「ただいまー」
 玄関のドアを開けると、家の中は真っ暗だった。最近バタバタと忙しくしていたし、とうとう家に帰れなくなったのかもしれない。サクラが職場で寝泊りするのは、時々ある話だ。ちゃんとメシ食ってんのかな、とサクラの身を案じながら、玄関の灯りをつける。サンダルを脱ごうと足を動かせば、ゴム底に何かが掠った。
「ん?」
 視線を下に落とすと、サクラの靴が転がっている。どうやら倒れた靴の履き口を蹴ってしまったらしい。汚していないことを確認してから、さっと軽く手で払い、靴の踵を揃えた。
 サンダルを脱ぎ、額宛を外しながら居間に向かう。ソファの背もたれには、ハンガーに掛かったサクラの上着が、無造作に置かれていた。玄関の靴が倒れていたのは単なる偶然と気にも留めていなかったが、上着に皺がつくのを嫌がるサクラがハンガーごと放置というのはおかしい。ナルトの脳裏に、とある予感が過ぎった。
「まさかの電池切れ、とか?」
 ハンガー片手に寝室に足を向ければ、途中にある脱衣所の扉が中途半端に開いていた。扉の隙間から中を覗くと、浴室のドアは開きっぱなしで、換気扇もかけられていない。ついでに汚れ物を入れる籠のフタは全開だ。全部が全部、途中で力尽きたように放り出されている。ナルトはいよいよ覚悟をした。とうとうこの日がやって来たか。
「こりゃ、明日の朝は一仕事だな……」
 寝室に置いてあるクローゼットの中に上着を吊るしたハンガーを収めて、ベッドに近づく。サクラは、まるで行き倒れのように、うつぶせの格好で寝ていた。もしかして昏倒しているのか、と慌てて顔を近づけると、わずかばかりに寝息が聞こえる。
 どっかりとベッドサイドに腰を落としたところで、起きるはずもない。わしゃわしゃとサクラの髪をかき混ぜながら思うのは、ただひとつ。
 どうかお手柔らかにお願いします。それだけだ。




 目覚まし時計が、けたたましい音を立てて朝を告げる。時間をセットしたのは、サクラだ。お世辞にも朝に強いとは言えないナルトだが、あくびを噛み殺してむくりと起き上がる。身支度にかかる時間を考えると、残された猶予は三十分といったところか。よし、と気合を入れて布団から出ると、ベッドの反対側に回ってサクラの身体を揺する。
「サクラちゃーん、朝だよー」
 右に左に揺すったところで、反応はない。今度はサクラの耳元に顔を近づけて、声を張る。
「朝だぞ!起きろ!」
 怒鳴るのは気が引けるとか、そんな悠長なことを言っている場合ではない。必死の訴えを何度か繰り返すと、サクラはようやくもぞりと身動きをした。
「あと五分寝かせて……」
「ダーメ。五分じゃきかないでしょ」
「五分経ったら……起きる……」
「だーから寝るなって!今起きなきゃ間に合わないってばよ!」
 仕事のピークを超えて電池切れになったサクラを起こすのは、ナルトに課せられた最大の難事と断言していい。年に一度あるかないかの一大イベントとでも言おうか。
 とにかく起きない。何をやっても起きない。いつもは目覚まし時計が鳴った直後にスッと目を開けるくせに、力の限り揺すっても、大きな音を立てても、火事だと喚いても無駄だ。目が開かないし、着替えることすらままならない。「何で起こしてくれないの!」と叱られるのは諦めがつくとしても、寝ぼけたサクラと自分以外の男を引き合わせるのは断固として避けたい。何を言っても「うん」しか答えないので、誘いをかけられたらアウトだ。
「はい、ちゃっちゃと起きる!」
 布団を剥ごうとするが、物凄い力で止められる。無理やり引っ張ったら、布団カバーが千切れて使い物にならなくなる。下手をすれば、掛け布団が裂けて大惨事になるだろう。ナルトは布団の端をしっかりと掴んでいるサクラの手を取ると、指を一本一本開かせようとする。しかし、封印でも施されているのかと疑いたくなるほどピクリとも動かない。
 どうすりゃいいんだ、と頭を掻き毟るナルトの視界に、すっと影が伸びてきた。サクラの両腕が首に巻きつかれ、思い切り引っ張られる。
「どわっ!」
 ヘッドボードに激突しかけたところを、なんとか右手一本でこらえた。ここで頭を打って気絶でもしたら、二人揃って遅刻すること間違いなしだ。なおも力まかせに引っ張ってくるのをこらえていると、身体の下から声がした。
「……このまま一緒に寝る」
 甘えきったその声色に、うっかり欲情してしまった。無意識に伸びてしまう左手に、ハッと我に返る。
「そういうこと言うなら、夜にしてくれよ!いくらでも付き合うからさあ!」
 ナルトは眉尻を下げて、情けなく懇願する。このまま欲に負けるわけにはいかない。首に巻かれた腕を外しにかかるが、どうにも様子がおかしい。
「……あれ?抜けねえ……なんだこれ、ちょっと!」
 ふんぎーと潰れた声を上げながら、ナルトはサクラの両腕から逃れようと奮闘する。
「だあっ!外れねえ!サクラちゃん、起きろってぇ!オレも遅刻する!」
 ナルトの悲痛な叫びもなんのその。死んだように寝こけるサクラが目を覚ます気配はない。




2013/01/03