゃ結構」 ぽん、とサクラの頭に手を乗せて、ナルトが言う。サクラは肩に頬を寄せてナルトの横顔を眺めると、髪の生え際を指でなぞり、耳の脇に手を添えた。どちらからともなく、唇を寄せる。 「そんな幸せそうなサクラちゃんに、ひとつだけお願いがあるんだけどさ、」 何やら言い淀んでいるナルトに、サクラは視線だけで続きを促した。 「オレと二人きりの時は、あれ、着けないで欲しいんだけど……」 ナルトはテーブルの上の小箱にちらりと視線を投げながら、ぼそりと言う。サクラはナルトの肩に顎を乗せ、両腕をナルトの腰に巻きつけた。 「どうしよっかなー」 耳元から聞こえてくるのは、明らかに楽しんでいる声だ。顔は見えないが、その口元にはきっと意地の悪い笑みが浮かんでいる。 「すっごい綺麗な赤い石だったなー」 「そうか」 「私のこと、ずっと覚えててくれたんだろうなー」 「……そうだな」 「初恋の人だって。うれしーなー」 サクラの言葉が、ちくちくと胸に刺さった。サクラに心を奪われる男は自分ひとりで十分だというのに、この先もわらわらと出てこられたら、心臓に悪い。 「……なんでも買ってやるから、勘弁してくれ」 弱り切った声で懇願すれば、ようやく口撃が止まった。あの少年が選んだ装飾品は、たぶんそれなりに高価な品物だ。さて、何をねだられるか。ナルトは覚悟をする。 「欲しいものなんて、別にないよ」 サクラは身体を離し、ナルトの顔を覗き込む。 「その代わり、時々でいいから、こんな風に嫉妬して」 色気のあるその表情に、息を呑んだ。こんな顔は、ベッドの上でもそうそう見られない。ごくりと喉が鳴る。 「そんなの、いつもしてる」 「嘘よ。私が誰と話してたって、気にも留めないくせに」 「オレが何思ってるのか知ったら、絶対ドン引くよ」 あの護衛任務でどれだけ薄暗い感情を燻らせたか、サクラは気づいていない。この先もしもサクラの心が他所に向いたとしても、彼のように潔くきっぱりと想いを昇華させることは絶対にできない。他の男から贈られた装飾品を身に着けているところなんか、見たくもない。 「サクラちゃんは、知らないだけだ」 「でも、あの贈り物、ちゃんと私に届けてくれたでしょ?」 「……それくらいは、な」 「あの子がどれだけ私のことを想ってくれたか、ちゃんと伝えてくれた。贈り物を受け取るように、促してくれた」 「何も言わずに渡したって、意味わかんねぇだろ。あいつと約束しちまったしな」 「そのくせ、すこーし嫉妬してる」 少しではなく、物凄くのだが、そこは黙っておいた。 「あの子の気持ちが嬉しい。ナルトの優しさが嬉しい。妬いてくれるのが、もっと嬉しい」 ナルトの腰に回された腕の力が、少し強くなる。汗くさい身体に、顔を埋めてくる。男らしくもない狭量さごと抱きしめてくる。 「ありがとね」 嫉妬なんて見苦しいと、今までひたすらに隠し続けてきた。その一端を不覚にも曝してしまったことをみっともないと思いこそすれ、感謝されるのは意外だし、どう返していいのやらわからない。 ナルトは口を噤んだままサクラの背中に手を回し、不器用に髪を梳いた。 2013/03/28
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