「じゃあな、サクラちゃん!また来るってばよ!」
「来なくていい!さっさと出てけ!」
 怒鳴り声を浴びせたところで、ナルトはへこたれない。治療したばかりだからなるべく使うなと言ったのに、ぶんぶん振っているのは利き手だ。木ノ葉の英雄と呼ばれる存在なのだから、怪我を負ってはヘラヘラ笑って自分の元を訪ねてくるのは、もうやめて欲しい。頭が痛い。
 扉が閉まると、サクラはどっかりと椅子に身体を投げ出した。机の上には、書きかけの書類が広げられている。神経がささくれ立っている今、慎重さを要する作業はしたくなかった。書類を机の隅に追いやって、上半身をばたりと倒す。今日、これから何しよう。やることはいくらでもあるくせに、思いつかない。
「なんか……めんどくさいな」
 ごろりと顔を横たえると、ぼそりとつぶやいた。うるさく小言を浴びせたり、拳骨を落としたり。そういう振る舞いが好きなわけではない。そういうがさつな自分は、はっきり言って嫌いだ。周囲に与えるイメージも悪い。
 ナルトにいい人ができたら、こんなことしなくて済むのにな、と思う。いくらなんでも、人の男に手なんか上げたりしない。ナルトに優しい言葉だけをかけてやれるのなら、サクラだって嬉しい。何くれとなく世話を焼いてくれる女の子がいたら、ラーメンしか食べない生活を叱ったりしなくて済むし、その子を泣かせないようにとナルト自身も怪我に気をつけることだろう。子供になつかれている姿はよく見るけれど、女の影は一向に見えない。ほとんど毎日一楽で空きっ腹を満たし、任務でドジを踏めば反省の素振りもなくサクラに治療をねだる。
 かれこれ一年前に、七班は解散した。サクラは医療忍者の必要に合わせた任務編成に変わり、下忍生活にようやく終止符を打ったナルトも多種多様な面々と任務を共にしている。二人の間に接点はもうない。だというのに、なんで今もいちいち構ってやらなきゃいけないのか。こんなのは義務でも何でもないはずだ。そもそもナルトが独り者なのは、自分が居るからじゃなかろうかと思えてくる。保護者みたいな女が側をうろついてる男に、一体誰が近づくというのか。
「よーし、決めた!」
 ガタン、と椅子から立ち上がり、サクラは密かな決意を固める。




「へ?サクラちゃん、いねーの?」
 ナルトは負傷した肘を手ぬぐいで押さえながらそう言うと、ぽかんと口を開ける。病棟に続く廊下の真ん中で立ち往生だ。
「今は、席を外されています。それに、治療はちゃんと受付を通してもらわないと困るというのが、サクラさんからの言伝です」
 看護士の対応は、ただの方便にすぎない。つい先ほど、口裏を合わせてナルトを止めるように拝み倒したのだ。サクラは今、曲がり角の壁に寄り添ってナルトの様子を探っている。気配を殺しているため、サクラの存在に気づいた人間がぎょっとして立ち止まる。奇怪なものを見る視線に頓着することなく、サクラは探りを入れ続けた。
「……じゃ、どうすりゃいーんだってばよ」
 不貞腐れた顔で、ナルトは看護士に問いかける。「だっから受付通せっていつも言ってんだろうが!」と拳骨を食らわせたくなる自分が、かなり残念だ。看護士に無理を言うことなく素直に引いたのだから、それだけでも十分だろうに。いつから自分はこんな気質になってしまったのか。
「治療室に通しますから、椅子に座ってお待ちください」
「……はーい」
 しょんぼりした背中が、治療室のある反対側の建物に消えていく。サクラは気配を消したまま仕事部屋に移動し、後ろ手でバタンと扉を閉じた。
「よし。まずは成功、か」




 神経を使ったのは、最初の二週間だけだった。一ヶ月後にはナルトの居ない日常にすっかり慣れ、二ヶ月経った今では、静かな毎日を満喫している。サクラは現状に満足していた。だいたい誰かを叱るというのはえらくエネルギーを必要とするし、心を乱されることがなければ仕事もはかどる。虫の居所が悪いせいで書類を書き損じることもなければ、身近な人間に八つ当たりをしてバツが悪い思いをすることだってない。世界って、案外穏やかだ。
「……んだってばよ。わははー!」
 渡り廊下を横切っていると、中庭から声が聞こえてきた。ひときわ騒がしくしているのは、ナルトだ。ここで気づかれでもしたら、この二ヶ月やってきたことが無駄になる。サクラは柱の影に背を寄せて、ナルトが去るのを待つことにした。
「ナルト先輩、あの場面でも冷静でしたもんね。オレも見習いたいです」
「だよな!オレらとはやっぱ格が違いますよ。焦るってこと、ないですもんね」
「ジョーキョー判断はね!下忍の頃からテイヒョーあったからね!まかせろってばよ!」
 どの口が言いやがるんだ、このウスラトンカチ。胸中で呟いた言葉だが、元チームメイトの口癖がうつってしまった。人の言うこと聞かずに飛び出してばかりだったくせに、何を言うか。ここ最近保たれていた心の平和が、ちょっとずつ崩れていく。このままでは気配が乱れかねない。
「なんたってナルトさん、最強の下忍でしたからね」
「上忍でも勝てないんじゃないかって、噂の的でしたよ」
「そりゃ言いすぎだってばよ。いや、そうでもないのかな?わははー!」
「あのはたけ上忍が、『あいつはオレより強いよ』ってさらりと言ってましたよ」
「もー!カカシ先生ってば、オレんこと持ち上げすぎ!でも本当のことだから仕方ないか!」
 なんかもう、殴りたい。このまま突っかかって、殴りたい。元チームメイトがこの場に居合わせたら、「一発ブン殴ってきて」と間違いなく頼んでいる。きっと彼も「よしきた、まかせろ」なんて言いながら喜んで請け負ってくれることだろう。
「今回だって、オレらを庇いながら怪我ひとつないんですから、尊敬しますよ」
「まあ、オレってば火影を目指す男だからね!そんぐらいできて当たり前っていうの?」
 この言い草には、カチンと来た。しれっと言いやがるしたり顔に、猛烈な怒りがこみ上げてくる。だったら何か。できるくせに今までは手を抜いてたのか。わざわざ手傷を負っていたというのか。
 やれ怪我をしたからここを治せ、簡単すぎる任務はお断り、ラーメン以外は食いたくない、本を読めとか意味わからん。ナルトが取ってきた言動の数々が、奔流のように脳裏を駆け巡る。あれだけ面倒を掛けさせといて、当たり前なんて言葉で済ませてしまうわけか。ごうっと効果音が出そうなほど、胸の中で憤怒が燃え広がる。
 ああ、もうやめだ、やめやめ。どうなろうと知ったこっちゃねー。サクラは足音を鳴り響かせてナルトの背後に近寄る。ナルトと任務を共にしたと思われる忍二名が、サクラの存在に気づいて、さっと顔を青くした。
「えっと、オレらは先に失礼します!お疲れ様でしたー!」
 深々と頭を下げて、後輩たちは足早に散っていった。
「ん?おう、お疲れさーん。またなー」
「こぉのバカナルト!できるんなら、なんで最初っからやらないのよ!」
 金色の頭めがけて、ごんっと思い切り拳を振るった。多少チャクラが漏れ出たが、石頭にはさほど効かないだろう。潰れた蛙みたいな声をあげて、ナルトの身体が沈む。そして頭をおさえながら振り向くと、ふにゃりとだらしなく顔を緩ませた。
「へへー!やっと口利いてくれたー!」
 尻尾が見えた。耳も見えた。なんだこいつ、犬か何かか。
「ねーねー、最近のオレ、カッコ良かった?怪我もしないし、スマートに任務やっつけちゃうし、チョーすげえデキる奴でしょ?ご飯だってちゃんと食べてるってばよ!あのね、昨日食べたのはね、」
「バカ、近い!迫るな!」
 手のひらを顔面に押しつけてぐいぐい遠ざけるが、ナルトは引く気がないらしい。めげずに顔を寄せてくる。
「あたた、痛い、痛いってばよ」
「だったら離れなさい!」
「やだってばよー。だって久しぶりだもん。サクラちゃん、会いたかったってばよー」
「だからくっつくな!」
「ぐおっ!」
 腹に肘を食らわせば、身体がくの字に折れ、地面に膝をつく。公衆の面前でなくとも、こんな風にじゃれつかれたら困る。そういう接し方は、困る。どうしたらいいかわからない。
「作戦、大成功だってばよ」
 生理的に出てきたであろう涙を滲ませながら、ナルトはニッと笑う。
「作戦って、何よ」
 じろりと睨みつけるが、ナルトは答えを返さない。返答次第では、サクラにも考えるところがある。自分を釣り出すためにわざと大口を叩いたというのであれば、容赦はしない。今度こそ完全に接点を絶ってやる。次は二ヶ月どころではない。一生ずっとだ。
「オレんこと、ちゃんと見てて」
「はあ?」
「オレ、ラーメンばっかの生活やめるし、任務の内容に文句言わねーし、怪我しないように頑張るから。サクラちゃんに怒られないようにちゃんとするから、ちゃんと見てて」
 いてて、とつぶやきながら腰を持ち上げると、じっとサクラに視線を注ぐ。自分を見下ろす角度が、また高くなった。ふざけた笑みは、その顔から消えている。
「火影になるから、ちゃんと見てて」
「……まあ、見てるだけなら……」
 もごもごと口の中で呟くと、ぱあっと顔が輝き、同時に精悍さも失われる。なんだってこう、犬っぽいのだろう、こいつは。あれだけ業腹だったというのに、すっかり調子が狂ってしまった。
「じゃあ、仲直りっつーことで!」
 ナルトは強引にサクラの手を握ると、ぶんぶんと振った。
「別に、喧嘩してたわけじゃないでしょ。あと、手、離して」
「喧嘩じゃないけど、喧嘩みたいだったから、オレずっと気にしてた」
「そう?気のせいよ。手、離しなさい」
 手の振りは次第に緩やかになり、二人の間でゆらゆら揺れる。
「いい加減、離しなさいっての」
「うん。でも、二ヶ月も会ってなかったから、もうちっとだけ」
 そう言われると、心の平穏を保つためだけにナルトを避けて通っていた自分が薄情に思えてくる。気が済むまで手を握らせている間、この二ヶ月、何を食べていたのかを延々聞かされた。一楽は週に三回、昼に食べると決めているらしい。野菜は火を通すと量がとれるので、肉をたっぷり入れて炒めるのが定番だという。味つけはラーメンと一緒で味噌が好物。今度は煮物に挑戦するんだと、以前なら考えられなかったことをナルトは語った。
 意外とまともな食生活を聞いているうちに、腹の中の苛々はすっかり消えうせ、怒りは無事に鎮火した。食生活に気をつけて、任務でも怪我をしないよう注意を払う。それができるのだったら、ナルトとの接点を絶つ必要もない。別れ際、「またね」と思い切り手を振るナルトに、サクラも小さく手を振った。
「今度、何食べてるのか見に行ってやろうかしら」
 誰も居ない廊下を歩きながら、サクラは笑った。




※ナルト相手だと途端に口が悪くなる春野さんが大好きです。




2013/2/25