看護婦が注意する声をいくつも浴びながら、人影が廊下を駆け抜ける。乱暴な手つきで扉が開かれ、荒い息遣いが病室に響く。ベッドに寝そべったままのろのろと顔を横たえると、肩で息をしたナルトが病室の入り口に立っていた。ベッドの住人であるサクラの頬には大きなガーゼが貼られ、手や頭にも包帯が巻かれている。その姿を見るなりナルトはきつく顔をしかめ、やがてゆっくりと近づいた。
 退院となる今日、母親が迎えにくるはずだったのに、なぜナルトがここにいるのか。任務は無事に終わったのか。怪我はないみたいだが身体は平気なのか。それらの疑問を口にする隙はなく、ナルトは手早く荷物を纏めると、退院手続きをしに病室を出ていった。退院直前まで寝ているぐらいだ、身体にはまだ倦怠感が残っている。それでも家への帰途に着くため、サクラは上半身を起こした。着替えを済ませ、簡単に身支度を整えたところで、ナルトが病室に戻ってくる。
「……手続きとか、色々ありがと」
 ナルトはそれに返事をすることなく、サクラの前に背を向けてしゃがみこんだ。
「乗って」
「一人で平気よ」
「乗らないと、勝手に抱えて帰るけど。それでもいいの?」
「ほんとに大丈夫だから」
 意地でも乗ろうとしない様子にナルトは立ち上がると、サクラの背に腕をまわし、膝裏をすくい上げようとする。サクラはそんなナルトの胸をドンと押すが、力が入らないため、ナルトの身体はびくともしない。
「じゃあ、おとなしく乗れって」
 珍しく、口調が荒い。サクラはそれ以上抗うこともなく、その背に身を委ねた。




「……怒ってる?」
 家へ帰る道中、あまりに重苦しい沈黙に耐え切れず、サクラがぽつりと零した。
「なんで」
「わかんないけど……留守の時に怪我したこと、とか?」
 サクラが手負いで里の大門を潜ったのは、ナルトが里外任務に出ている時のことだった。「医療忍者が深手を負ってどうする!」と師匠に散々怒鳴られ、姉弟子には「綱手さま、心配されていたんですよ?」と慰められ、いのは入院している間ちょくちょく顔を見せてくれた。
 あの局面、自分の身体を投げ出す以外に、何か良策があったはず。自分には、冷静さがまだまだ足りない。ぐっと唇を噛む。
「あとは……あまり心配かけるな、とか」
 はあ、とナルトが深く息を吐いた。苛立っているのか、はたまた呆れているのか。ナルトが何を考えているのかわからず、サクラは心細くなる。
「もし怒ってるようにみえるんなら、それはサクラちゃんに対してじゃない。オレ自身にだよ」
「どうして?」
「折り合いが、どうしてもつかねえんだ」
 ナルトは右手に荷物を持ったまま、背に乗せたサクラを抱えなおす。
「オレらはさ、第七班じゃん。一緒に戦ってきたし、互いに背を預けてここまでやってきた。信頼してるし、スゲー忍者だって思ってるし、任務では何度助けられたかわかんねぇ」
 サクラはナルトの背に揺られながら、黙って耳を傾ける。サクラにとっても、ナルトは仲間であり、相棒であり、大事な戦友だ。戦場で結ばれた特別な絆がある。
「だけど今は、オレにとって一番大事な人になった。念願叶って、一緒に暮らしてる。サイコーに幸せなんだ。だからかな、自分が任務をこなすたび、サクラちゃんも同じ目に遭ってんだなと思うと、時々怖くなる。任務に行って欲しくない、そう思う夜がある。それが辛い」
 ナルトが何を言いたいのか、ぼんやりと輪郭が見えてきた。サクラはますます心細くなり、ナルトの肩をぎゅっと掴む。
「サクラちゃんは火影の弟子で、優秀な医療忍者で、里にとって大事な存在で……わかってる。わかってんだよ、オレも。だから、全部オレの問題なんだ」
 搾り出すような声で、ナルトは言う。
 夏の盛りだというのに秋を感じさせる涼しい風が、さっと通りすぎた。
「……別れたいの?」
 サクラの言葉に、ナルトが足を止めた。
「何でそうなんの?」
「今の関係が窮屈になっちゃったんでしょ?だったら……」
「そうじゃねえだろっ!」
 腹の底から怒りを吐きだし、憤然とサクラに食って掛かる。
「言ったじゃねえか、大事な人だって、サイコーに幸せだって。だからこそ、どうにかしたいって思ってんだ。オレが、オレ自身の狭量さに参ってる。そういう話だよ」
「ねえ」
「ん?」
「私は、どうしたらいい?」
 今の話を聞く限り、ナルトはサクラへの接し方に悩んでいるようだった。一方では戦友、もう一方では恋人という全く正反対の関係を、自分の中にうまく住まわすことができないらしい。だったら、その一方を投げ出してしまうのが一番手っ取り早い。しかしナルトは、恋愛関係を放棄したいわけではないという。だとしたら、道は一つだ。
「何か、できることはある?」
 不安と怯えを抱えながら、サクラはなおも尋ねる。
 忍者を辞めろと言われたら、自分は頷くことができるだろうか。引き際はもちろん大事だ。限界を感じれば引退をするだろう。けれども幼い頃のように「夢はお嫁さん」などと言って忍の道を簡単に切り捨てることもできなくなった。年を重ねるごとに荷物は多くなり、捨てられないものは増えるばかりだ。
「一緒に居てくれ。そんで、できれば笑ってて」
「……それだけ?」
「オレにとっちゃ、最高の贅沢だ」
「忍者を辞めろって、言わないのね」
「そんなの言うわけねえだろ。何度も言うけど、オレ自身の問題なんだって!」
 しまいにゃ本気で怒るぞ、とナルトが語気を荒くする。
「それにな、別れたいなんて誰が思うもんかよ。もしサクラちゃんが願ったとしても、それだけは叶えてやれそうにない」
「それだけはって、他のお願いなら叶えてくれる気あるの?」
「サクラちゃんの願いなら何でも聞いてやるよ」
「じゃあ、結婚して」
「……へ?」
 するりと出てきた言葉だった。
 何も捨てるな、全部持ってろ、オレが何とかする。
 そう思ってくれる、この男とならば。
「ずっと一緒に居るし、できるだけ笑うようにする。だから、結婚して」
「な、な、何でサクラちゃんがそれを言うんだってばよ!そういうのは!オレが言うからっ!」
「どうして?そんなのずるい」
「ずるいって何!ああ、もうっ!」
「ねえ、結婚してよ」
「だーかーらぁ!!」
 よたよた歩きながら、ナルトは答えを詰まらせる。どうやら口をきいたら負けだと確信したようで、唇を真一文字に引き結んでいる。
 家に着くまでに何としても頷かせてやる。
 密かな決意を抱えて、サクラはナルトの背に揺られ続けた。




2011/08/02