贅沢な涙



贅沢な涙




 それじゃ、と手を振るサクラに思い切り手を振り返し、玄関の扉を閉める。二時間ずっと喋っていたせいだろう、サンダルを脱いで部屋に戻ると、沈黙が耳につんと突き刺さった。テーブルの上では、いつも使っているマグカップと小さめのティーカップが向かい合っている。それぞれの取っ手に指を引っ掛けて、そのまま台所に運んだ。さっさと洗わないと茶渋がこびりついてしまう。
 スポンジに洗剤を染み込ませ、きゅっきゅと音を立てて洗っていると、目尻や頬が濡れているような気がした。手が離せないので、着ている服の上腕部でぐいっと拭う。見れば拭った箇所はかすかに濡れていた。汗だろうかと思うが、発汗するほど暑くはない。とすれば、考えられるのはひとつ。
「おいおい、冗談だろ?」
 ただカップを洗ってるだけなのに、なんで泣いてんだ。理由もわからず、半分笑いながら、カップについた洗剤を水で流す。
「勘弁しろよー、止まんねー」
 なんでか知らないが涙が出てくる。辛いわけでも、悲しいわけでもない。寂しいかと問われたら、そりゃ二人から一人に戻ったんだから、寂しい。けれども、泣くほどのことじゃない。こんなのは何回も繰り返してきたことだし、次の逢瀬を楽しみに待てばいいだけのこと。理由はいったい何なんだ。腹が立つやら情けないやらでさっさと止めたいのだが、どうしようもない。なにせ泣いているという感覚がないのだ。
「あー……もういいや」
 洗い終えたカップを水切りカゴに置き、タオルで手を拭くと、部屋の真ん中にごろりと大の字に寝転がった。流しっぱなしの涙が、耳のふちをツーっと伝っていく。どうせ一人だ、誰に見られる心配もない。いったん開き直ってしまうと、目尻から耳にかけての生ぬるい感触だとか、突然涙が出てきた理由だとか、そんなものはすっかりどうでもよくなった。涙を流すのなんて、いつ以来だろう。意地っ張りだったこともあり、泣いた記憶はほとんどない。人目も憚らずに泣き崩れたのは、大蛇丸のアジトでサスケに逃げられた時が最後だ。
「ありゃ酷かったなー」
 湧き出る感情に身を任せ、仲間がそこに居るのもお構いなしに泣いていたら、サクラに叱られた。泣いたってサスケくんは帰って来ないでしょ。まったくもって、その通り。
「容赦ねえよな、サクラちゃんは」
 ナルトはそう呟いて、からからと笑う。こんなところを見られた日には、また叱られるかもしれない。男がめそめそ泣くんじゃない。なーんつって。
「ごめん、忘れ物っ!」
 ガタン、という物音に続いて、サクラの焦った声。まさか、と顔を傾けて玄関を見れば、息を切らせたサクラが飛び込んできた。間が悪いのはどちらの方か、ばっちり目が合ってしまう。視界の端、部屋の隅には見慣れない本が二冊置かれていて、これが忘れ物かと判断する冷静さが残っているのが不思議だった。
 恥ずかしいとか格好悪いとか、その手の感情はもちろんあったが、それよりもどう言い訳をするかで頭がいっぱいだ。ついさっき、任務は順調そのものと豪語したばかりだから、その手の作り話は嘘くさくて使えない。
「えーと、あのさぁ、」
 寝転がったまま当惑しているナルトを他所に、サクラは靴を脱いで部屋に入ると、本をバッグの中に仕舞ってから、ナルトの手を引いて起き上がらせた。そのままベッドまで身体を引っ張り、ごろりと寝転がす。続いて自分も身体を横たえると、ナルトの顔をぎゅっと胸元に抱え込む。こりゃだいぶ勘違いしてるな、とナルトは思い、とんとんとサクラの腕を軽く叩いた。体勢的には「ギブアップ」であるが、この場合は「オレは平気です」という合図だ。
「別に、嫌なことがあったとか、そういうんじゃねえんだよ。オレ自身よくわかんないけど、勝手に出てきたんだ」
「うん」
「ここに居てくれんのはもちろん嬉しいんだけどさ、もし心配してるんだとしたら、それはなんかちげーよな、と思うわけでさ」
「うん」
「このまま帰っても大丈夫だよ?たぶん説得力ないだろうけど」
「というかね、私の問題なのよ」
「……はあ」
 話がずいぶん飛んだ。「というかね」という言葉がどこにかかるのかわからない。どうやら全く伝わっていないらしい。ナルトは話がこじれることを覚悟した。
「あんたがそう言うんなら、きっとそうなんでしょ。前と違って遠慮しなくなったし、私に居て欲しいならちゃんと言うだろうし」
「うん、言うよ。居て欲しかったら、ちゃんと言う」
「でさ、私の問題ってのが何かっていうとね、話はだいぶ昔に遡ります。どんくらい昔かっていうと、アカデミーとか下忍になりたての頃ね。あんたがどんなに私のこと気にかけてても邪険にして、邪魔者扱いしたでしょ」
「そんなこともありましたね。まあ、昔のことだしね」
 ナルトにとって大事なのは今だ。サクラが振り向いてくれたのだから、過去のことなんてどうだっていい。 あれはあれで、懐かしい思い出だ。オレもよく頑張ったもんだ、と微笑ましく思ったりもする。
「私にとってはそう簡単に片付けられる話じゃなくてね、あの頃とずーっと繋がってるの」
「ふぅん」
「だからさ、あんたがよくわかんなくて泣いてる姿とか見ちゃうとね、もうダメなわけ。あの頃の自分が取ってた態度とか、許せなくなっちゃうわけ。さっさと抱きしめておかないからそういうことになるんだって、自分に説教したくなるの」
「そんな大昔のこと気にされてもなぁ……」
「だから言ってるじゃない。私の問題なんだって。見られたのが運の尽きってところ。あ、もしかして迷惑?」
 腕の力を緩めるサクラに、とんとんとまた腕を叩いて返した。役得とまではいかないが、抱きつかれることを迷惑がるわけがない。気が済むまでこうしていたらいいとナルトは思う。
「あのさ、途中で休憩って入んないの?」
「どして?お手洗い?」
「風呂入りたいんだけど」
「しばらく我慢」
「ええー」
 気づけば涙はとっくに止まっていた。あれは何だったんだろう、とサクラにぎゅうぎゅう抱きしめられながら思い返す。することがないからだろうか、一度はどうでもいいと思ったはずの理由が、だんだんと気になってくる。
 二人から一人に戻ったことを、誰もいない部屋の中、残されたカップを洗うことで実感した。もしもそれが涙の理由だというのなら、それはずいぶんと幸福な涙だな、とナルトは思う。だって、そこには他者がいる。しかも自分のことを愛してくれる人だ。物心ついてからずっと欲しがっていたものが、今ではそこにあるのが当たり前になっている。幸福で、なおかつ贅沢な涙だ。
 腑に落ちない部分もあるにはあるが、泣くほどサクラが好きなのは確かなこと。涙の理由を決めてしまうとナルトは目を瞑り、大人しくサクラの腕の中におさまった。




2012/06/29