「じゃ、綱手様によろしく」
「はい。確かに受け取りました」
 医療班から受け取った書類には、軽い封印が施してあった。重要度はそれなりに高い。途中で落としたりしないよう大事に両手で抱えて、サクラは木ノ葉病院を出た。
 火影屋敷を目指しながら、中途半端に空いてしまった時間の使い道を考える。今日はこの時間、他国から客が来ると聞いていた。師匠の手が空くまで、あと三十分。ちょうど図書館で借りたばかりの本を持っていたので、空き時間は読書にあてようと決めた。知識を得ることに喜びを感じるタイプであるサクラは、座学に何ら苦を感じない。昼間は限界まで体を動かし、夜は書物を読み耽るうちにいつの間にか寝てしまう。そんな毎日の繰り返しだ。頭をからっぽにすることを無意識に避けているのかもしれない。つい最近も、いのに付き合いが悪いと文句を言われたばかりだ。口ではとやかく言いながらも心配をしてくれているのだろう。だが今は、がむしゃらに走るそのスピードを緩めたくはなかった。
 屋敷の前で警護に当たっている中忍に会釈をして、扉の中へ入る。屋敷の出入りはもちろん、火影との謁見も自由にできた。他にも重要図書の閲覧や、禁帯出図書の貸し出し、演習場の使用権限等々、望めばすぐに便宜を図ってくれる。火影の弟子という肩書きは、実にいろいろな障壁を取り払ってくれた。それに見合った結果を出すことが、自分に課せられた義務だ。サクラは顔が強張るのにも気づかずに、ずんずんと歩く。
 火影室の前を素通りし、その隣の部屋のドアノブを掴む。そこは待機所代わりの喫茶室だった。時間が来るまでそこを使わせてもらおう。ドアを押し開けて、部屋の中を見渡す。室内に人気はなく、集中して本が読めそうだと思ったが、死角になっていたソファの影から赤い頭髪がちらり覗いた。この里ではあまり見ない色だ。他里の人間だろうか?
 確かめるように一歩二歩と進むと、大きな瓢箪がどっしりと床に置かれていた。これは、まさか。いやでも見間違えるはずがない。
 砂瀑の我愛羅だ。
 心臓をひやりと撫でられ、引き返そうかと瞬時に思う。だが、サクラの存在に気づいた我愛羅とばっちり目が合ってしまい、引くに引けなくなった。なんと間の悪い。今後は本を読むなら外のベンチにしよう。そう固く誓った。
 こんにちは、とか挨拶をしたほうがいいのだろうか。だが、それほど親交があるわけでもなし、他里の忍同士で挨拶なんてするだろうか?カカシ先生がこの場にいれば、うまくとりなしてくれるのに。こういう時、場慣れをしていない自分に気づく。戦闘的なことだけでなく、自分にはいろいろな経験値が足りないのだ。
 ひくついてしまう顔になんとか笑みを刻み、迷った末に軽く会釈をする。我愛羅はそれに反応することもなく、ふいと顔を前に戻した。そうですよね、そうなりますよね、わかってました。そしてサクラを襲う次なる難題は、座る位置だ。あまり離れた場所に座るのは感じが悪いし、かといって互いの顔が見える位置はなんとなく気まずいので、同じソファの一番右端に浅く腰をおろす。我愛羅もまた端に腰掛けているため、二人はさながらブックエンドのようだった。
 本を開いてはみるが、内容なんてまったく頭に入ってこない。目で追った文字は、頭のどこにも留まらず、さっと霧散してしまう。暗記は得意分野なはずなのに。火影室は防音が優れているため、漏れ聞こえてくる音は皆無に等しい。廊下を歩く人影もなく、静かなものだ。沈黙が耳に痛い。
「すまなかったな」
「へっ?」
 肩といわず身体全体がビクリと跳ね上がった。しかも咄嗟に出てきたのは、なんとも間抜けな声。だって仕方ないじゃない!とサクラは誰にでもなく言い訳をする。腕を組んでじっと前を睨んでいる仏頂面が、まさか謝るだなんて。誰が想像できるというのか。
「すまなかったと、言っている」
「あ、あの、えと……」
 一体何に対して謝っているのかわからないので、きちんとした応対ができない。それは木ノ葉崩しのことか、あるいは砂の手に捕まれ気絶させられたことか、はたまたチームメイトを傷つけたことか。まごついていると、こちらの困惑を察したのだろう、我愛羅が口を開く。
「うちはサスケの件だ。こちらの力が及ばなかった」
「いえ、そんな……あなた達はちゃんと任務を……」
「いや、十分な助力ができなかった」
 我愛羅はゆっくりと首を横に振る。
 あれから月日は流れ、もう一年が経つ。自分にとっていまだ重く圧し掛かるあの問題も、この人にとっては課せられた任務のひとつにすぎないはずだ。それなのに一年もの間、ずっとそれを胸に抱えてきたのだろうか。中忍試験の時、木ノ葉に脅威をもたらしたこの人が。
 呆然とするサクラを無表情に見ていた我愛羅だが、やがてすっと立ち上がり、この部屋を去ろうとする。
「あ、あのっ!」
 すがるようなサクラの声に、我愛羅の足が止まった。言葉もなくこちらを振り返る。威圧感に、喉がぐっとつまった。
「ありがとう」
 緊張のせいだろう、心臓がバクバクとうるさい。きっと顔は紅潮している。みっともないけれど、早口にならないよう気をつけるのが精一杯だった。
「私達の仲間を助けてくれたこと、とても感謝をしています。大事な仲間なんです。本当にありがとう」
「……任務だからな」
 ふいっと顔を前に戻し、小さくつぶやく。その背中は、木ノ葉崩しで暴れていた異形の姿とはまるで違っていた。ちぐはぐで、まったく重ならない。不器用なその様は、こう言ってはなんだが、ちょっと可愛いかった。
「また何かあったら呼ぶといい。力になる」
 それだけ言うと、すたすたと喫茶室を出る。それと同時に火影室の扉が開いた。我愛羅、ここに居たのか、と最近少し話すようになった砂のくの一が言う。火影の来客とは、砂の忍びだったらしい。
 誰もいなくなった部屋の中。サクラは胸に手をあて、心臓の鼓動をおさめようと息を吐く。次にあの人を見かけたら、笑顔で「こんにちは」と言おう。それから、怖がらずにもう少し話をしてみよう。そうすれば、記憶とは違うその姿が、きっとうまく重なると思う。






※二部開始の前に、この二人は会話をしてるんじゃないのかな。春野さんが「風影」ではなく「我愛羅くん」って呼んでいるのがずっと気になっていた。



2010/06/13