指定された店に着いたのは、約束より十分ほど前だった。
 人生を揺るがす大事な話がある。いのにそんな大それたことを言われてしまったら、朝も早くに目が覚めてしまうというもの。いったいどんな相談をされるのか。結婚の二文字が咄嗟に浮かぶ。思えば自分たちもそんな年頃だ。なんだかそわそわと落ち着かず、ずいぶんと早い時間に家を出てしまった。
 約束の時間が近づくまで、里内をのんびり歩いた。なにせ三年ぶりの木ノ葉だ。見慣れない建物や初めて見かける店がそこかしこにあり、大戦後の復興から立ち直った里は、ますます活気付いている印象を受けた。待ち合わせの店内から外を眺めていても、行き交う人々の姿は途切れることがない。額あてを巻きつけた子供が、さっと通りを走り抜けていく。支給されたばかりなのだろう、額あてはピカピカに光っていた。思わず目を眇める。
 カカシ率いる七班として走り回っていた日々が、自分にとって人生最良の時だったように思う。未来に不安がなかったわけじゃない。たいした取り得もなかったし、自分にどんな可能性があるかなんて想像もできなかった。だがそこには、何にも代えがたい確かなものがあったのだ。充実感や達成感、仲間と共にある喜び。言葉にしてしまえば陳腐だが、それは血肉となり、忍としての春野サクラを作り上げた。七班として活動した期間は、実質一年にも満たない。そのわずかな時間が、人生のすべてだった。だとすれば、今の自分は一体何なのだろう。抜け殻が息をしているようなものかもしれない。




「久しぶり、サクラちゃん」
 聞こえてきたのは、懐かしい男の声だった。一瞬、息が止まる。窓の外から正面に目を戻すと、そこには羽織を着たナルトの姿があった。
「な……んで……」
「こうでもしないとサクラちゃん、オレと二人で会ってくれないと思ってさ。里に帰ってきても、ぜーんぜんオレと話してくれないし。しまいにゃ向こうに行ったきり帰らなくなるしさー。オレ、結構ショック受けてんだよ?」
 こちらの様子などおかまいなしに捲くし立て、ナルトは向かいの椅子に腰掛ける。
「えーとね、嘘は言ってないわよ。あんたの身に起きる事件は、たいがい私の人生も揺るがしてくれるから」
「何それ」
「いのからの伝言。ちゃんと伝えとかねぇと、あとでぶん殴られちまう。あ、おばちゃーん。白玉あんみつお願いねー。サクラちゃん、何か頼んだ?」
 メニューも見ずに注文をするところを見ると、ナルトの行きつけなのだろうか。先ほどお茶を運んできた店員が、はいよー、とレジの奥から返事をする。
「いのが来てから一緒に頼もうと思って……」
 メニューに手を伸ばそうとしたところで、淹れたてのほうじ茶がナルトの前に置かれる。そのまま去ろうとする店員に、同じものをもうひとつ頼んだ。
 少しだけ、動揺をしていた。ナルトと二人、しかも向かい合って話をするのはずいぶんと久しぶりで、どんな顔をすればいいのかわからない。火影の執務室以外で会うことは避けていたのに。
 大国を巻き込んだ戦争が終わり、サスケの問題が片付いたのを無事に見届けた後、サクラは里を離れた。医療忍術の民間転用を研究する国の機関に出向し、大きな成果を出している。最初は定期報告をしに里へ戻っていたが、そのうち書簡の往復だけとなり、今日に至る。忍の任務から離れて久しい今、いっそのこと研究員と名乗った方が相応しい。
「そろそろ里に戻ってきてくれないかな、と思ってさ。お、きたきた」
 テーブルの上に、白玉あんみつがふたつ置かれる。もしかして任務の話だろうか?それならば、火影とその部下という関係でかまわないだろう。よし、今日はその線でいこう。
「……帰還要請でしょうか」
 ナルトはあんみつをひとさじ掬い、口元に運ぶ。だが、口をぱくっと開けたまま、スプーンを持った手は固まった。
「なにそれ」
「なに、とは?」
「その堅っ苦しい敬語!なーんか他人行儀じゃねえ?ああ、そうか。なるほどね」
 羽織の襟を空いた手で持ち上げると、うんうんと頷きながらナルトは席を立つ。その場に残されたサクラは、せっかくだからとスプーンであんみつを掬い、一口食べる。あんこの甘みが上品で美味しい。木ノ葉はつくづく、甘味の店が充実している。里を出る前に、もう一度寄ろうか。そんなことを考えながらほうじ茶を啜った。
「おばちゃーん、これ預かっててー」
 大きな声が店内に響いた後、ナルトは席に戻ってくる。すれ違いざま、その背に「六代目火影」の文字はない。羽織を脱ぎ捨てた黒いアンダー姿だった。
「火影って肩書きはさ、この場所に必要ないから」
 ナルトはあんみつに刺さったままのスプーンを持ち、今度こそ口の中に放る。
 火影と部下という関係は、あっさりと放棄された。公的な話ではないということか。何を口走る気なのだろう。ざわざわと胸が騒ぎ、その場を立ち去りたくなる。
「さっき言ったのは、正式な要請ってわけじゃないんだ。個人的なお願い、っていうのかな?」
 なんつったらいいかなーと、珍しく眉根に皺を寄せて、がしがしと頭をかきむしる。
「あのさ。オレ、火影になるまでぜってー死なねぇってよく言ってたじゃん」
「うん、よく聞いた」
 仕方なく敬語を外すと、ナルトは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「でしょ?でも、今じゃもうその地位に就いちまってる。頭がコロコロ代わるのは里の中が安定しないっつーんで、長生きしろってきつく言われてんのよ、オレ。だからさ、火影になるっていう誓いの代わりに、大事なとこで踏ん張れる何かが欲しいっつーか……なあ、サクラちゃん」
 サクラを見るその視線が、熱っぽいものに変わった。
「オレの未練になってくれないか」
「それって……」
「結婚してほしい」
 今朝方の想像は、妙な方向で当たってしまったようだ。まさか結婚の二文字が、いのではなく自分に向けて降ってくるとは。ものも言えずに、サクラは黙り込む。
「オレんことさ、正直どう思う?忍としてではなく、一人の男として」
「立派になったわ。頼りになるし、格好良くもなった。今、あんたを必要とする人はたくさんいる。火影ともなれば、それに相応しい女の人がいるでしょう?縁談もたくさんあるだろうし……」
「自分の家族は、自分で選ぶよ」
「ねえ、だったら今すぐ考え直した方がいいわ」
「考え直す理由がない」
「私、誰とも一緒になる気はないの」
「誰とも?」
「そう、誰とも。だって、私には必要ないもの」
 サクラが里を出た理由は、サスケの問題が大きかった。淡い初恋が迎えた終局は、あまりに救いがなかった。恋しい人の命を奪おうと、幾度も心を殺した。その果てに、サクラは人の愛し方を見失った。幼かった頃、恋は甘く優しく心を満たし、愛は何より尊くサクラの瞳に映った。サスケのことを想えば、たやすくその気持ちに浸れたものだが、ある時を境にそれができなくなった。毒付きクナイをサスケに向けたあの日、サクラの中から色恋の情は消え失せてしまったらしい。どんな風にサスケのことを好きだったのか、わからない。どんな風に人を愛すればいいのか、わからない。
 ナルトを避けたのは、その目に映る自分と向き合うのが辛かったからだ。ナルトが好いてくれた女の子とは、似ても似つかない今の姿。自分を想ってくれるその気持ちは嬉しい。けれども、ナルトに見つめられると居住まいが悪くなる。そんな風に私を見ないで、と心がざわめく。自分勝手な事情でナルトを遠ざけてしまったことは、心から申し訳なく思っている。けれども、愛するのなら、思い出の中の私だけにして欲しい。そうすれば誰も傷つかずに生きていける。
 独りで生きていけるだけの力が、今の自分にはある。この先、誰と添い遂げることもない。こんなしょうもない女のことなど放っておいて、幸せな家庭を築くべきだ。ナルトには、それが似合う。
「じゃあ、なんでそんな寂しそうな顔すんだよッ!」
 穏やかだったナルトの口調が、そこで一変する。その言葉は、サクラの心に引っかき傷をつけた。かっとなり、声が怒気に震える。
「……寂しい?私が!?」
「気づいてねぇのかよ。時々、辛そうにどっか違うとこ見てる。ああいうのに、男は弱いんだ。サクラちゃんが里に帰ってくるたび、沸き立つ野郎どもが後を絶たんのよ」
「私が、男を誘ってるとでも言いたいの?」
「そんなこと言ってねえよ!だけど……困る。里の外でもあんな顔してんのかと思うと、里に連れ戻したくてしょうがない」
 膝の上に丸めた拳をぎゅっと握り、ナルトは搾り出す。
「オレはガキのまんまだ。包容力とか、ねえからよ。肝心なとこ成長してないってよく言われるし。でも、バカはバカなりに利点がある。心変わりができない。バカだから曲げる方法、知らねえんだ」
 尊いな。その気持ちが。まっすぐな心が。
 先ほどの少年が身に着けていた真新しい額あてのように、キラキラとまぶしい。何も失くしてないはずがない。たくさんの傷を負ったはずだ。なのに、どれだけ年月を経ても、そのまぶしさはいささかも鈍りはしないのだ。こんな一途に人を想い続けることって、できるのかしら。
 ナルトと目が合った。いつもなら顔を伏せるか逸らしているはずなのに。そこでようやく、自分がナルトに見惚れていたことに気づく。なぜだろう、今はすんなりと目を合わせることができた。久しぶりに見るナルトの青い瞳には、今の自分が映っていた。少しくたびれた、忍崩れの女だ。
「何度でも言う。オレと結婚してくれ」
 サクラの返事を待つことなく、ナルトはあんみつの残りに手をつけた。顔が赤くなっているのをごまかすように、ばくばくと食べた。そして空っぽの器にスプーンを放ると、黙ったまま店の奥へ姿を消し、羽織を身に着けて戻ってきた。精悍な顔つきの、立派な火影だ。
「誰かと一緒に居たいと思えるようになるまで、オレは待つよ。たださ、オレがこの店に来た時に、外、見てたろ?ああいう顔、他の男には見せないで。そいつにもし掻っ攫われたら、オレどうなるかわかんねぇし」
 ありがとうございましたー、という店員の声を背にうけて、ナルトは店を出て行った。
 ナルトが居なくなった後も、サクラはしばらくそこに座っていた。
 待つって、一体どれぐらい?火影の権限を使えば、里に呼び戻すことなどわけもない。木ノ葉病院にでも縛り付けておけばいい。けれど、ナルトはそれをしない。その代わりに、待つという。今までどれほど待ったかわからないのに、それでも待つという。そこにあるのは、きっと誠意だ。
 まっすぐな目と言葉に触れた時、心の奥底が揺れたような気がした。ともし火とも言えない、ほんの小さな揺らめき。それでも、確かに揺れた。私はそれを知っているはずなのだ。記憶を深く潜ってみるが、思い出せない。もどかしい。
 カラリと店の戸が開き、我に返る。湯呑を持つ手に、知らず力が入っていた。そっと手を離す。
 もしかして私、また誰かを愛してみたいのかしら。
 平静を取り戻した心に、それだけが残った。




2010/10/22