作り置きの豚汁に魚を焼いて簡単な夕飯をとり、一人分の食器を洗っていた時のことだ。ガタン、と玄関扉の開く音に続いて、人の気配が家の中に入ってくる。もしかして早めに任務が終わったのかな、とほのかな期待を寄せるが、なにしろ声が聞こえてこない。まさか物取りとも思えないが、蛇口を締めて玄関に向かった。
「あれぇ?」
 廊下に出ると、小上がりに腰を落としたサクラの背中が見えた。ナルトはたちまち笑顔に変わり、どたどた駆け寄る。
「おっかえんなさーい」
「ごめん。ただいまって言う気力がなかった」
 気力と体力を、一滴残らず絞り尽くしたらしい。肩を落として壁に寄りかかり、声にも覇気がない。カカシのように寝たきりにはならないが、こうして家に辿り着くのもやっとな時がしばしばある。任務で必要ならば考える余地もなく力を行使するのが忍だ。自分だって例外ではない。だからナルトは何も言わない。表情だって変えない。
「気にすんな」
 背後にしゃがみ込むと、とりあえずベストを脱がせる。任務後はこれが重い上に、蒸れて暑いのだ。もう少し軽量化されてもいいのに、とナルトはいつも思っていた。くの一に人気がないのはそのせいだろうし、機動性を重視する輩の口からも不平不満が耐えない。
「まだ風呂入ってねーから、寄りかかっても平気だよ」
 そう言うと、サクラは遠慮気味に体重を掛けてくる。額宛の端を緩めて頭から外し、脱がしたベストの上に重ねて置いた。
「玄関で下着姿ってのは勘弁してね」
「そこまで脱がせねえよ」
 言いながら肘あてを取り去り、サンダルのベルトを緩めた。窮屈だったのだろう、サクラの足がもぞりと動く。
「髪紐取っちゃう?」
 無言で頷くのを受けて、するりと外した。髪を解いたことでようやく気が緩んだのか、サクラは身体の力を抜くと、ほっとしたように息を吐く。
「しばらくこのままじっとしてるか」
 抱きかかえて奥に運ぶのは楽だが、サクラはたぶん「ソファが汚れるから嫌だ」と言うだろう。そのまま風呂場に直行するにしても、気力を回復させるのに時間が必要なはず。風呂ならいつでも喜んで入れてやるのだが、暴れて嫌がるのは目に見えていた。何もしないでじっとしているのが一番だ。
「遠慮しないで、力抜けって」
 肩に手を乗せてこちらに引き付ければ、ようやく身体全部を預けてきた。
「至れり尽くせりね」
「しんどかったな。お疲れさん」
 任務が終わって人の待つ家に足を踏み入れた時の安心感は、言葉じゃ言い表せない。一人きりの真っ暗な家に帰っていた頃の自分には、もう戻れないだろう。この家に灯るオレンジ色の明かりや、そこかしこに染み付いている生活の匂いは、幼少期の薄暗い記憶を綺麗に書き換えるだけの強い力を持っていた。
「この暮らしってさ、いいことあるのってオレばっかじゃね?」
 二人で暮らしはじめてから、家に帰るのが楽しみで仕方ない。今日だって本来ならすれ違いで顔を見ることも叶わなかったはずなのに、こうして話をすることができた。この家にいると、驚くほどにいいことしかない。
「実家にいれば、もっと楽なんだろ?よくわかんねぇけど。今の生活、キツくないか?」
「あんたも色々考えるのね」
「そりゃ考えるさ」
「しかもつまんないことばっか」
「つまんなかねーだろ」
「私が選んだ生活だもの。親元で楽してられる年でもないしね。それに、いいことあるのは、あんたばっかりでもないわよ」
「そうかなあ」
「待っててくれる人がいて、しかもこんな風に甘やかしてくれるんだもの」
 少し気力が戻ってきたのか、ぐっと身体を押し付けてくるので、抱える腕の力を強めた。
「いやー絶対オレの方がいい思いしてるって。実家だって父ちゃん母ちゃんが迎えてくれんだろうしさ」
「わっかんない人ねぇ。あんただって任務帰りに私が玄関まで出迎えたら、ニッコニコ嬉しそうに笑ってるでしょーが。どうせ出迎えされるんなら、惚れた男の方がずっといいでしょうよ。わかったら返事は?」
「……わかりました」
 惚れた男、だってさ。腕で囲った身体を軽く揺らしながら、ナルトは言葉を噛み締める。疲れて頭が回らないと、普段は自制している言葉の数々が無意識に垂れ流される。きっとサクラはそのことに気づいていない。やっぱり、自分の方がずっとずっといい目を見てる。
「ほんとに、この生活楽しい?」
「楽しいわよ、ちゃんと」
「オレと居て楽しい?」
「楽しくなかったら、さっさと出て行ってる」
 人一倍愛されたがりな貪欲者の口は止まることがない。聞きたい言葉は、まだまだ山のようにある。どれだけ浴びても麻痺することなんてない、いくらでも心に溜めておきたい言葉たちだ。ふとした時、たとえば風呂場で髪を洗っている最中や二人分の食料を詰めた買い物袋をぶら下げて歩く帰り道なんかにふっと浮き上がり、足のつま先から頭のてっぺんまでを幸せで満たしてくれる。足元がふわふわして、地面に足裏を着けている感覚がなくなるのだ。サクラは自分を喜ばせる天才だなあと思う。
「図体デカいけど、邪魔じゃない?」
「私より小さかったのに、よく育ったなあって思うだけよ」
 サクラはそう言って、右手を乗せているナルトの膝を、とんとん、と軽く叩いた。
「それに、頼り甲斐があっていいじゃない。こうして凭れかかるの、気持ちいいしさ。なんか安心する」
「……そりゃどうも」
「いいこと多いよ、私にも」
 やっぱり、サクラは自分を喜ばせる天才だ。体中を駆け巡る血の流れが一気に速くなり、体温を押し上げる。緩みきった口元をそのままにサクラの身体を抱え込み、首筋に顔を埋めた。




2012/09/01