夜気



夜気




 その夜半、サクラは仕事部屋で書き物をしていた。急を要する仕事を任されているわけでもなく、その場所にどうしても留まっていなければならない理由はない。いつもならとっくに家に帰っているはずの時間だ。それでも、今日はここで時を過ごそうと決めていた。
 鍵を開けてある窓の向こうで、木が揺れる。風はない。サクラは書物のページを繰る手を止めると、空いた左の手のひらを後ろに向けて、指を手前に引く。すると、窓がからりと開き、人影が滑り込んできた。夜の湿った空気に乗って、血の匂いが漂ってくる。返り血ならば、この部屋に足を運ぶこともないだろう。
「そこ、座ってて」
 背後を振り返ることなく手短に告げると、生霊のような薄い気配がソファにすうっと移動し、浅く腰を掛けた。少しの間、万年筆が紙を引っかく小さな音が響いていたが、やがて止む。サクラは椅子ごと後ろに下がると、机の下に常備してある治療箱を取り出した。それを抱えて椅子から立ち上がり、ソファに向かう。
「見せて」
 その声に一拍遅れて、気配がのろのろと動いた。木ノ葉ベストを脱ぎ去ると、支給品のアンダーシャツ姿になる。サクラはその隣に座り、アンダーシャツの裾に手を掛けて、傷に障らないようにそっと持ち上げた。包帯は、血がべっとりとついている。サクラは表情ひとつ変えることなく包帯を取り去ると、傷の具合を見た。正面から刀を受けたのだろう。腹の傷は縫ってあるものの、血が滲み出して止まらない。里に辿り着くまでずっと動き続けていたのだから、当たり前だ。
「先生って、器用よね」
「そうでもないよ」
「繕い物、得意でしょ。傷を縫うの、上手いもの」
 この傷なら動くのだって辛いだろうに、医療班に助力を乞うこともなく、何食わぬ顔で任務をこなして帰ってくる。心のどこかが麻痺しているようなカカシの姿勢が、サクラはあまり好きではなかった。それでも、昔の上官に文句を言う気にはなれず、病院に行かないまま次の任務に向かうよりはずっとましだと自分に言い聞かせた。この人は、それぐらいしかねない。特に会話も交わすことなく、医療忍術で腹の傷を塞ぐことに専念する。
「少し楽になった?」
「そうね、だいぶいい」
 ぼやけた声でそう言って、カカシは目を閉じる。薄かった気配がじわじわと輪郭を広げて、人型になる。人らしくなる。
「包帯、巻いておくね」
「頼むよ」
 血だらけの包帯を机の上に置くと、替えの包帯を治療箱の中から取り出し、傷に巻く。傷を受けた箇所が腹なので、自然、カカシを抱くような格好になる。外では隙のない振る舞いをするくせに、怪我をしてここに来ると、カカシはいつも無防備だった。チャクラ切れで入院している時でさえ気を張っているところがあったのに、この部屋ではサクラにすべてを委ね、されるがままに任せている。
 なんでこの部屋に来るの?とか。病院にどうして行かないの?とか。疑問がないわけではない。でも、それを聞いてしまったら、カカシは黙って消えるだろう。そして、この部屋には二度と来ない。死期を悟った猫みたいに人のいないところを探して、ひたすら傷が癒えるのをそこでじっと待つ。そういう人だ。
「これで終わり」
「助かったよ、ありがとう」
 覗いている右目が、柔和に細まった。どんな顔をして、この人は笑うのかしら。包帯の端を結び終えた手は、いつもなら膝の上にすぐ戻るはずだった。しかし、その手は中途半端な位置で止まる。カカシと目を合わせたまま、サクラの手はゆっくりと上に伸びた。口布の端に、ほんのわずか、指が触れる。カカシは身じろぎひとつすることなく、感情の読み取れない瞳をじっとサクラに向けていた。二人の間には沈黙が広がり、開いたままの窓から湿った微風が流れ込んでくる。やがてサクラは手をおろし、いつものように汚れた包帯の処理をはじめた。
「……次の任務、決まってるの?」
「向こう一ヶ月は、予定が詰まってる」
 何事もなかったかのようにサクラが尋ねれば、カカシもまた普段通りの声で答える。サクラが治療箱を閉じるのと同時に、カカシは木ノ葉ベストを脇に抱えてソファから立ち上がった。
「邪魔をしたね」
 そのまま窓に歩み寄り、来た時と同じようにするりと外へ逃げていった。後には、かすかな血の匂いだけが残る。
「……嫌がらなかったな」
 窓が閉まった無音の部屋で、サクラは呟いた。口布は思ったより薄く、少し力を入れれば、目だけでは読み取れない表情がきっと見られたことだろう。それを自分は確かめたいのか、あるいは。
「よくわかんないや」
 息を吐くと、サクラはソファを立ち、仕事を切り上げることにした。




※春野さんが口布を下ろしてしまったら、二人の関係がはじまってしまうのだよ。



2013/02/28