春野とネームタグが差し込まれた部屋の前に立ち止まり、扉を二回ノックする。いつもなら返事を待つのに、今日に限ってすぐに扉を開けたのは、夕方締めの資料に目を通しながらだったからだ。 「サクラー、この資料なんだけどさー、」 紙の上に並ぶ文字列から部屋の中へと視線を移すなり、いのは言葉をつまらせた。 サクラはソファの肘にクリップボードを押し当てた格好で書き物をしている。それ自体はかまわないのだが、問題は膝の上にナルトの頭が乗っていることだ。金髪頭は、でかい図体をソファに横たわらせ、ぐうぐうと寝こけている。 「部屋持ちの研究員が、仕事場でイチャつくのはどうなのよ……」 「ああ、これ?ただの不可抗力よ」 サクラは書類を挟んだクリップボードに目を落としたまま、そ知らぬ顔でペン先をナルトに向けた。 「怪我の具合見てたんだけど、疲れてたらしくて寝ちゃってね。起こすのも面倒だし、まあいいかなって。それに返事を待たずに部屋に入ってくるのは、あんたくらいよ」 「それは申し訳ない」 そう言いながら、いのは真向かいの一人掛ソファに腰を下ろす。たとえ不可抗力だとしても、男に膝枕をしている格好を他人に見られたのに、慌てるとか恥らうとかそういう反応が一切ないのはどうなのか。こちらの方が気にしてしまう。 「ナルトと一緒に暮らしはじめて、結構経つわよね」 いのの問いかけに、サクラは視線を少しだけ上にずらした。指を軽く折っているところをみると、経過した月日を数えているのだろう。 「……そういやそうね」 「何か変わった?」 いのは今も実家住まいで、男ができた時は通い妻がせいぜい。同じ屋根の下で暮らした経験はない。それだけに、サクラの返答には興味があった。 「そりゃ変わるわよー」 「へえ、やっぱりそうなんだ。たとえば?」 「冷え性が改善されました」 「……はい?」 「もうね、びっくりよ。布団に入ったはいいけど寒くてしばらく眠れない、なんてことがないわけね。前とは大違い。あら、珈琲がない。あんたも飲む?」 いのが頷くのを見て、サクラはソファを立つ。するとナルトの頭がソファの上に落ちて、鈍く弾んだ。ぞんざいなその扱いからして、本当にイチャついていたわけではないらしい。 「あとはね、冷蔵庫の中身の充実ぶり」 コーヒーメーカーからポットを引き抜き、カップに中身を注ぎながらサクラが言う。はあ、と気の抜けたいのの返事を気にすることもなく、サクラの所感は続く。 「一人暮らしだとさ、下手に野菜買えないじゃない?こいつ、家に居る時はよく食べるし、食べ物を腐らせることがなくなったわね。自炊してた頃にさ、もやし腐らせたことあるのよ。腐ったもやし、見たことある?」 「いや……ないけど……」 「すっごいのよ、ニオイと色が。あの悲劇が繰り返されないだけ、一人暮らしよりはマシだわ。はい、砂糖とミルクは自分でお願い」 ローテーブルの上にカップが二つ置かれた。サクラは再び同じ場所に座ろうとするが、ソファはナルトが占領している。さてどうするのかと見ていれば、サクラはナルトの頭をよいしょと持ち上げ、ソファの端に腰を下ろす。ナルトの頭はサクラの膝の上にドスンと落ちた。 「夜は湯舟を張るのに躊躇がなくなったし、いいこと多いわよー」 サクラの口からスラスラ出てくるのは、生活感溢れる感想ばかりで、二人の関係性については言及されない。惚気のひとつも覚悟していたのだが、そんなものはどこにも見当たらなかった。 「あのさ、私が聞きたいのは、」 そう言いかけたところで、ふと気付く。暮らしぶりは多少変わったらしいが、当人同士に変わった様子が見受けられないとなると、よほど二人の相性がいいのだろう。もしかして、これは新手の惚気じゃないだろうか。 「……やっぱりいいわ」 「何よ、途中で言いかけて」 「大体わかったからいい」 「そう?ならいいけど」 相手の嫌なところが見えてこないか、とか。一緒に暮らすことで面倒ごとは起きないか、とか。聞きたいことは山ほどあったが、この二人の場合、聞いても無駄な気がした。仕事も残っているし、さっさとこの場を退散するのが吉だろう。 「で、用件なんだけど、この資料。あんたの署名も必要なんだってさ。ここにサイン頂戴」 「はいはい、待ってね」 サクラが身を乗り出すと、ナルトの頭がずり落ちそうになる。咄嗟にナルトは寝返りを打ち、サクラの腰に手を回す。まるで猿の子供が母親にしがみつくみたいに。 ああ、やだやだ。やっぱり惚気じゃないの。 「これでいい?」 「ありがと。じゃあそろそろ行くわ。コーヒーご馳走様」 いのの声にサクラはひらひらと手を振って答え、コーヒーを口に含む。部屋を辞する前、ちらりと後ろを振り向けば、腰にしがみついたナルトをそのままに真剣な様子でペンを走らせていた。 「……私も実家出ようかしら」 扉を閉めた後、無意識に漏れ出た言葉に、いのは苦笑する。どうやら惚気にあてられたらしい。サクラの署名が入った資料で顔を扇ぎながら、来た道を戻った。 2011/11/27
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