ノックもそこそこに扉が開き、仏頂面の火影が「お邪魔します」の一声もなしに部屋に踏み込んできた。その風体たるや、まるで殴り込みだ。口を真一文字に引き結び、火影の羽織を乱暴に脱ぐと、背中の部分を握ったまま大きく振り上げる。ソファに羽織を叩きつけるかと思いきや、それはさすがに憚られたようで、大事そうにソファの背もたれに掛けた。そして、執務机についているサクラに身体を向けると、両方の手のひらを思い切り広げてみせる。その行動には何かしらの意図があるのだろう。心持ち眉根を寄せて、サクラは悩む。
「……ごめん、手相見るぐらいしか思いつかない」
「十分!」
「はあ」
「十分だけ、オレは火影であることをやめます!」
「簡単にやめていいもんなの、それ」
「じゃあ、忘れる!十分だけ、何もかんも忘れる!これでいい!?」
 どうやらよっぽどつまらないことがあったらしい。そういえば、ナルトが今推し進めようと奮闘している計画は、どう頑張っても上層部の賛同を得られそうにないと伝え聞いた。なんとか根回しをしている最中だが、上層部の顔ぶれが変わらない限り無理じゃないかとシカマルが零している。さては壁にぶち当たったか。火影の憂さ晴らしに付き合うことを決めたサクラは、筆を置いて椅子の背もたれに身体を預けた。
「はいはい。いいわよ、どーぞどーぞ」
 幸い人は出払っているし、文句でも何でもぶちまければいい。このまま青少年の主張に突入するのだろうと思ったが、ナルトが喋り始める気配はない。両手を左右に広げて突っ立っている。何のパフォーマンスだろうと見届けていたら、ナルトがようやく口を開いた。
「サクラちゃん、こっち!」
「何よ」
「飛び込んで来いっつってんの!」
「ええ?私が?」
「サクラちゃん以外に誰がいるんだってばよ」
 いいから早く、と急かされるが、こっちだって仕事の手を止めているのに、何だってわざわざ移動しなければならないのか。サクラは負けじと腕を広げる。
「そっちが来なさい」
「オレは!抱きつかれたいのっ!」
「だって、立つのめんどくさい」
「もー!これだから書類仕事ばっかの人間は!」
 大股でずんずんと椅子に近づき、サクラの前に立ち止まる。そして膨れ面のまま両腕をばっと広げると、右に左に小さく揺れた。どう抱きつこうか悩んでいるらしい。椅子に座っている状態だと、ナルトの腹のあたりに頭があるので、しゃがまない限りは抱きつけない。このまま動かなかったら、苛立ったナルトが身体ごと抱え上げてどこぞへ連れ去る可能性もある。この際サービスだ。立ち上がる。するとナルトは待ってましたとばかりに思い切り抱きつき、サクラの背中に回した手に力を入れる。
「引退したら、オレはサクラちゃんのことだけ考えて生きる」
「明日のご飯の心配ぐらいしなさいよ」
「やだね!余計なことは何も考えない!」
「子供じゃないんだから」
「子供みてーに甘えて過ごす。膝の上で日がな一日ごろごろしてやる」
「足が痺れるじゃないの。勘弁してよ」
 いつになく駄々をこねてくる困った火影の背中を、手のひらでぽんぽんと叩く。羽織を脱いでいるとはいえ、威厳もへったくれもない。ナルトを慕う里人や忍達にはとても見せられない姿だ。屈強と聞こえが高い歴代火影達も、こんな風に近しい人間に拗ねてみたり、伴侶に甘えたりしたんだろうか。
 師匠である五代目は誰かれ構わず怒鳴り散らすことはあっても、毅然とした態度は決して崩さなかった。初めて姿を見かけた時は、その風格に圧倒されたものだ。五代目の前任だった三代目とは、アカデミー在学中に少しだけ話をしたことがある。上の世代には怒られるだろうが、サクラの世代にとっては「優しいお爺ちゃん」という印象が強い。自分たちが甘えることはあっても、三代目が誰かに甘えるなんて、とても想像がつかない。じゃあ、四代目はどうだろう。カカシからは「非の打ち所のない完璧な忍」と聞いている。なんたって里を救った英雄だ。器が大きくて包容力のある人だったんじゃないかな、と勝手に想像している。
 今は子供みたいにむくれている目の前の男も、四代目と同じく英雄には違いない。里長となればそれなりに体面が必要で、周囲の友人たちも里人の前ではナルトに軽口を叩くようなことはしない。執務室でも「精悍な青年火影」の顔を保つ努力をしている。きっと、疲れるんだろう。大きく吐いた息が、首筋に掛かるのを感じながら、サクラは思いを馳せる。
 歴代の火影にも、こんな風に甘えられる相手がいたのかもしれない。師匠である五代目にも、皆のお爺ちゃんだった三代目にも、伝説の域に達している初代や二代目にも、命がけで里を災厄から救った英雄である四代目にも。きっと、たぶん。
「……ちゃんと忘れられてる?」
「お蔭様で。バカでよかった」
「よーしよし、あんたはよくやってるわ」
 腕を伸ばして、いい子いい子とかいぐってみる。
「ほんとにそう思う?」
「思うわよ。だから、少しでも息が詰まったらここに来ること」
 忍の里を背負うなんて、よっぽどタフじゃないとやってられない。こちらもそれなりに忙しい身の上だが、この男の弱さも泣き言も八つ当たりも、ひとつ残らず引き受ける覚悟だ。この立場を誰かに譲るつもりは毛頭ない。火影の側に居続けるというのは、そういうことだ。
「そういう情けない顔を見せるのは、私の前だけにしときなさい。わかった?」
 ナルトはぎゅうっとサクラに抱きつくと、黙ったまま頷いた。




※ずいぶんと立派になっちゃってるナルトですが、少し情けないところが残ってるぐらいが、私は好きです。




2012/12/04