百万遍



百万遍




 森の中に逃げ込むより、策がなかった。雪原はとにかく広大で、自分たちの現在地はもちろんのこと、進むべき方角さえもわからなくなる。しかも、一瞬のうちにだ。降りつづける雪により、背後の足跡は綺麗に消えていく。追跡の手が及ばないことだけが唯一の救いだった。
「置いてってよ」
 せめてサクラだけでも先に逃がしたい。力の入らない身体ではどうしようもなく、もごもごと口を動かすのが精一杯だ。そんな必死の言葉にも、サクラは反応を見せない。じっと前だけを見据え、足を規則的に前へと動かすだけだ。一歩、また一歩と踏み出すその足取りは、交戦の傷跡を微塵も感じさせず、強い意志を伴っていた。それを止める術を、自分は持ち合わせているだろうか。そう疑問に思えども、ナルトの諦めの悪さは折り紙つきで、自らの考えを打ち消すように口を動かす。
「後で回収してくれりゃいいからさ」
 針葉樹の森を抜ければ、そこはもう木ノ葉の陣営だ。サクラが探索の手筈を踏む前に、うまくすれば探知の得意なキバあたりが拾ってくれるだろう。場合によってはそちらの方が早いはず。だが、博打をうつ状況ではないし、自分が同じ立場だとしても、凍死を免れない雪の中にサクラを放り出したりはしないだろう。だからこそ、歯がゆい。
「頼むからさぁ……」
 情けないが、懇願するしかない。サクラを相手に脅迫なんて真似はできるはずがなく、肝心のネタもなかった。強く出られないのなら、甘えてみせよう。呆れた、と放り投げてくれればそれでいい。
「好きな子の背中におぶわれるなんて、男のプライドが許さないってばよ」
「そんなの知ったこっちゃないわよ。くだらない自尊心で命を投げるような真似はしないで」
 やっと返ってきたのは、常よりいささか冷たく、叱りつけるような厳しい言葉だった。
 ああ、やっぱり可愛いし、カッコいいし、自分を罵る声さえも素敵だ。
 首筋に顔を埋めているからか、サクラの温度、そして匂いが直に伝わってくる。自分と同じく汗まみれなはずなのに、いささかも魅力を損なうことなく、かえって欲情さえする。命の危機に瀕すると、動物的な本能が働き、種の保存を訴えかけるのだと聞いた。ならば、今抱える衝動がそれだとでもいうのだろうか?
 そんなばかな。恋ならとっくに落ちている。
 この人、オレのもんになってくれないかなあ、と唐突に思った。自分の恋心に欠落しているものがあるとすれば、それは攻撃的なまでの独占欲だ。だから振り向いてもらえないんじゃないだろうか、とさえ思う。きみが好きだと百万遍言えるけれども、言い寄ってくる男どもを残らず薙ぎ払うほどの激しさがない。女はきっと、そういう男が好きだ。サクラだって例外ではないだろう。
 そして今。オレのもん、なんて言葉がするりと出てきた。心を落ち着かせる。何かこう、どうでもいいことを考える。家に帰ったらトイレの電球を変えないといけない、とかそういうことを。昼飯を食ってる時なんかに、電球を新しく変えなきゃなあと思い出すのだが、家に帰った途端にどうでもよくなくなる。案外どうにかなってしまうので、もう一月近くそのままだ。
 頭をリセットして、深呼吸。もう一度、己の心に耳を澄ます。やっぱり、「オレのもんになってくれないかな」と声がする。こんなの独占欲どころか所有欲じゃないか。新たに芽生えた感情は、豊かな湧き水のようにこんこんとあふれ出し、身体の内側を満たしてゆく。自分の中に眠っていた思わぬ激しさに、困ったなあと弱りながらも、悪い気はしなかった。
 ねえ、きみ。これから僕ら、一緒に寝てみませんか?
 そんなことを言ったら、殴られるかな。きっと殺されるな。くつくつと笑いがこぼれる。すかさず「笑ってんじゃないわよ」と不満げなサクラの声が聞こえてきて、それがまたおかしくてたまらない。
 とりあえず、百万遍言ってみたら、何か変わるかもしれない。






※主人公を背におぶって運んでしまうヒロイン。春野さんなら、ありじゃないだろうか。



2010/03/28